たとえこの声が届かなくても

沢田和早

たとえこの声が届かなくても

 容赦なく照りつける陽光。

 焼けた肌ににじみ出る汗のきらめき。

 大きく息を吸い静かに吐き出す。


 わかるよ、冷静を装っていても高ぶる心を抑えられないのだろう。

 実はまだ信じられないんだ。まるで幻でも見せられているような気分だよ。でもこれは紛れもなく現実。今、君は真新しいユニフォームに身を包んでグラウンドに立っている。


 思い出すよ。昔は本当に夢にすぎなかった。本気にする者など一人もいなかった。幼い頃の君はひ弱で体力もなく、体育の授業がある日は朝から憂うつな顔をしていたっけ。

 5月のゴールデンウィークはどこへ遊びに行っても楽しんでいるようには見えなかった。連休明けに待っているのは大嫌いな学校行事、学区連合大運動会なのだから。4月開催なら心置きなく休日を楽しませてあげられるのに、毎年そう思ったものだ。

 そして運動会の前日にはたくさんのてるてる坊主を作っていたね。そのまま吊るすと晴れるけど逆さまにぶら下げると雨が降るとか言って、夜遅くまで必死に雨乞いをしていたのが懐かしいよ。


 そんな君がある日を境にして突然変わった。その理由は教えてくれなかったけれどなんとなくわかっていた。

 正直なところ、最初はいい気分ではなかった。体格も体力も運動神経も人並み以下の君。どんなに頑張ったところで高が知れている。満足にプレイできない自分の無力を再認識させられていっそう劣等感に苛まれるのではないか。そんな心配ばかりしていたものだ。


 けれどもそれは杞憂だった。時にはこっそり涙を流す日もあったけれど、練習をさぼったりすることは一度もなかった。きっといい仲間、いい恩師に恵まれたのだろう。

 成長期に入った君の体はぐんぐんたくましくなっていった。子供の頃のひ弱な面影は消え失せ、大会に出場し結果を報告する君の顔には自信と誇りが満ちあふれていた。そんな君を見るのが嬉しくて仕方なかったよ。こちらも気を遣ってタバコは必ず戸外に出て吸っていたのだが気づいてくれていただろうか。


 そして7年前に巡ってきた大きなチャンスが君の魂を一気に燃え上がらせた。アスリートなら誰もが夢見る4年に一度の国際大会、その開催地としてこの国が選ばれたのだ。絶対に代表になってやる、君は今まで以上に練習に励んだ。

 大きな目標が君を変えたのだろうか。出場する大会では好成績を連発した。そして6年が過ぎた頃には有力選手のひとりに成長していた。代表内定はほぼ間違いない、誰もがそう思えるほどの選手に育っていたのだ。

 思えばあの頃がこれまでの人生で一番輝いていた時期だったのだろうね。でも神は残酷だ。平気で人間の運命を弄ぶ。君だけでなく世界中の全てから幸福の輝きが奪い去られてしまった。


 あんなことになるなんて誰一人想像していなかっただろう。2020年、世界は厄災に見舞われた。大会は延期になった。君自身もわかっていた。全てをこの時期に合わせて調整していた。そしてもう若くはない。すでに一線を退いてもおかしくない年齢を考えれば、今のコンディションを一年以上維持させることは不可能に近い。周囲からどんなに励まされようと今年が最後のチャンスだったのだ。


 それに加えて大きな不幸が君を襲った。打ちひしがれる君の姿は見るに堪えないほどだった。あの時ほどヘビースモーカーな自分を呪ったことはなかったよ。君にしてあげられることは何もなかった。部屋に引きこもってぼんやりと過ごすだけの君をただ見守ることしかできなかった。いつか立ち直ってくれる、そう信じ続けながら静かに寄り添っているだけだった。


 そんな君に切っ掛けを作ってくれたのは、やはり仲間たちだった。大会も観客も記録も関係ない。自分たちだけで自分たちだけの大会を開こう、それが彼らの提案だった。

 最初、君は全然乗り気ではなかった。意味がない、時間の無駄、空しさが募るだけ……そんな言い訳ばかりを述べ立てて少しも動き出そうとしなかった。まるで昔の君を見ているみたいだったよ。体を動かすのが嫌で本ばかり読んでいた子供の頃の君にそっくりだった。スポーツの世界へ君を導いてくれた仲間たちも、今回ばかりはほとんど諦めかけていたね。


 だけど皮肉なものだ。君をもう一度青空の下へ引き戻す役目をしたのが仲間たちではなくこの私だったのだから。そう、あれはもう忘れかけていた約束だった。一度くらいは会場に来て応援してほしい、君はいつもそう言っていた。だがどうしても都合をつけられなかった私はこんな約束をした。4年に一度の大会に出られたなら必ず見に行ってあげると。子供の頃の約束を君はまだ覚えていたんだね。


 それをやるのは自分のためではなく私のため。もはや叶えられない約束でもきっと見ていてくれると思うから……そんな君の申し出に仲間たちは喝采の声をあげた。いや仲間たちだけではない。私もまた驚きと喜びの声をあげていたんだよ。


 そして今日、彼らとともに君はグラウンドに立った。観客はいない。スタッフもいない。どんな美技を見せても歓声など聞こえてこない。でもこれは紛れもなく君の晴れ舞台だ。

 ああ、始まった。躍動する体。力強い疾走。飛び散る汗。本当に夢のようだ。幼い頃、運動会でビリになり暗い顔で帰宅していた君とはまるで別人だ。本当によくここまで成長してくれたものだ。


 これまで何度も考えていたんだ。君の選択は正しかったのだろうかと。この競技一筋に打ち込んできた君の人生。そのために犠牲にし諦めてしまったことのなんと多かったことか。趣味の範囲に留めておいた方が幸福だったのではないかと。


 だってそうだろう。有力選手とはいってもトップアスリートには遠く及ばない実力。もし大会が開催されたとしてもたった一度の出場で終わってしまい、誰からも注目されることなく引退していくだけなのだから。努力の大きさに対して得られる見返りがあまりにも少なすぎる、口には出さなかったがいつだってそう思っていた。


 でも今、それは間違いだったとわかった。勝利だけを見詰める真剣な眼差し。競技できる喜びに満ちた表情。それはこれまでの積み重ねがなければ決して得られなかったものだ。君の努力は無駄ではなかった。この一瞬をより深く楽しむために、この一瞬をより明るく輝かせるために、君は今日まで頑張ってきたんだね。大会を見に来てほしいと何度も頼んでいた理由がようやくわかった気がするよ。


 君の体から力が抜ける。清々しい表情で空を見上げる。ああ、夢のような時間が終わる。君の、そして私の2020年の夏が終わる。

 今はただ感謝の気持ちでいっぱいだ。そしてこの日を選んでくれたことに心の底からお礼を言いたい。

 今日は私の四十九日。魂を地上に留めていられる最後の日。こうして君に寄り添っていられるのは今日までだ。天に昇ってしまう前に君の最高の笑顔を見られて本当に嬉しく思っている。

 2020年の夏をありがとう。これからは空の上から君の行く末を見守っていくよ。この先どんな人生が君を待っているのかはわからない。けれどいつでもどんな時でも君を思い、君に励ましの声援を送り続けるつもりだ。


 たとえこの声が届かなくても……


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