ミモザの花が咲く前に

依田鼓

ミモザの花が咲く前に

「ねぇユキ、コンビニ行こ!」

 部屋には、ストーブにかけられたやかんの底がじりじりと焦げる音が響いていた。その合間に存在するわずかな隙間を埋めるように打鍵音を忙しく鳴らして、いつまで経っても書き終わることのない論文を必死にこねくり回していたところだった。

 ハナは、私の意識を打ち崩すように、唐突な提案をした。

「やだよ。寒いもん」

率直にノーを伝える

「それに終わってないんでしょ」

「だってー」

 論文提出の前夜。学生にとって、卒論が期限までに間に合わないのはすなわち死を意味する。そんな切迫した状況の中、ハナは依然、やる気とかいった概念をさっぱり持たぬままであった。

「腹が減ってはいくさができぬーって言うじゃん?」

曇ったガラスを通したような声。見れば、ハナは「もうだめだ」と言わんばかりにだらりと腕を伸ばしきって、こたつの天板に突っ伏している。

「もう……あと、どれくらいなの」

作業を中断する。その手慰みにみかんをむこうとすると、ハナは手のひらをこちらに向けた。

「五千字くらいかなぁ」

「それ、朝までコースでしょ」

「あはっ、気づかれちゃいましたか」

ハナはにへっと笑った。まだ少し濡れている髪の毛、袖の余るぶかぶかのパジャマ。まるでしぼんだ風船みたいだ。私はみかんの一切れをそのだらけきった手のひらの上に置いた。

 あきれるくらい能天気なハナを見つめる。

 もう、これで終わりだっていうのに。わかってるのかな。

「長いたたかいになるぜ……」

ハナはまるで決めゼリフみたいに言って、私のむいたみかんをぽいと口に放り投げた。得意げな顔をしている。

「私もう寝ちゃうよ。そんなだったら」

ハナは、信じられない! と目をまんまるにした。そして勢いよく、私に懇願してきた。

「お願い! 一生のお願い! 気分転換にもなるじゃん! ね!」

私は、にたりと笑った。

「じゃあ……プリンとエクレア」

ハナはがくっと倒れ込むと、うつぶせのまま「よかろう」と渋い声で言った。


 扉を開けると、針で刺すような外気が舞いこんできた。想像以上の冷気だ。反射的に目をつむるとドアノブから手が離れ、ずどん、と低い音がアパート中に響いた。

「ねえ、やっぱり……」

後ろを振り向くと、期待に目を輝かせるハナがこちらを見ていた。ハナは無言で玄関の電気を消して、

「ほら、いこ」

と言った。観念して再度扉をそろりと開ける。そして冷凍庫みたいな外へと一歩を踏み出した。

 歩いているとすぐに寒さは気にならなくなった。玄関で浴びた凍る風はただの気圧差だったようで、実際はほとんど吹いていなかった。気温の低さは変わらないが、寒がりの防寒具をもってすれば、なんてことないいつもの冬の夜である。

「この手袋、あったかいね」

ハナはこちらを向いて、手に付けているお揃いのミトンの手を開いたり閉じたりした。そして私と同じ色のマフラーに顔をうずめて、目だけで笑った。私もハナの真似をした。どちらともなく笑い出して、二人分の声が夜の静寂にそっと響いた。

 こうやって過ごせるのも、あとわずかしかないのをハナはわかっているのだろうか。

 いろいろと片づけを始めていた。嫌でも迎えなければならない春に向かって進んでいる。「生きる」という言葉の本質が「死に向かう」ということであると、感じられずにはいられない日々だ。

 ねえ、ハナ。

「なんだか、降ってきそう」

 きみはどう思ってるの。

「ほんとだね」

私は体の中に巡る、言葉にまで昇華できない感傷を押し殺して、代わりにくすっと笑った。


 コンビニを出ると、外はいっそう冷えている感じがした。

「雪だ!」

ハナは勢いよく走り出して、照明に照らされる空っぽな駐車場を元気な犬みたいに駆け回った。足元を見ると、小さい雪の粒がアスファルトの溝を丁寧に埋めている。一歩進むと、今しがた降り注いでいる綿のような幅の広い雪が、もうすでに道を覆っているのがブーツの跡でわかった。

 明日学校行くの面倒だなあ。なんて考えてるうちにハナが戻ってきて、

「ねえ、散歩しようよ」

と言った。

 私は、「そんなこと」と言いかけて、口をつぐんだ。頬を赤くして、若干息を切らしているハナをじっと見つめる。

 もし、このまま夜が明けたなら。心に身を任せて朝が来るのを待てば。心のうちに飼っている怠惰を放せば。もっと長く、ハナと居られるのかな。

なんて。

「少しだけ、ね」

私は遠くを見るように、目を細めて言った。

 曲がるべき十字路をまっすぐ進んで、私たちは並んで歩いていた。

「ほら、これおいしいんだよ」

ハナは大粒のグミをほおばっている。

「あげる」

そう言って渡してくれたグミは、暗い街灯に照らされて赤むらさきにきらきら光って見えた。私が手袋を外すのにもたついていると、ほら、と言って口に詰め込んでくる。

 唇に、ハナの手が触れた気がした。

「……けっこう弾力があるね。おいしい」

「でしょ! やっぱりこういうのは、硬くなくちゃね」

もう一粒をつまんだハナの指先を、私は正視できなかった。


 公園が見えてきた。雪の勢いは増すばかりで、後ろを振り返ると、遠くの足跡が白んでいる。なんだか、もう帰れないような気がした。不思議と、不安や焦燥はなかった。

「すごーい!」

一足先に声を上げたハナは、珍しく立ち止まって何かを恍惚と眺めている。私はその視線の先を追って、公園の真ん中の方を見た。

 思わず息をのんだ。

 そこは、わたしたちとは切り離された別世界のように見えた。公園は白銀に包まれて、それを中央にある一本の高い電灯が明々と照らしている。光は明滅を繰り返し、薄暗く、それでいて鮮やかに、宙を舞う折り重なった綿雪を灯している。

 それはまるで、咲きそうなつぼみをたくさん付けて揺れるミモザの木を模した、実物大のスノードームの中にいるようだった。

ハナが飛んでいくのを止めもせず、私は目の前の光景に圧倒されていた。ハナは走りながら笑っていた。まるで雪を初めて見たような、無邪気な笑顔だった。

「おいでよ!」

ハナは叫んだ。全然響かない。雪が音を掻き消すのだ。小さな世界に、二人だけ残ってるみたいだ。

寂しいな、と思った。今まさに目の前ではしゃぐきみがいるのに、私は影から眺めているのがやっとだ。光の下で、踊るように走る。私はいつも、きみの純真に救われてばかりで、何も与えられないまま、別れだけが迫ってくる。

だけど。

 私は走った。ハナがそうしてるみたいに、マフラーとかミトンとかを途中に振り落とした。なりふり構っていられないんだ。きみもきっと、私と同じ気持ちでいることを願う。だってこれが最後だなんて、そんなのは嫌だから!

「ほら!」

ハナは手を伸ばした。私はそれをつかむ。ふわり浮くような感覚。二人で踊る。くるくる回る。仄暗い光の下。誰もいないこの世界で。

 気が済むまで回った後、私たちは寝ころんで、同じ空を見上げていた。端から端まで真っ黒で、星なんかどこにも見えなくて、その代わりに、全てを埋め尽くすほどの真白な雪が音もなく降っていた。

「ほんとはね」

ハナは呟くように言った。私たちを覆う、小さな世界に向けて。

「卒論なんかとっくに終わってるの」

私は笑って

「私も」

と言った。笑い声は響かない。静かなまま、だけど確かに、二つだけがそこにあった。

「私ね、ゆき、好きなんだ」

ハナは言った。どくんと心臓が鳴った。

違うんだって、わかってる。わかってるから。大丈夫。言うよ。

「——私も、すき」

ハナのほうを向くと、目が合った。くしゃっと笑う。

「だよね」

溢れ出てきそうな涙をこらえて、私は立ち上がった。

 二人分のマフラーとミトンが、重なるように落ちていた。雪に埋もれてしまいそうだった。ハナが拾ってしまわぬうちに、さっきと逆の方を手に取って、大事につける。顔をうずめると、ひんやりと冷たい。あるはずのない熱をどこかに感じようとする。

「ねえ、ユキ」

 ハナの声がしたその時、電灯がひときわ明るく光った。私は振り返る。

 ——そこには、満開のミモザの花があった。電灯の光を通して黄色く色づき、しな垂れているようにも、舞い上がっているようにも見える。

 花が咲く前に、伝えたかった。きみとは違う、私の想いを。

「ずっと、友達だよ」

それは、永遠の誓いであり、一つの終わりでもあった。溢れ出しそうな言葉を押さえる。行き場を失った悲しみと、形の崩れた友情が、瞳から静かに流れ出す。

「うん」

と私は、闇に消え入るほど小さく言った。

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