第6話 カルディツァへの旅立ち(1)

 シャルルがカリスとの対話でほぼ一日を費やしていたその日――。

 シャルルの侍女としての任務を第二王女ソフィアより仰せつかっていたヘレナは、彼の領地となったカルディツァへの旅立ちに向けた準備をほぼ終わらせた。

 使用人たちの人選、面接もすべて終わり、新居での役割分担もすでに決めてある。

 使用人たちがどのような職務に携わるのかを事前に決めておくことで、彼女たちの適性に合った職務を与えられるだけでなく、個々人が職務に対する責任感を自覚できるように、という配慮によるものだ。

 準備を終えた報告を携えて、彼女は王城にソフィアを訪ねた。

「この短期間で本当にお疲れ様でした。ヘレナ」

「ありがとうございます、王女様」

 労いの言葉をかけた王女に彼女はお辞儀した。

 ソフィアはシャルルの主人であり、郡伯として赴任する彼の今後を女王ディアナ十四世から託されていた。この国の貴族となって間もない彼を支えるため、優秀な家令かれいが必要である――そう考えたソフィアは、ヘレナにその役割を与えた。

 新しい仕事を任されたヘレナはおよそ一週間かけて諸々の準備を行っていたのだ。

「王女様にお話ししたいことがございまして」

「まあ、なんでしょうか?」

「私が家令として新しいお屋敷のことを取り仕切ると、どうしてもシャルル様の侍女としての役割を手余すことになります」

 カルディツァ郡伯という爵号ではあるが、シャルルの領地は二つの郡にまたがっている。これまで二人の領主が別々に治めていた土地を彼一人が治めるのだ。

 ここ数日、彼と今後を話し合ったとき、彼は最初に領内を廻りたいと口にした。

 だが、家令として役割を期待されたヘレナには屋敷を離れて彼に同伴するのが難しい。まだ新しい使用人ばかりの屋敷を取り仕切る者がいなければ、家事が回らなくなってしまうからだ。

「今後、シャルル様が領内を視察したいとおっしゃっていました。それにあたって、私に代わって視察に同伴できるような侍女を育てたいと存じます。ゆくゆくは、家のことも任せられるようにしておく必要もございますから」

「誰か当てはあるのですか?」

「はい、一人だけございます」

 ヘレナは使用人たちの役割を書き記した紙をソフィアに差し出した。

 そこに書き記されたうち、ある一人の少女の名前にソフィアの目が留まった。

「――クロエ・トラキア、ですわね」

「はい、私の義理の妹でございます」

 その答えにソフィアはにこやかに微笑む。

「たしかにクロエなら問題ないでしょう。若いですが、しっかりしていますもの」

「多忙だった私の代わりにこれまでも給仕などを任せましたが、無事にやり遂げてまいりました。今後は代理ではなく、私の後任として育ててまいろうと」

「よい考えだと思います。ヘレナがわたくしの侍女となった年頃と近いですし、クロエが立派な後任に育てば、わたくしの元にヘレナを戻せますから」

 その後、いくつか話し合って、王女への報告が終わった。

「しばらくヘレナとは離れ離れになりますが、よろしくお願いいたしますね」

「はい、どうぞおまかせください」

 王女に見送られ、邸宅への帰途に就く。

 こうしてソフィアからも了承を得たヘレナは、自分の妹をシャルルの侍女として育てようと決めたのであった。


 ***


 邸宅に戻ったヘレナは侍女たちに声をかけた。

「クロエ……クロエはいますか?」

「はい、家政婦長様。お呼びですか」

 黒くて長い後ろ髪を結ってシニョン風にした使用人の少女が現れた。

 名はクロエ・トラキア、歳は十五――ヘレナとは義理の姉妹にあたる。貴族の他家からトラキア家に養子として入ってきた娘であった。

 義理の姉妹とはいえ、もともと又従姉妹またいとこの関係にあって近い血縁を持っていたこともあって、容姿はヘレナにどこか似ている。顕著な違いは髪の色と髪型、そして発展途上の乳房の大きさであろうか。

「ええ、あなたに頼みごとがあるのです。それに先立って、いくつか尋ねたいことがあります。私の部屋で話しましょう」

 そう言って、ヘレナはクロエを自分の小さな私室に迎え入れた。

 ヘレナが使っている邸宅の私室は主人に仕える侍女の部屋であり、あまり広くはない。背もたれの無い椅子が二つ、小さな机を挟んで置いてある。人に聞かれたくない話をするにはうってつけの場所だった。

「かけてちょうだい」

「はい、失礼いたします」

 戸を閉めて椅子に座り、ヘレナはこう切り出した。

「クロエにはカルディツァの新しい屋敷に来てもらう旨、承諾を得ていますけれど、早速いろいろなお願いをすることになりそうです」

「はい、何なりとお申し付けください」

「領主になる前の資格者様の給仕を、あなたにお願いしたことがありましたよね」

「はい、家政婦長様がお留守の間ですが」

「今後の給仕は基本的にクロエに任せたいと考えています。そして、資格者様が領内を視察する際、侍女として付き従ってほしいのです」

「えっ、私が……資格者様の侍女に、ということでしょうか?」

「私の代わりにあの方のお世話をしてくれる者を探しているのです」

「家政婦長様の代わりに……ですか?」

「ええ。私の代わりを頼める者を考えて、一番最初にあなたを思い浮かべました。何か心配な点がありますか?」

「い、いえ……私よりも年上の方々をさし措いて、そのような大任を仰せつかるとは思わなかったので」

「私は十三歳のとき、ソフィア王女様の御側付おそばづきを仰せつかりました。クロエは十五歳ですから、早すぎることもないでしょう」

 齢十五のうら若い乙女の顔にはまだ困惑の色が残っている。

「私が留守の間どのようなことがあったか、資格者様の様子に何か気にかかることがなかったか、クロエは正確に報告してくれました。そこを信用しています」

 クロエは少し戸惑っていた。

 カロルス・アントニウス。およそ八百年ぶりに見つかった男性である彼は、伝説の英雄アルトリウス以来の『資格者』ソードホルダーとして竜討伐の武勲を挙げた者であった。

 女王から正七位にあたる郡伯に叙爵されて、異例の出世を遂げた彼が侍女を必要としている――そんな事情はクロエにも理解できる。

 しかし、自分の代わり、とヘレナが口にしたことにクロエは違和感を感じていた。

「一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「ええ、なんでしょうか?」

 それから少し間をおいて、言い淀んだ言葉を口にしたクロエ。

「……姉様あねさまが私を頼るのは、何かがおありなのでしょうか?」

「……!?」

 家政婦長と使用人という公的な立場ではなく、姉妹として話を聞きたい――その意思を彼女はにじませた。

 ヘレナは目を伏せて頷いた。

「……ええ、あなたが察した通り、理由があるのです」

「差しさわりがなければ、その理由をお聞きしても?」

 妹の手を握り締め、つぶらな茶色の瞳を見つめる。

 姉の切れ長の目の奥にある紫色の瞳――それが揺れている。

「約束してください。これから話すことは決して、誰にも言わないと」

「はい、誰にも言いません」

 そう言った妹の瞳の奥まで見通すようなまなざしで、姉が口を開いた。

「私は資格者様を――」

 その頬はわずかに赤みが差している。

「あのお方を――シャルル様を愛しているのです」

「姉様……っ!?」

 絶句。

 これは大変なことだ――。

 十三歳で第二王女ソフィアの御側付となってから十年間、恋愛とはおよそ無縁と思われる人生を送ってきた姉が「愛している」と言い切った。

 まさかそんな秘密を打ち明けられるとは露も思っていなかった妹は、目を丸くしたまま黙って話を聞いていた。

「シャルル様は孤独な方なのです。どこかもわからない遠い世界から、この地に流れ着いた方なのですから」

 竜殺しとあだ名される新しい領主の経歴は謎に包まれていた。

 どこから来た者なのか、彼女たち使用人ですら知る由もない。

 彼女たちよりも大きな体格はまるで亜人のようである。歳若さと裏腹に古語というか、死語とされる時代がかった言い回しを用いることがままある。生まれてきた時代を間違えたのではないか――この邸宅に来たばかりの頃、他の使用人がそのような陰口をきくのをこっそり耳にしたことがあるくらいだ。

 そんな彼の世話を一手に引き受けていたのが、目の前にいる姉であった。

「シャルル様の身辺のお世話を王女様に命じられ、お仕えしているうちに、私は……恋に落ちてしまいました」

 クロエは汗をかいていた。

 自分が侍女として目標にしていたほど尊敬していた姉が――

 しかし、一途に主人に仕えるゆえに婚期を逃そうとしていた姉が――

 ひとりの女として人並みの恋に目覚めたのであるから。

 しかも、その事実をただひとり、他の誰でもなく、自分に打ち明けたのだから。

「本当なら私がずっとお側に仕えたいくらいですが、家令としての立場がありますから、それはできないでしょう?」

 姉が睫毛の奥に隠したもの――それは恋する女の瞳。

 紫色の魅力的な瞳に消し去れない情熱が宿っている。

「まさか姉様と資格者様がそのような間柄とは存じ上げませんでした」

「私とて、木の股から生まれたというわけではない、ということです」

 なんということだろう。姉様もやはり人の子ということか――。

 それを実感したクロエは、日頃は真面目な姉をより身近な存在に感じた。

 その姉の想い人である資格者カロルスもまた、決して遠い存在ではないのだと理解した。彼が気さくに話しかけてくれたことを思い出すうちに言い出せなかった言葉が自然とこぼれた。

「いつのことでしたか、姉様がいないときの資格者様がどこか退屈というか、寂しそうにみえたのはそのためだったのですね」

 クロエは姉の表情をずっと眺めていた。

 初めて恋を知った女はこんなにも潤うのかと思うほど、ヘレナの相貌は生き生きとしていた。

「こんな話をできる者は他にいません。もちろん姉上にも、母上にも言えません」

「それで……妹の私にお話ししてくださったのですね?」

 きっと誰にも言えなかった話を初めて打ち明けてくれたのだ。

 それほどまでクロエを信頼しているということである。

 困惑はいつしか興奮へと変わっていた。彼女の中に義姉の信頼に応えたい気持ちが沸々と湧きあがってきた。

「わかりました。他ならぬ姉様の頼みですし、特別な理由もお聞きしましたから……頑張って務めを果たしたいと思います」

「……本当に?」

「資格者様とは面識もございますし、不安なことはありませんから」

 ヘレナは妹の手を取り、しっかりと握りしめた。

「……ありがとうございます、クロエ。本当に、ありがとう……っ!」

 それを握り返しつつ、クロエは問いかけた。

「それで……姉様は資格者様と、どこまで進んでいるのですか?」

「……どこまで、とは?」

 意図をつかみかねている姉に、クロエはにやりと頬を緩ませて言った。

「好きあっている者どうしが寝食を共にしたのですから、相応の出来事はおありだと思うのですが」

「なっ……なぜそのようなことを聞くのですか!?」

「姉様に代わってお世話させていただくのですから、間違いのないように事情をお聞きしなくては」

「……っ!」

「ねぇ、姉様。どこまで進んでいるんですか?」

「そ、それは……」

 興味津々な妹の問いかけに、ヘレナは顔を真っ赤にして押し黙ってしまう。

「……耳を貸してください」

 じっと姉を見つめている妹に観念したのか、ヘレナは重く閉ざしていた口を開き、クロエの耳元でささやいた。

「あ……あの方のお子を授かる以外のほぼすべては……」

「ちょっ……ええっ……!?」

 思わず声を漏らしそうな口を自分でふさぐ。

 これはとんでもない秘密を聞いてしまった――。

 絶対に漏らしてはならない秘密を知った以上、自分も共犯者の一員になってしまったことにクロエはほんの少しの後悔を覚えた。

 だが、禁忌という果実はたまらなく甘美なものでもあった。

 文字通り『恋に落ちて』しまった姉がこれからどうなってしまうのか、仕事一途だった姉を背徳的な恋に目覚めさせてしまった資格者がいったいどれほどの人物か、それを一番身近な場所で観察することができるのだ。

 クロエにはもはや、その禁忌の味に抗う理由はなかった。

 こうして、ヘレナの妹クロエ・トラキアは資格者カロルス・アントニウスの侍女となる決意を固めていった。

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