第21話 郡伯カロルス・アントニウス
湊町パラマスでドラゴンとの戦いがあってから三週間が経とうとしていた。
パラマスで拘束された大麻商人の使用人たちとカルディツァ領主、さらに郡都カルディツァで拘束された領主の金庫番等、合わせて数十名が大麻の不正流通の容疑で王都へ向けて送致されたが、ようやくその処分が決まった。
二人の領主は勅命により罷免、所領を没収された。女王直轄領から近いテッサリア北部二つの郡で百人近くが捕縛された不祥事は地域一帯に衝撃を広げる結果となったのである。
領主が罷免された二つの郡に政治空白が生まれることを懸念した女王ディアナ十四世は、治安維持を目的に駐留させていた正規軍部隊を引き続き置くことにしたが、大麻取引で潤った二人の領主から多くの貢納を受けていた大領主イメルダ・マルキウスがさっそく反発を示した。
これに対して、女王は「再三再四統治の乱れを是正するように要請してきたにもかかわらず、なぜ支配下にある領主のこのような不祥事を見抜くことができず、今日まで放置してきたのか」とイメルダの統治が乱れていることをたしなめる書簡を送って牽制している。
こうした中、第二軍務卿ユスティティア・クラウディアが王都に通じる街道沿いの郡都カルディツァに入った。その知らせを受けたイメルダ・マルキウスも、カルディツァのさらに南を流れるテッサリア地方最大の大河、ペネウス河沿いに軍閥の精鋭を集め、示威行動を取る構えであった。
***
それをよそに、初陣となるテッサリアへの出兵から凱旋した王女ソフィア、彼女とともに三週間余りを過ごした士官候補生や下士官たちに休暇が与えられた。
湊町パラマスで竜討伐の快挙を成し遂げた王女ソフィアの騎士カロルス・アントニウスもまた休養に入った。彼に貸し与えられた王都の邸宅は温泉による湯治にも活用されてきたもので、過酷な戦闘によって被った傷を癒すには絶好の環境であった。
「はぁ……やはり、ここの温泉は傷にとてもよく効くな……」
「ふふふ、シャルル様もすっかり気に入られたようですね。入浴という習慣がないとおっしゃって渋っていらっしゃったのが、ついこの間のように思われるのですが」
「それだけ、この国の
長い銀髪を結い上げて傍らで浴槽につかる美しいヘレナの手を握りしめる。するとその手が握り返してきた。
「やはり、君とこうして湯につかって身体を伸ばしているときが一番落ち着くな……生きてここに帰ってくることができて、ほっとしているよ」
「はい。あんなにひどい怪我を負われたというのにすっかり元気になられて……私も驚いています」
「君の介抱のおかげだ、礼を言うよ」
シャルルは手を離すと、ごつごつとした屈強な左腕で彼女の艶のある肩を抱いた。ビクンと震えが走るが、彼女はそこから逃げようとしない。右手でくいと彼女の顎を上向かせるとシャルルは控えめに唇をむさぼった。
「……シャルル様、まさか……こんなところで……」
「寝床に帰るまで待ちきれないよ」
「そんな、だめです……のぼせてしまいますから……」
彼の唇から逃げようとするほんのり色づいた頬に口づけを繰り返していくうちに、彼女の抵抗が弱弱しくなっていく。ふと彼が口づけを止めて、じっと彼女の目を見つめたが、何かを期待しているようなまなざしであった。
「口でだめだと言うけれど、君のとろけた紫の瞳はそうは言っていないようだ」
「もう、意地悪なお方……ですが、やはりここではいけません」
「そうか……」
欲望と理性のせめぎあいは紙一重のところで理性が勝ったようである。残念そうに彼が言うと、彼女は耳元に口を寄せてこうつぶやいた。
「またシャルル様がのぼせてしまうようなことがあっては、今度こそ王女様にご報告しなくてはなりませんから」
「それは困るな……なにより騎士の面目に関わる」
一緒に浴槽から上がって濡れた身体を拭いてから、シャルルはヘレナの身体を抱き上げて寝床へと連れていき、お互いに欠けた半身を求めあう肉の酒宴に興じた。寝床が互いに流した汗と体液でぐちゃぐちゃになるまでそれは続き、力尽きて絡み合ったまま二人とも意識を失ってしまったほどである。
翌朝目を覚ましたヘレナは我に返って、ずっと彼に背を向けていた。ほどなく彼が覚醒するとこんな言葉をつぶやいた。
「あの……昨日のことは、その……忘れてください」
「どうしてだい? あんなにかわいかったのに……」
「だって、羽目を外しすぎてしまいましたから。それにふしだらなお願いもたくさん叫んでしまいましたし……」
「君が日ごろ見せない姿をしっかり目に焼き付けたからね、きっと忘れないよ」
「もう……ばかなことおっしゃらないでください……」
下ろした後ろ髪を手櫛で梳くように彼が撫でているのが心地よいのか、言葉ほどにつれない態度ではなかった。
「俺はやはり生きているんだな。これが
今でもまれに白昼夢を目にすることがある。シャルルはそうヘレナに打ち明けた。自分が望む望まないにかかわらず、それこそ竜との死闘の最中にさえ目にすることがあった、と。
「君がいつか錆びた斧を綺麗にしてくれたことがあった。あの時の光景をふっと思い出したときに思いついたんだ、剣に魔力を帯びさせたらあの竜の固い皮膚も切れないだろうか、とね。それで竜を袈裟斬りにしてやった。いくら斬りつけてもびくともしなかった竜があの通りというわけさ」
「私の魔術をたった一回目にしただけで、再現なさったのですか?」
「まあ、そういうことができないのか? と俺はあの機体に聞いてみたのさ。だからやったのは俺じゃない、あいつさ」
それで精も根もすっからかんに尽き果ててしまったようだけどね――そう笑みを浮かべる彼に、ヘレナは寝返りを打つように顔を向けてこう言った。
「私はシャルル様にとても危ういところを感じます」
そうはっきりと口にした彼女に、彼は言葉を失っていた。
「マナを使い切るようなことが続くと、寿命を縮めてしまいますから……できれば、もうあのようなことはなさらないでください」
「心配してくれるのかい?」
「私だけではありません、王女様も、皆もどれだけ心配したか……」
どこか浮かない顔をするヘレナの頬を撫でるように労わったシャルルは、ずっと秘してきた話を彼女に打ち明けようと考えた。
「俺の身の上をこれまで君に話す機会がなかったな――少し聞いてくれるか」
頷いた彼女の髪を撫でながら、彼は語り始めた。
「俺の父は爵位をもった貴族だった。しかし、母は身分の低い踊り子だった。つまり、
ブルゴーニュ公だった父は正妻との間に何人かの嫡子を儲けていた。正妻と死別したのちに東方への遠征を行うようになった父が、その遠征先で見初めたのが彼の母だったと聞いたことがある。やがて物心つくまで育った彼は母のもとを離れ、遠征する父に付き従う機会が増えた。
父から直々に剣を学び、やがて近衛騎士団の同胞となる戦士たちと引き合わされたシャルルはアーサー王やシャルルマーニュの英雄譚に触れ、自分も物語の彼らのような歴史に名を遺す騎士になろうとした。弱冠十歳にして近衛騎士団の一員となって以来、十年以上にわたって父の覇道を支えてきたのである。それが彼の人生であった。
「俺も古代の英雄に引けを取らない立派な騎士になってやる――そう誓って傷だらけになっても生き延びてきた。それを悔いちゃいないし、これからも戦って生きていくしかない。それは避けられない
「それでも……私は、あなたに生き続けてほしい……そう願います」
「そうだな……君を泣かせるのは本意じゃない」
頬を濡らすヘレナにそっと笑いかけ、彼は何度も頷いた。
これほど落ち着いた日々を過ごすことがあっただろうか――。
そう彼が思うほど穏やかな日々が、それから一週間続いたある日のこと。彼の邸宅に使者が訪れた。
「シャルル様、女王陛下よりご使者がおいでになりました」
小さな書斎で読書に興じていた彼の前にヘレナがやってきた。いつもよりも緊張した面持ちである。王太子ベアトリクスや王女ソフィアからの使者は過去にあったが、女王よりの使者を迎えるのは初めてであった。
「お待たせいたしました、カロルス・アントニウスです」
「陛下より書状をお持ちしました。どうぞお受け取りを」
「……拝見させて頂く」
ひざまずいた使者より書状を受け取って開くと、先日の献上品に対する改めての御礼に始まり、以下のような趣旨が書いてあった。
一、『資格者』カロルス・アントニウスの王国の騎士へ登用する意向であること
二、カロルス・アントニウスの勲功に対して爵位と勲章を与える意向であること
三、これら叙勲を行う祝賀会への参加可否を回答してほしいこと
シャルルは返書として御礼状を認めて、祝賀会への参加の意思を明らかにすると、それを使者に渡した。
「シャルル様……おめでとうございます!」
「ありがとう、エレーヌ。これで俺もこの国で地位を確立できそうだ!」
使者が去った後、わが事のように喜んでくれる恋人を抱きしめてキスをした。
ルナティア王女ソフィア・ディアナ・アルトリアの騎士、カロルス・アントニウス――王国が始まって以来例を見ない竜討伐を成し遂げた豪傑として、その者の名前は王国の永い歴史に刻まれることになった。
八百年前に絶滅したと伝わる男性種の生き残りである彼はこの国の臣民ではなく、いずこから来た者か、その経歴も血筋も一切が謎に包まれている流浪の民である。
わかっていることは、ルナティア建国以来、誰も抜くことのなかった古代の英雄アルトリウス由来の選定の剣を抜き放った唯一の人物であり、同じく英雄が騎乗したと伝承に伝わる機動甲冑を駆って竜討伐を果たした唯一の人物であること、それだけであった。
ともあれ、後代“カロルス大帝”と仰ぎ見られる彼の名は、これをきっかけに歴史の表舞台に現れることになった。
この事件が歴史を動かす転換点であったと誰が知っていただろうか。この時点ではまだ神のみぞ知ることである。
カロルス・アントニウス 正七位に
― 第二章 完 ―
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