猫騒動 第二
ケロウジとササがハナガサ邸の母屋で待っていると、シイが『紙面を泳ぐ金魚の掛け軸』を持って来た。そのまま話をしていると、陽が暮れ始めた頃にハナガサが帰って来た。
その後ろに船医の霊体はいない。
「おかえりなさい」
ケロウジが声を掛けると、ハナガサは硬い表情で言った。
「あぁ。ケロ、ササ。今から少し出かけるから付いて来てくれ」
「はぁ。いいですけど、どこに行くんですか?」
「近くだ。シイ。すまないが、また出かける」
ハナガサの言葉にシイは頷き、部屋へ戻って行く。シイは欠片ほども不審そうな顔はしておらず、まるでどこへ行くのか知っているようだった。
ハナガサは屋敷の裏口から出てズンズンと林の中へ入って行く。
見当たらないと思っていた霊体は林の中におり、ハナガサを見つけるとピタリと左横に並んで歩き出す。
ケロウジはいつもより口数の少ないハナガサに言葉を探せずにいた。しかしササはそんな事お構いなしに少年の姿でハナガサに聞く。
「なぁ、何を見せてくれるんだよ?」
「ここは私の持っている山林なのだが、そこにある仕事小屋へ向かっている」
ハナガサは一度そこで言葉を切ると、振り返って二人に聞いた。
「浜で聞いた話を覚えているか?」
「はい。魔獣騒動の事ですよね」
ケロウジが答えるとハナガサは溜め息を吐き、頷く。
「そうだ」
それだけ答えると、ハナガサはまたしても言葉を止めてしまう。それを茶化すようにササが笑って聞く。
「なんだよ。おっさん、不味いもんでも隠してんのか?」
「あぁ。そうなんだ」
そうハナガサは答える。ケロウジとササは驚いて足を止めた。そしてケロウジが聞く。
「そんなに悩むほどの何を隠しているんですか?」
「いつもの事なんだが、とある獣が仕事小屋に住み着いてな。仕方がないのでひと冬の宿として貸した。それだけなのだ」
「それだけの事で何を悩んでるんですか?」
ケロウジは首を傾げる。
ケロウジがハナガサと共に暮らした八年間には翼の折れた鷹を拾って来たり、窓の欄干にメジロが巣を作ったので雨戸を閉めないようにと言い出したり、縄が切れた拍子にほんの少し魔術を使ってしまって捨てられたよその家の番犬を拾って来たりと色々あったのだ。
今さら仕事小屋を獣に貸したくらい何だと言うのだろう、とケロウジは思う。
「お! そうか。それ、猫なんだろう?」
ササが言うと、ハナガサは黙って頷き頭を抱える。
「あぁ、それでですか。確かに騒ぎになってるの猫の魔獣でしたからね。でも、誰も仕事小屋のある所まで入って来ないでしょう?」
シイぐらいのものだろうとケロウジが言うと、ハナガサは言い難そうに口を開く。
「いや、そうじゃないんだ。私もササから話を聞くようになって気付いたのだが……」
そこに男の人の叫ぶ声が聞こえた。おーい、おーいと必死に呼んでいる。
「家の近くで呼んでるのか? 様子を見に行こう」
ハナガサは今までウジウジと頭を抱えていた事を忘れるほど、いつも通りの難しい顔で走って今来た道を駆け戻って行く。
話の続きが気になりながらも、ケロウジとササはその後を追った。
ハナガサの家の前に居たのは船長だった。船長はハナガサの姿を見ると駆け寄り、助けてくれと訴える。
「家の若いのが倒れたんだ。あの喧嘩してたフユヤマだよ! 船医は行方不明だし、医者を探したけどで払っちまってるって言うんだ!」
「そうは言っても……私は魔獣師だ。人間を診た事はないぞ」
「それでも俺らよりかは頼りになるだろう。頼むから来てくれ!」
船長の勢いに押され、ハナガサは船に向かう。その後ろを走るケロウジとササには、船医の霊体がハナガサに付いて来ているのが見えていた。
潮風の吹き付ける桟橋から梯子を上って大きな船の甲板に立つ。その頃には海の端の方がほんのり赤く染まるくらいの時刻になっていた。
船内ではフユヤマが寝かされており、その周りで船員たちがオロオロしている。
当のフユヤマは苦しそうではあるものの、眠っているようだった。
「ほら、お前ら道を開けろ!」
船長が言うと、船員たちは頭を下げ部屋を出て行った。
布団の他には海図の広げられた机があるだけの部屋の中、ハナガサがフユヤマの横に腰を下ろす。それを霊体がじっと立ったまま見つめる。
そんな事を知りもしないハナガサは、手を動かしながら船長に聞く。
「怪我はしていないな?」
「ないはずだが、こいつは父親に似て隠すからなぁ」
そう答える船長は、懐かしむように目を細める。
「前の船長の息子さんでしたっけ?」
ケロウジが聞くと、船長は頷く。
「こいつは忘れ形見だからな。どんな馬鹿をやろうと、生意気だろうと可愛いんだよな。たぶん他の奴らもそうだよ。だから捨てられなくてな。嫌われても怒鳴りつけて、性根を叩き直してやろうとしちまうんだ」
前の船長は強くて豪快で優しさがあり、海の男の理想そのもののような人物だったと、現在の船長が言う。
「彼は随分と船医さんを嫌っているようでしたが、他の方もあまりよく思っていないんでしょうか?」
ケロウジの質問に、船長は「分からん」と答えた。
「そりゃあ感謝はしてるさ。腕のいい医者だし、女にとっちゃ過酷な船の生活だろうに文句ひとつ言わない。あるのは後悔と嫉妬だけだよ」
あまりにも唐突に亡くなった前船長の最期に立ち会ったただ一人の人間、それが船医であると言う。
気付けなかった後悔と嫉妬の感情を抱く事もあるだろうと、船長は他人事として言った。
「こいつは息子だからな。どうにも整理がつかないんだろう。まぁ、それだけだ。船医がいい奴だって事はみんな分かってんだ。誰も攫わせたりしねぇよ」
船長はそう言ってニカッと笑った。疑っている事を見透かされたケロウジは、思わず「ありゃ」と呟く。
しかし、今もケロウジとササの目には船医の霊体がしっかりと見えているのだ。自殺をするか殺される、その準備が必ずどこかでなされている。
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