収集番号 002 - アグニのスープ
アグニのスープは、巌を砕くような甘さと、栞を落とすような甘さと、庵を叩くような甘さと、霙を降らすような甘さと、箒を倒すような甘さと、漆を枯らすような甘さでできていた。
正直に言うと想定の五倍は甘く、甘党の私を以てしても甘すぎて白旗を上げるような甘さであり、完食したはいいがそのことを若干後悔するほどに甘かったものの、本来はリーゼルを煎じたリーゼルのリーゼルと共に食すものだと後から聞き、後悔の度合いが大いに上昇した。
とはいえ、タイユ門へ向かう道の途中にて、幸いにも再びアグニのスープ屋に巡り合うことができた。氷河期の前から屋台を構えているという老店主は、心得た顔でアグニのスープとリーゼルを煎じたリーゼルのリーゼルを供してくれた。今度の店のアグニのスープは庇を除くような甘さと、あと数種類の何かを何かするような甘さでできていたが、リーゼルを煎じたリーゼルのリーゼルのおかげで後悔せずに完食することができた。おいしかった。
老店主が言うには、近年ではレシピを忠実に守らない店が増えてきているらしく、私が先だって立ち寄ったのもそういった新興店のひとつだったとのこと。リーゼルを煎じたリーゼルのリーゼルを出さないのもそうだが、もっと本質的な知識に問題があると老店主は嘆く。
本質的な知識とは、と尋ねると、老店主は一転してニタリとした笑顔でアグニのスープの『本質』を語ってくれた。老店主としてはとりあえず粗悪なアグニのスープ屋を淘汰したいようで、アンタがガイケを渡るまで秘密にしといてくれ、と言われてしまった。
私は口は堅いのだが、とても堅いのだが、もうガイケを渡ってしまったので喋ってもいいはずだ。なんと、本来のアグニのスープにはアグニを使わないのだという。アグニのスープとはアグニのスープのスープであり、アグニ、の、スープ、ではない、というのが老店主の明かしてくれた『本質』である。それを知らずに、アグニのスープだからとアグニのスープを作ってしまうと、本物のアグニのスープの味とかけ離れてしまうという。正直に言うと私にはただひたすら甘かったので本物も偽物も実感できなかったのだけれど、古来のレシピを守らんような店にはなるべく行かんようにしてくれな、という切々とした忠告にも一応頷いておく。
ところでもう一杯いかがかね、とにこやかに勧められたものの、リーゼルを煎じたリーゼルのリーゼルに含まれるリーゼルによって昏倒した私はそのままガイケを渡ったため、アグニのスープの本質を本質として味わう機会は失われてしまった。
ところで、よくいるタイプのそういうアレであるところのガイケの船頭が言うには、本当の「本当のアグニのスープ」とは、アグニのスープのスープのスープのことであったらしい。
あの老店主は、アグニのスープの変質を嘆きながらも、自分もまた変質の中にいたことに気付いていないという。
もっとも、「いーっちばん最初のアグニのスープはもっともっともっともっと別のものだったのさ」というのが船頭の語るところである。「おれはアグニから直接レシピを聞いたんでね」と付け加えられ、信憑性が目減りしたが、いわゆるその手の船頭の言うことなので事実なのかもしれない。
お喋りな船頭の声を聞き流しながら、消えていく味の名残をすくい取ろうとする。
つまりそれならば、味というものに永遠はないのか。
昨日と同じ料理は昨日と同じ味なのだろうか。一昨日と同じ味なのだろうか。昨年と。三年前と。三十年前と。三千年前と。
そして、その隙に、それを味わう者たちは、同じではなくなる。
おそらくもう誰も飲むことができない、本当のアグニのスープの甘さを想像しながら、ガイケの対岸にて消極的開門を起こしていたタイユへと歩を進める。
アグニ(アグニとは「甘い」を意味する)の国にて
Lauren
追記:
煎じる前のリーゼルを見つけたのでかじってみた。想定の五倍は甘かった。今日をもって、私は甘党を返上する。
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