第46話

 ゆっくりと階段に足をかける。一歩、また一歩と足を進めていくごとに、確実にその時が近づいていくのを感じる。

 形式通りの格式ばった離退任式が終わり、宮野先生はうっすらと涙を浮かべていたが、本番はこれからだ。サプライズの会場であるかつての教室への招待状は花束に合わせて渡した。

 これから始まるのは、残る悔いをどうにか減らしたいというわがままなお別れだ。かつてのクラスメイトの協力の元、一年を過ごした教室は彩られ、発案からここまでの短い期間ながらもこだわって用意した贈り物も丁寧な包装をされて鎮座している。


 カツカツと廊下を鳴らす聞き覚えのある音がすれば、好き勝手に話していたクラスメイトも席に着く。ガラリと扉が開く音がして、本日の主役がやって来た。

 つい先日まで当たり前に繰り返されていた景色が、宮野先生の視界には再現されているだろう。


「雨音に廣瀬、来たぞって、揃いも揃ってなにをするんだ?」


 そう言い軽く身構えながらも、その再現に乗っかるかのように教壇へと上がる先生。次の瞬間、部屋の電気が消えるのに合わせて、音楽が流れだす。先生の視線のど真ん中であろう場所に、スクリーンが現れて、ゆっくりとプロジェクターから動画が流れる。

 俺たちはその内容を知っているとはいえ、同じスクリーンを見ることはできない。


 今この部屋を明るくしようとしているのは、サイズが絶妙にあっていないカーテンから迷い入ってしまった日光と、プロジェクターがスクリーンに映すおぼろげな光だけ。隣に座る生徒の表情すらよく分からない程だ。

 日常の場をこうして使っているからか、違和感が拭えないがこれでいい。映し出されているもののほとんどが、この教室での取るに足らない、こうしてまとめなければ、そんなこともあったかもしれないと徐々に記憶から薄れていってしまうような出来事なのだ。


 十分を超える動画が終われば、教室は日常の姿を取り戻すように蛍光灯と、窓から遮らえれることなく取り込まれる日光に照らされる。

 宮野先生の頬には光の筋がしっかりと見えるし、動画の方は成功といって差し支えないだろう。こういう言い方をすると、先生を泣かせるのを目的としている手のかかる悪い生徒な感じがしてならない。ああ、でも、良い悪いはさておき、手のかかる生徒だったことは間違えないか。


「先生、動画どうだった?」


 教室がいつもの明るさを取り戻し、その明るさに目がなじんできたところで、動画を作っていた女子から声が上がる。


「最高の出来だった。私のために嬉しいよ」

「でも先生、まだ終わりじゃないよ。雨音君、廣瀬さん、それに若宮さんと篠崎君も」


 呼ばれた名前に一瞬驚いたような表情を見せた宮野先生は、小さな手に握られたハンカチで軽く目じりを拭う。それから、立ち上がった俺たちをひとりひとり順番に見据えた。そうしたあと、まるで巣立つ雛を見届ける親鳥のように優しく、俺たちが口を開くのを待っている。


「先生、今までありがとうございました。先生の生徒で楽しかったよ」

「生徒会も含めて、お世話になりました。ありがとうございます。私も先生の生徒で良かったです」


 まずは芽衣と若宮さんが、そんな言葉と共にもう一度花束を渡す。今度のは、PTAが別れの場にふさわしい台詞と共に用意したお行儀のよいものではなく、宮野先生のイメージに合うようにと選んで作り上げたものと短いながらも確かに思いが詰まった言葉だ。


「ありがとう。私も君たちが生徒で良かったよ」


 先生の言葉を聞いた二人の代わりに、今度は俺たちが前に出る。


「補習とかで迷惑ばっかりかけてすみませんでした。今までありがとうございます」

「本当だよ。篠崎は補習ばっかりで手が焼けた」

「うぐっ」

「けど、それ以上に部活での成果を聞いたり、頑張っている姿を見るのは楽しかったよ」


 うす、と簡単な返事と共に篠崎は丁寧に包装されたプレゼントを渡す。中身は万年筆だったはずだ。


「最後は雨音か」

「なんですか、そのラスボスはお前かみたいな言い方」


 色々と考えていたが、真っ先に出てきたのはいつもの軽口だった。

 まあ、涙腺を攻撃してるみたいな意味で言うのなら、確かにこうしてクラスメイトを代表して言葉と共に渡すのは俺で最後だが、これで終わりという訳でもない。


「まあ、その、本当にお世話になりました。先生のおかげで、楽しかったですよ。なんか理不尽な罰とかもあった気がしますけど、それもひっくるめて。ほんと、卒業まで見てもらえないのが残念で仕方ない。もっと見てもらいたかったんですよ。言ってもしょうがないのは分かってるんですけど」

「本当にな。私だって君たちを卒業まで見ていたかったよ」

「だから、ありがとうございました」


 思っていることをすべて吐き出すことはできそうにないから、一番言いたかった言葉をしっかりと告げて、アルバムを差し出す。

 受け取られたら終わってしまうなんて莫迦なことを思ってもみたが、そんなことを言えば、この先生はこんな風に返すのだろう。ここでこんな関係で会うのは最後になるだろうが、君たちの人生だって、私たちの人生だって続くんだ。どこかで、また交じり合ってもおかしくないよ、といった感じに。

 それに俺たちはこうして口にできたが、時間の関係上、そうできなかったクラスメイトの言葉が、この中の寄せ書きにたっぷりと書かれている。なら、言いたかったことを口にできただけいいじゃないか。

 宮野先生が手に取ったことを確認してから席に戻る。


「ありがとう。教師としてこういうことをされたことはなかったし、なんなら最初で最後になるだろうから、言葉が浮かばないんだけども本当に嬉しいよ。大切にする。君たちの卒業式は見にくるつもりだから、その時には、もっと成長した君たちを見せてくれ」


 先生の頬を伝った涙はすでに乾ききっている。


「これでHRホームルームは終わりだ。帰るなり残って駄弁るなりしてくれ。問題は起こすなよ」


 いつものように先生が言ったことで、この催しにも幕が下りる。

 もっとも、いつものように好き勝手に解散していくのではなく、先生、写真撮ろなんて言葉を皮切りに、先生の元に皆が集まっていくが。

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