第37話

 試験が終わり数時間。我が家のキッチンにはただならぬ空気が漂っていた。


「なあ、篠崎……」

「言うな雨音。まだ美味い可能性がなくなった訳じゃないんだから」

「いや、仮に美味かったとしてもこれは食わせられないだろ」

「まあ、そうだな」


 言葉を交わす俺たちの目の前には、焼きあがったばかりのマドレーヌ、になるはずだった物体Xと、それに比べたらずいぶんと美味しそうに見えるが、一目で素人が作ったと分かるもの。

 祐奈からお返しの意味を教えて貰ったいいものの、お返しの意味が有名なキャンディやマカロンが俺らのような素人に作れるのかといえば、首を横に振らざるを得ないということで、それは別で用意しつつ、一応、意味的にも送って良さそうなマドレーヌを作ろうということになったのだが、それすらままならのが現状だ。


「まだ、雨音が作った方は食えそうだな」

「まあ、不味くはないけど、買ってきた方がいい気はするな」


 齧ってみれば、確かに味はマドレーヌだし、見た目ほどこげの苦みがある訳ではないのだが、なんか、粉っぽかったり、しっとりしてない部分もあるし。

 一応、祐奈に教わりながら作った時には美味しいと言えるものが出来上がったが、今回のは、お世辞にも美味しいとは言えそうにない。


「雨音でもダメか。どうしたもんかな……」

「俺は万能じゃないからな。とはいえ、考えとくって言ってたのにすまんな」

「忙しそうだったし、しょうがないだろ。それより、この惨状をどうするかだろ。買ってあるので済ませるのが良いんだろうが、俺としてはもうちょっと粘りたい」

「それは俺もだ」


 二人で頭を悩ませつつ片付けを進めていると、パタパタと階段を下りてくる足音が聞こえてくる。


「お兄ちゃん、今日の夕飯どうする? って、お客さん来てたの?」

「ああ、うん。篠崎がな。この間言ってたホワイトデーのお返し作りしてるんだ」

「お邪魔してます」


 リビングへと足を踏み入れた祐奈と言葉を交わせば、篠崎が俺の背中から祐奈に声をかける。二人は何度か顔を合わせてはいるが、そこまで打ち解けられているようではないようで、ごゆっくりと頭を下げて出ていこうとする祐奈。


「あっ、ちょっと待った祐奈」

「どしたの、お兄ちゃん?」

「マドレーヌ作ってるんだけど、練習の時みたくはいかなくてな。ちょっと見てくれ」


 * * *


「お兄ちゃん、もっとちゃんと混ぜて」

「もうだいぶ混ざってない? まだ足りないの?」

「足りないから。篠崎さんは卵の殻全部取れました?」

「今終わったところだな。次は何に気をつけながら作業すれば?」

「次は――」


 祐奈が俺の問いに仕方なく頷いてからはやくも三十分。いつもとは立場逆転して、俺と篠崎に作り方を教える祐奈。もう一ヶ月ほどキッチンに立ち続けているからなのか、お菓子作りだからなのかは分からないが、その姿はなかなかさまになっている。


「この間教えた時にも思ったけど、お兄ちゃんがお菓子作り得意じゃないの、ちょっと意外」

「それな。料理できるし、お菓子も作れるかと思ってたわ」

「料理は毎日してれば慣れるからな。それに、味見しながら作れば酷いことにはならないだろ。グラム単位で計ったりしないでも」


 祐奈の言葉に賛同するように篠崎も頷くものだから、別に何か悪いことをしているわけではないのだが、言い訳のように言葉を返してしまう。


「それはそうだけど。まあ、いっか。そしたら、お兄ちゃんは型にバターを薄く塗ってから、入れ過ぎないように注意して生地入れて」

「はいよ」


 祐奈の指示に従って、手順をこなしていくが、型に流し込む生地の分量調節がまた難しい。


「これくらいでいいか?」

「もうちょっとだね。……はい、ストップ」

「このぐらいか」


 目分量なのだろうが一応メモを取っていると、その様子を見ていた篠崎が不意に笑い出す。なんだよ、なんて少しぶっきらぼうに聞いてみれば、悪い、変な意味じゃないんだと言って言葉を続ける。


「いや、なんというか、雨音は教えているイメージしかないから、こうやって教わってるところを見るのは新鮮だなって」

「確かに、お兄ちゃんは大体教える側ですもんね」

「否定はしないけど、教えてもらってるから教えられるんだからな。って、俺の話はいいんだよ。篠崎、そっちの調子はどうなんだよ」

「もうちょっとだな」


 * * *


 俺や芽衣といった共通の話題で打ち解けてきた二人と話していると、オーブンレンジから焼き上がりを告げる音が聞こえる。

 祐奈がオーブンレンジのドアを開ければ、焼き菓子の甘い香りが部屋いっぱいに広がる。


「見た目は見違えたな」

「ああ、あとは肝心の味だな」


 篠崎の言葉に答えれば、祐奈から三つに割られたマドレーヌの一欠けらを差し出される。


「じゃあ、食べるか」


 篠崎の覚悟を決めたような声に頷いて、欠けらを口に運べば、しっとりとした舌触り、口の中には程よい甘味が広がる。


「うん、美味しい」

「美味いな」

「この間練習した時のやつだな。美味い」

「お兄ちゃん、もう一個食べていい?」

「もう一個だけな。一応それあげるやつだから」

「分かってるって」


 そう言いながら早速手を伸ばし、美味しそうに頬張る祐奈。それを真似をするように、篠崎も手を伸ばす。


「おい」

「いや、美味いからさ」

「まあ、お返しが減って困るのはお前だからいいけど……」

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