ラスト・ホイッスル

ハルヤマノボル

第夏話

 うんざりするような暑さの中、誰かの気配を感じてふと見上げると控えめに手振りながらヨウコが近付いてくるのが分かった。俺はスクイズボトルの取れかけのキャップを閉めて、タオルで顔に付いた汗や砂を急いで拭った。

「練習見てたんだ」

「うん、明日大事な試合って言ってたから」

 明日は地区大会の三回戦。相手は県大会常連の強豪校。勝てる可能性は限りなく低かった。でも地区大会ベスト8のという目標を達成するには勝たなければならなかった。

「まあな、でもいい感じだよ」

「そう、勝てそう?」

 ヨウコの前でカッコつけたくていい感じだなんて言ってみたけれど、正直言って練習の雰囲気はあまり良くなかった。チーム全体に何とも言えない緊張感が漂っているのは明らかだった。

「ちょっと着替えてくる」

 ヨウコの質問をかわすように更衣室代わりに使っている体育館横の階段の陰に逃げるように駆けた。「勝てる」と自信満々に言いたかった。でも言えなかった。

 着替えて戻るとヨウコが自転車のハンドルを握って待っていた。

「自転車?」

「うん、ちょっと遠いからね」

「じゃあ、俺が漕ぐよ」

「いいの?」

 ヨウコを後ろに乗せて家路に向かった。いつも友達ばかり乗せているせいかヨウコを後ろに乗せてもあまり重く感じなかった。ヨウコの細い指が両肩にかかってくすぐったい。

「タカくん、緊張してる?」

 心臓がドキンと痛んで息が詰まりそうになった。自信を失っていることはバレバレみたいだ。これ程までに見透かされているのなら、少しくらい弱音を吐いてもいいような気がした。

「相手が強豪校だから無理かもな」

「じゃあ、明日絶対観に行くね」

 何だかよく分からないけど幸せな気分に包まれたような気がした。


ピッチにつんざくように鳴り響く試合終了のホイッスル。緊張の糸が切れたように足が動かなくなった。そして俺たちの夏が終わった。

チームの前に立って頭を下げて最後の挨拶をした。涙を浮かべている部員もいたが、俺は平気な顔をした。ただ本部を挟んだ向こう側で歓声が上がっているのに心が痛んだ。

「お疲れ様、頑張ってたね」

「うん、でも負けちゃったよ」

「強豪校だから仕方ないよね」

 仕方ない。本当に仕方ないのだろうか。俺の心の中で何かが燃えるように熱を帯び始めたのを感じた。確かに手も足も届かなかった。完封負けを喫したのは誰が見ても明らかだった。

「何ひとつ仕方なくねえよ」

 声が震えているのが分かった。堪えていたものが溢れ出てくる。堰き止める方法なんて分からない。分からないまま感情だけが剥き出しになる。

「仕方なくねえよ。バカにしてんじゃねえよ」

 そう言って俺は俺が今何を言ってしまったのか訳が分からなくなっていた。ただ俺はヨウコと二人きりの世界にいて、向き合って話している。そんな心地がした。

「ご、ごめん」

 欲しかったのは謝罪じゃない。じゃあヨウコにどうして欲しかったのか。分からない。目の前で頬を濡らしているヨウコを見て、許せない感情と申し訳ない感情がぐちゃぐちゃに混ざり合ってただ苦しい。誤魔化すように飲んだ水は血の味がした。


→→→


 練習終わりの挨拶を聞いて私は高鳴る胸を抑えながら木陰から飛び出した。そして出来る限りゆっくりとタカくんの方に近付いていく。目が合ったような気がしてドキッとしたけれど、それを悟られないように慣れたように手を振ってみせた。

「練習見てたんだ」

「うん、明日大事な試合って言ってたから」

 昨日いつにもなく素っ気ない文面でタカくんからメールが届いた。夏休みが始まってもう三週間ほど経つのに相変わらずメールすら送れない私にタカくんがメールをくれた。それだけでも嬉しかった。

「まあな、でもいい感じだよ」

「そう、勝てそう?」

 そう聞くとタカくんは目を逸らして逡巡するような顔をした。私はタカくんの心のどこかに不安な所があるのだろうと思って、よく分からないけど力になりたくなって、次の言葉を探していた。

「ちょっと着替えてくる」

 応援してるね。ただそう言いたかったのにタカくんはカバン片手に向こうへ駆けた。やっぱり私がそうやって変に力になろうとするのは間違っているのかもしれない。普段通りでいよう。そう思うと自然と落ち着きを取り戻せるような気がした。

 着替えを待っている間に自転車を押してグラウンドの方へ運んで来た。私の方が早かったみたい。

「自転車?」

「うん、ちょっと遠いからね」

「じゃあ、俺が漕ぐよ」

「いいの?」

 練習終わりで疲れているはずなのにタカくんは私を乗せて自転車を漕いでくれる。友だちよりも大きな肩にそっと手を置くと汗で湿った服を通じて何とも言えない緊張感が伝わってきた。

「タカくん、緊張してる?」

 私は何を言っているのだろう。やっぱり私はどこかで少しでもタカくんの力になりたがっているみたいでそう聞いてしまった。また答えてくれないかもしれないのに。

「相手が強豪校だから無理かもな」

「じゃあ、明日絶対観に行くね」

 何だかよく分からないけど幸せな気分に包まれたような気がした。


遠巻きに見ていても耳に鳴り響く試合終了の合図。緊張の糸が切れたように選手たちの足が動かなくなった。タカくんは腰に手を当てて呆然としていた。

タカくんたちは顧問や後輩たちの前に立って頭を下げて挨拶をしている。目を拭う子が見えたけど、タカくんは平気そうな顔をしていて私は安心した。だって無理だと分かって挑んだんだもんね。そう言ってくれたもんね。

「お疲れ様、頑張ってたね」

「うん、でも負けちゃったよ」

「強豪校だから仕方ないよね」

 するとタカくんは昨日と同じように目を逸らして逡巡し始めた。私は何か言ってはいけないような事を言ってしまったのかもしれないと不安になる。でもタカくんは負けちゃうかもって言ってたよね。

「何ひとつ仕方なくねえよ」

 声が震えていた。それは悲痛な響きをもって私の心を大きく揺さぶった。分からないよ。だって無理だと分かって挑んで負けたんじゃないの。分からないよ。

「仕方なくねえよ。バカにしてんじゃねえよ」

 目を真っ赤にしてそう言うタカくんを見て訳が分からなく涙が溢れてきた。私は間違ってたのかな。力になろうって勝手なわがままで迷惑をかけちゃったのかな。タカくんのこと分かったつもりで何も分かっていなかった。

「ご、ごめん」

 舞い上がっていた私のせいだ。そう思って声を絞り出して謝った。タカくんは驚いた顔をしていた。きっと許してくれないと思う。情けなくて涙が止まりそうにない。口の中はカラカラで、涙で歪んだ視界はボヤけている。ただただ私は泣くことしか出来なかった。

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