第30話クリスの焦燥
日がとっぷり暮れても馬車は走り続けた。ティアナはまだ拘束されたままだった。まさか、このままの状態でクロフトへ向かうのではなかろうか。エニスからクロフトまでは馬車を使っても十日はかかるのである。ティアナたちは乗合馬車に乗ったり荷馬車に乗せてもらえるよう交渉したりて、もっと時間がかかったのだが。
「まさか、野宿する気?」
「次の町で宿を取る。その前に……」
ゲイルは鞄の中を漁り出した。何を取り出すのか、と思えばそれは革袋だった。
「喉が渇いただろう。飲め」
「え、遠慮しておくわ」
この状況で差し出されたものなんて、絶対に素直に口に入れたくない。なにか、やばいものでも混ざっていそうだ。口を引き結んで断固拒否する姿勢を見せたティアナにゲイルは舌打ちをして、前のめりになる。体の自由が利かずゲイルがティアナの顔に手が触れるのを甘んじで受け入れる。くいっと顎を持ち上げられ、少しだけ開いた口の中に液体がそそがれた。鼻を摘ままれティアナは涙目になりながらそれを飲み込んだ。
「うっ……げほっ……」
咳込んでしまったが、飲んでしまったというショックの方が強かった。
ゲイルがティアナから手を離した。ティアナはせめてもの抵抗として目の前の男を睨みつけたが、次第に頭の奥に霞がかかったような感じがしてきて、自分の身体なのにどこかふわふわとして、すうっと思考が遠くの方へ行ってしまうような感覚に陥った。
ティアナの行方が分からなくなった、という一報が屋敷からもたらされたクリスは、ちょうど実験中で、実験を中断して白衣を乱暴に脱ぎ捨てた。
後ろから「え、ちょっとクリス様!」と慌てるサディスの声が聞こえたがクリスは完璧に無視をした。連絡を寄越してきたのはトレイシーの伝達魔法である。とはいえ、王宮魔法局のクリスの部屋に直接とばすことはできない。王宮に隣接する魔法局の敷地には強力な結界が張られているからだ。魔法局の受付宛てに飛ばした伝達魔法を職員が宛先ごとに届けに来るのだ。
クリスは急いで魔法局の敷地から外に出た。強固な結界の中では浮遊の魔法を使うことができない。普段は馬車で移動をするが、クリスは魔法使いである。空を飛ぶ魔法くらい習得済みである。
「クリス様ぁぁぁ」
あとは任せた、と素っ気なく行ったクリスは飛び上がり、下の方からサディスの悲痛な叫び声が聞こえたが無視をした。今はそれどころではない。
屋敷に戻りトレイシーを捕まえた。まさに隠居を楽しむ好々爺といった風にいつも飄々としているトレイシーが珍しく狼狽えている。
「それで。ティアナの足取りは」
「今日は午後からデイジーをお供に、ケーキを食べに行かれたのです。たまには息抜きも必要でしょうから、と私も了解しました」
クリスはこくりと頷いた。ティアナは真面目で、自分からあれがしたいとかこれがしたいと言わない。これまで娯楽を楽しむことなく暮らしてきたのだろう。妻という仕事に熱心に取り組んでいる。クリスとしても、遊び惚けられては困るが日常の些細な楽しみに目くじらを立てるつもりもないし、姉妹でお菓子を食べに行くくらい、むしろ毎日でも行けばいいと思う。ティアナは感情表現が豊かだから、美味しそうにケーキを頬張るのだろう。女は繊細な飾りつけの菓子を好むというから、王都で流行っているケーキを見たティアナがどれほど喜ぶか、この目で見れなかったことが少し残念でもある。
「それでですね。ケーキを食べ終わって、給仕が庭に案内をしたそうなんですよ。それで、少しの間でデイジーの視界から消え去ったそうです」
「オルタも一緒か?」
「ええ。お二人ともです」
「周辺を探したのか?」
「はい。店の者に聞いたら、そのような娘を庭に案内した記憶もございません、と。今は晩秋。菓子店には確かに庭園もありますが、花など咲いているはずもございません」
クリスは黙り込む。侍女の隙をついて、誰かがティアナをかどわかしたと考えた方が論理的だ。そして、とクリスは一人の男の顔を思い浮かべる。
「目星はついているんだろう?」
「ええまあ……。このタイミングですと、やはり……この数日屋敷の周りをうろついていた少年が怪しいかと」
「ゲイルか」
オルタの話ではあの男はティアナにずっと懸想をしているとのことだ。しつこさと根性を発揮したゲイルはティアナの現在の住まいであるこの屋敷までたどり着いた。
クリスは眉間にしわを刻んだ。どうにも、あの男のことが目障りだと思ったからだ。それでも安心していた。クリスの屋敷は魔法の仕掛けが施されている。許可をした人間以外は立ち入ろうとすると魔法蔦が毒を吐くからだ。毒は金属だって溶かしてしまう、かなり物騒な代物だ。トレイシーが遠回しに、やり過ぎですと苦言を呈するくらいには強固な守りである。
「一度菓子店へ行く」
クリスは踵を返した。
「デイジーをあまり責めないでやってください。責任を感じております」
後ろからトレイシーの声が聞こえたが、即答はできなかった。
クリスは馬車を使うのを厭い、再び浮遊の魔法を使った。目当ての店の前に降り立つと、周囲がざわめいた。いくら魔法使いでも街中で空を飛んだりはしないからだ。クリスは何事も無かったかのように歩き出し、店の従業員を呼びだした。この店で妻が行方不明になったと問いただせば、店主が慌てて飛んできて別室へ連れていかれた。
店主は貴族階級のクリスに低姿勢で、ことを荒立てない代わりに店の中で魔法を使うことを了承させた。クリスとて穏便に済ませたいのは同じだ。女性がかどわかされたとなると、後ろ指を指されるのは女性の方なのである。
(私は四つ星の魔法使いだぞ。低級な魔法で太刀打ちできるはずもないだろう)
自分の魔力を自慢などしたこともないが、この時のクリスはとても怒っていた。手元からティアナを奪われて。どうしてだか、無性に腹が立っているのだ。
「地よ、わが問いに答えよ―」
クリスは魔法を紡いでいく。店の者たちの中から目当ての少女の気配を探し出す。大地に問うた。クリスの妻の気配を、彼女の足取りを。
人の出入りの多い店で、一人の少女の行方を捜すのは、さすがのクリスでも骨が折れた。しかし、ここは根性の見せどころである。クリスは細い細い糸を辿るように、地道に魔法を使い、ついにティアナの痕跡を掴んだ。
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