白うさぎの道案内

冬子

第1章

第1話 夢と現実


 夢だ。

 今、自分は夢を見ている。明晰夢というものだろうか。

 周りには沢山の木々が生い茂っている。背の高い木に囲まれているため日の光が遮られて、まだ夜ではないのに薄暗い。

 ふと、背後で幽かに啜り泣く声が聞こえて振り返ると、一人の小さな女の子が一際大きな木の下で蹲って泣いていた。

 女の子の手足は擦り傷や切り傷だらけで、見ていて痛々しい程だ。もしかして迷子だろうか。

 これが夢だとわかっていても、あの子を助けなければと思った私は一歩を踏み出す。

 しかし、私が動くよりも先に、一つの影がその女の子に近付いていくのが見えて、思わず足を止めた。


「──君、大丈夫?」


 上から降ってきた少し低くて優しい声色に、女の子は声の主をゆっくりと見上げる。

 少年が、心配そうに女の子を覗き込んでいた。

 少年と女の子の顔はまるで霧がかかったように朧気で、私がどんなに目を凝らしてもぼんやりとしか見えない。

 それなのに、この少年は女の子にとって大事な人なのだと、何故かただ漠然とそう思った。

 その光景をただ眺めていると、少年が突然顔をこちらに向けたので、驚いた私は少し身構える。

 少年の口元が動くのが見えた。


「お願い……思い出さないで……」


 悲痛な声が聞こえたと同時に、ほんの一瞬だけ少年の哀しげな表情が見えた気がして、胸が痛んだ。

 そして、急激に意識が遠退き、女の子と少年は私から遠ざかってそのまま見えなくなっていった。





 茜色に染められた中学校の教室。

 空いた窓の隙間から入り込んだ生温い風が、机に突っ伏して寝こけている雨宮美琴あまみやみことの栗色の髪を揺らした。

 肩に付くくらいの長さの髪が、風に乗って美琴の顔にパサパサと当たる。そのこそばゆい感触に夢の中から引き戻された美琴は、うっすらと目を開けた。

「ん……」

 自分の両腕の中から、緩慢な動作で美琴は顔を上げる。

 夢を見ていたことは覚えているが、夢の内容までは思い出せない。まだ寝惚けたままの頭で状況を把握するために、自分の周りを見渡した。自分以外は誰もいない。

 不自然すぎるほど無音の空間で、美琴は首を傾げた。

「私は、どうしてここに……あぁ、そっか」

 寝起きで曖昧になっている記憶を辿ったところ、どうやら友人を待っている途中でうたた寝をしてしまったらしい。

 用事があるからと何処かに行ってしまった友人の姿は、見当たらない。その友人がまだ戻っていない事が不安になった美琴は、教室の外へ探しに行こうと椅子から立ち上がる。

 そして、立ち上がり様、視界の端に映った一つの影に、ぎくりと身を強ばらせた。

 長い黒髪の少女と白いスカートの端が視界の片隅に映ったからだ。一瞬だったが、見間違いではない。

 この中学校の制服は男子が黒い学ランに、女子は美琴が今着ているものと同じ紺色のセーラー服である。白いスカートの女子生徒はいないはずだ。

 その姿を目にするまで人の気配どころか、物音すら一切しなかった。ついさっき辺りを見回した時も、この教室には自分以外は誰もいなかったのだ。

 出入口の戸も初めからずっと閉まっていたのに、普通の人間が一瞬のうちに音もなく教室に入って来られる訳がない。

 美琴の心臓が早鐘を打ち、冷や汗がこめかみを伝う。

 だが、美琴が恐れを抱いた理由はそれだけではなかった。


(そんな……白いワンピースを着た『彼女』は夢の中の住人だったはずなのに、どうして……)


 まるで初めからそこに佇んでいたかのように、白い服を着た少女は長い髪の隙間からその両目で、じぃっと美琴を見つめていた。

 言い様のない恐怖に、背筋が凍る。一刻も早くこの場から逃げなければと思った。

 美琴は深く息を吐き出すと体の硬直を無理やり振りほどき、少女がいる場所とは逆の出入口に向かって走り出す。

 すると、突然教室の戸が開き、美琴の前へ黒い影が飛び込んできた。

「美琴ちゃんっ! 待たせてごめんね!」

「ッ!?」

「あ……ごめん、驚かせちゃったかな?」

 黒い影の正体は、美琴の待ち人である友人の袴田晴人はかまだはるひとだった。

 美琴の姿を見つけて嬉しそうに琥珀色の瞳を細めている晴人の右目は、いつも医療用の眼帯で覆われている。

 眼帯を長めの前髪で隠してはいるが、黒髪の間からチラチラと白い眼帯が覗いて見えた。

 だが、隻眼であっても晴人はとても端正な顔立ちをしており、成長したらかなりの美男になるだろうと思わせるほどだ。

 普段から可愛くない態度ばかりとる美琴とは違って、晴人は人懐っこい笑顔を惜しみなく向けてくる。美琴が晴人と友人になったのは、その笑顔にほだされたからなのかもしれない。

 美琴が何も言わないことを不思議に思った晴人は、美琴の目の前で手のひらを左右に振ってみた。

 その行為が見えていないのか、はたまた気にする余裕がないのか、美琴は周辺に忙しなく視線を走らせている。

 晴人も教室の中を確認してみたが、特に変わったことは何もない。

「美琴ちゃん? どうしたの、何かあった?」

「……ううん、なんでもない。早く帰ろう」

 明らかに様子のおかしい美琴を晴人は心配そうに見つめていたが、足早に帰ろうとする美琴に促されて、慌てて教室を後にした。

 夕暮れの朱に染まっている教室には、風に揺られる木々の影が落ちている。

 白い服を着た少女の姿は、もうどこにもなかった。



 美琴は晴人と二人で、舗装されていない砂利道を歩いている。

 辺りはだいぶ暗くなり始めていた。右も左も見渡す限り緑に囲まれていて、目の前には長閑な田舎の風景が広がっている。

 初めのうちはあまり慣れていないこの環境に美琴は戸惑っていたが、此処で暮らしているうちにそれも徐々に薄れてきた。むしろ人が多くごちゃごちゃとしている都会よりも、緑が多く静かな田舎のほうが落ち着く気がする。

 此処に引っ越してきてから、もう数ヵ月は経つだろうか。

 少し前まで美琴は都会に住んでいた。それが何故今はこの田舎にいるのかというと、美琴の両親が交通事故で亡くなったからだ。

 尊敬していた自慢の父と母を突然喪い、茫然としていた美琴を引き取ったのが、この田舎に住んでいる祖父母だった。

 祖父母に迷惑をかけたくなかった美琴は、自分で働いて一人で暮らしていくと主張したが、二人に優しく「こういう時くらい、もっと大人を頼りなさい」と諭されて今に至る。

 祖父母には感謝してもしきれない。大人になったら必ず恩を返そうと美琴は心に決めている。

 その時はまた都会に戻って独り立ちしようと思っているのだが、祖父母や友人と離れるのを考えるとやはり少し寂しい。

 ちらりと隣を歩く友人に目を遣る。心配そうに眉尻を下げている晴人と目があった。

 晴人が、まだ顔色が良くない美琴の事を気遣うように、いつもよりゆっくり歩いてくれている事に気付く。

 先程の出来事に動揺していたとはいえ、あんな素っ気ない態度をとってしまった事を美琴は申し訳なく思った。

「晴人、さっきは急かしてごめん……」

「ううん、いいんだよ。そんな事より美琴ちゃんは本当に大丈夫? 何か悩み事でもあるの?」

「……大丈夫。晴人が心配するような事は何もないよ」

 まだ疑わしそうに美琴を見つめてくる晴人に、今できる精一杯の笑顔を向ける。もしかしたら上手く笑えていなかったかもしれない。

 頑なに大丈夫だと言い張る美琴に、とうとう晴人は折れた。

「そっか……何もないならいいんだけど。でも、もし何かあった時は僕に相談してね。絶対だよ?」

「うん、わかってる」

 常に自分を気にかけてくれる優しい友人にお礼を言えば、晴人はふわりと綺麗に微笑む。それを見た美琴の頬に、ほんのり朱が差した。

 時折、晴人から向けられる慈しむような眼差しが美琴は嫌いではないのだが、嬉しい反面むず痒くて仕方がない。

 昔からこのぶっきらぼうな性格のおかげで友人は少なかったが、このような表情を身内以外の人間に向けられた事はなかった。

 だから、晴人が自分を本当に大切な友人だと思ってくれている事は伝わってくるのだが、いまだに慣れないのである。

 いつも慕ってくる弟分が、こういう時は何故か兄のように見えてきて落ち着かない気持ちになってしまうのだ。

 暫く二人で歩いていると、美琴の祖父母の家が見えてきた。

 その手前にある道は二手に分かれていて、いつも此処で帰りは晴人と別れる。左に行けば美琴が暮らす祖父母の家があって、その先は行き止まりだ。右には山奥に続く道がある。

 なんでも、此処より更に山のほうに晴人の家があるらしい。

 まだ美琴も晴人の家に行った事は無いが、じゃあ今度招待するよと言われているので、近々遊びに行こうと思っている。

「それじゃあ美琴ちゃん、また明日ね」

「うん、また明日。暗くなってきたから気を付けて帰るんだよ」

 笑顔で手を振る晴人に手を振り返して、美琴も祖父母の家に向かって歩き出す。

 しかし、すぐに悪寒を感じた美琴は、素早く周りを見回した。

 ざわざわと風に煽られて擦れあう葉の音が、耳に反響する。薄暗くなり始めた事も相成って、もう見慣れた景色の筈なのにどこか不気味に思えた。勿論、人の気配なんて無い。

 だが、美琴は感じたのだ。自分に向けられた強い視線を。

 それは先程、学校で突き刺さる程に感じたものと酷似していた。嫌な汗が背筋を伝う。

「まさか、ね……きっと私の考えすぎだよね……」

 そう自分に言い聞かせる。

 家の鍵を開けて中へ入る直前、雑木林の向こうに小さく見えた『白』に背を向け、見ないふりをしたまま戸を閉めた。


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