新・第一章:さすらいの騎士と鋼の巨人

第一幕:不可思議な邂逅

第1話 騎士を拾った姫君

 巨星が墜ちた。

 その名は、アルテュール・ド・ブルゴーニュ。

 西ヨーロッパの軍事大国、ブルゴーニュが輩出した『征服王』である。


 二十年来の宿敵、フランスを打ち破って、一代で西ヨーロッパに築き上げた版図はじつに広い。

 北はフランドル伯より受け継いだネーデルラントから、南はフランス王から奪ったプロヴァンスまで。

 ゆえに、彼は定まった都を持たず、広大な領地を宮廷とともに移動した。

 そんな彼をフランクの英雄、カール大帝シャルルマーニュの再来と呼ぶ者もいた。

 四十にして西ヨーロッパの覇権を手中に収めた彼は、プロヴァンスを拠点に定め、東征をはじめた。

 ゆく先は、古代ローマ時代から続く千年の古都、コンスタンティノポリス。

 それを呑み込まんとする若きスルターン、『征服者ファーティフ』が治める東方の異教徒の帝国との戦いが、生涯最大にして最後の事業である。

 十数年にわたる戦いを繰り広げた末に、生命を削った征服王はついに陣没した。


 ヨーロッパから『太陽』が消えた日であった――そのように謳う歴史家もいる。


 赫々かくかくたる征服王を失い、撤退を始めたヨーロッパ連合軍。

 征服王に二十年苦杯を舐めさせられた征服者が、見逃すはずがない。

 征服王の遺骸むくろを奪い、ちんもとへ持ち帰れ。その大号令が発せられる。

 勇壮な軍楽を鳴らし、威風堂々たるスルターンの精鋭が追いすがり、

 ヨーロッパの盟主たる、ブルゴーニュの旗が靡く本隊に襲い掛かる。


 ブルゴーニュ軍は殿軍しんがりとして、途中いくつもの即席の要塞を築いた。

 遅滞戦闘の末、押し寄せるスルターンの精鋭はみるみる膨れ上がる。

 ついに、追い詰められた山の麓。援軍となる味方は、すでにいない。


 切り立った断崖。

 それを背に預けて陣を構え、立てこもるヨーロッパ連合軍。

 三方から囲むのは、新月の軍旗を掲げた黒い軍勢。

 烏合の衆うごうのしゅうを追い詰め、軍楽とともに轟いた鬨の声。

 鉄砲と大砲を唸らせて、襲い掛かった異教徒たち。

 これを迎えるは、征服王の子飼こがいたる、手負いの老兵たち。

 ここを死に場所と定め、必死の抵抗を試みるも衆寡敵しゅうかてきせず。

 死戦を制したスルターンの精鋭は競って本陣になだれ込んでいく。

 異教徒たちに蹂躙される、ブルゴーニュ軍旗。


 勝利は決した。神は偉大なり!


 その咆哮はほどなく断末魔へと変わり果てた。


「撃て、撃て、撃ち尽くせッ」


 崖上で絶叫する一人の若者。

 父譲りの眉目秀麗な顔立ち。

 その頬に走るは一本の古傷。

 怒りに逆立つ栗色の髪、刃の如く鋭くつりあがったまなじり


「捨てるくらいなら全部撃っちまえッ」


 鎧兜を脱いだブルゴーニュ砲兵が鉄の雨を降らせる。

 篝火を焚いて鎧兜を着せた案山子かかしがずらりと居並ぶ本陣。

 そこに敵がなだれ込むのを息を潜めて待ち構えていた。

 若者の放った号令が逆襲への合図。

 功を焦り、互いに先駆けを競った前衛。降り注ぐ弾に撃ち抜かれる五体。

 何が起こっているのかわからない、異教徒の軍団の背後、

 騎槍を構えたブルゴーニュ騎兵が山を駆け下り突撃する。

 勝利の高みから叩き落とされた、異教徒の軍団。

 たちまち大混乱に陥り、散り散りになっていく。


 この敗戦の第一報を耳にしたスルターンはいぶかった。

 罠だ――あの征服王がまだ生きているのではないか――と。

 その疑心暗鬼がさらなる追撃の手を緩め、ヨーロッパ連合軍は敵地で壊滅的被害を出さずに兵を退くことができた。


 この絶体絶命の撤退戦を成功裏に導いた若者。

 その名は、シャルル・アントワーヌ・ド・ブルゴーニュ。

 征服王の落胤らくいんにして、征服王の近衛騎士団『王の盾持ち』の団長を務めた若者が、この物語サーガの主役である。


 異教徒との戦いに半生を燃やし尽くした征服王。

 その血と屈強な体格、そして軍事的才能。

 それらを受け継いだ若者の胸に、ふつふつとたぎるモノが二つ。

 亡き父に代わり、異教徒との戦いに身を投じる覚悟と野望だった。











 そう、予想だにしなかったあの日を迎えるまでは――。











 黒々とした海に白波が立っている。強い海風が砂をあおる。砂被すなかぶりになった栗色の髪が揺れた。

 霞む目をしばたいて、地べたに倒れた若者は大地に掌をついた。右手には一握りの土ごともぎ取ったいくつかの白詰草トレーフル。その他には何もない荒れ地が辺りに広がっている。


(……ここは?)


 困惑。

 記憶と景色が結びつかない。

 こんな場所に来たことがなかったし、さっきまでいた場所でもない。


(どうしちまったんだ……うっ)


 刺客と斬り合った際に負った傷が疼く。この痛みは身に覚えがある。しかし、彼を殺そうとした者たちは誰一人そこに残っていなかった。運が良かったのか、悪かったのか。今のままではなんとも言えない。


(生きてる……助かったのか)


 他に誰一人いない耐えがたい孤独を忘れたくて、当てもなく彷徨さまよった。波音を背に負傷した足を引きずり、目的地のない歩みを進めていく。

 丘の上でぐるりと眺めた。海の反対側、原野を切り開いた道があることに気づいた。近くまで下りていく。遠征で立ち寄ったイタリア半島の教皇領で目にした石畳の街道に似ていた。


(なんだよこれ、アッピア街道か?)


 しかし、首をかしげて思い直す。


(いや……あり得ねぇだろ。プロヴァンスに帰ってきたのに、なんでイタリア半島にいるんだよ)


 見知らぬ景色に動揺する心。深く深呼吸して気持ちを落ち着けようとした。


(とにかく街を探そう。これを辿っていけば、いずれ人に会えるだろうさ)


 ここがどこかはわからない。だが、人里に着けば何かわかる。そんな希望を心に燃やして、見知らぬ道程を一歩ずつ進んだ。やがて空を高く覆う雲の彼方で日が暮れてゆき、辺りを夜の帳が包み込む。

 黒々とした雷雲が稲光とともに篠突く雨を以って放浪者を打ち据えた。

 風雨を遮る屋根もない中、尿意を覚えて風下に向かって道端で用を足す。ぶるっと身が震え、顎が鳴った。


(おい待てよ、イタリア半島どころか、地中海じゃねぇ寒さだぞ!)


 桶をひっくり返したような激しい雨は三〇分ほどで止んだ。ずぶ濡れになった前髪を腕で拭う。いつしか雲間から無数の星空が顔を出す。半月の光が差し込んだ。晴れ渡る天を仰いで絶句する。星が全部でたらめに並んでいた。


(おいおい、どうなってんだよ)


 星がわかればだいたいの緯度と方角が理解できる。雲が晴れたとき、そんな期待が湧いては消え去った。彼が知っている星座が一つも見当たらなかったのだ。


(地中海の端っこでも星座はこんな変わらなかったのに、どこなんだよここは)


 喉がカラカラになっている。腹も減るが、喉の渇きに比べれば大したものではない。

 潮の匂いがする砂浜の近くで喉を潤すのはまず難しい。安心して飲める水を得られる場所を探す必要があった。


(クソッ……どうして俺がこんな目に……)


 異教徒との戦いのなかで親父おやじが死んだ。死の直前に親父はこう言い残した。


 プロヴァンスに軍隊を退却させ、再起の時を待て――。

 後事をお前に託す旨を遺言書に記して王宮の執務室の机に隠してある――。


 だから彼は退いた。親父に殉じて死ぬと言った老兵たちを説得して。

 おどろおどろしい音を鳴らして追いすがるスルターンの親衛隊は手強かった。ここが死に場所とわらった老兵に、捨てる命なら俺にくれと言わねばならなかったほどだ。

 進んで死地に残った老兵を囮に、彼はスルターンの精鋭を引きつけて焼き払った。彼らの犠牲があって彼は生き残った。ここで死ねば、その犠牲が無駄になる。


(このまま死ぬもんか、この借りは何倍にして返してやる)


 彼の地の土になった同胞たちの弔いも済んでいないうちに、親父が遺した遺言書をまだ手にしていないうちに、こともあろうに味方から刺客を送られ、あまつさえ結婚を約束していた許嫁をフランス王に拉致されてしまった。このままじゃ死んでも死にきれねぇ――そんな思いが堰を切る。

 月に向かって彼は吠えた。

 雲が晴れた分、夜はぐっと冷えていった。思うように歩けない身体が、一層動かなくなっていく。石畳の街道がずっと続くだけで、歩いても歩いても人に逢う気配がまるでしない。


(腹減った……喉渇いた……)


 喉が苦しい、喉が渇くほどに水を求めているのに、涙が出てきそうになる。

 群れからはぐれて餓えた狼のように、野垂れ死にが待っているのだろうか。こんなところで死んでしまうのか。

 誰にも看取られることなく孤独に。


(いやだ、死にたくねぇ……こんなところで……)


 戦って死ぬ覚悟はできていた。アーサー王、シャルルマーニュ、ローラン――偉大な英雄の物語を読んで、いつか自分もそうありたいと願っていた。

 偉大な父の傍らで盾持ちとして戦うことを許されて、十一の歳で初陣を飾った。

 自分を殺しにきた敵を殺して五体で震えた日々。激しい戦いを経るごとに身体に刻む傷の数が増えていった。いつに間にか、命を賭ける鉄火場てっかばに立つ恐怖に身体と精神が慣れていた。

 そうやって異教徒との戦いに十年――人生の半分を費やしてきた。信仰のために生きる騎士のあり方と疑わなかった。


(こんな無様な死に方は絶対いやだ)


 腰に差した一フィート半四五センチほどの短剣を鞘から引き抜く。

 ガーネットの宝石が柄に埋め込まれた短剣――それは近衛騎士団『王の盾持ち』の団長になった若者に征服王アルテュールが贈ったものだ。在りし日の父から譲られた形見の品である。


親父おやじ……俺はアンタのような立派なおとこになりたくて生きてきた)


 十六で盾持ちから騎士になり、二十で『王の盾持ち』の団長に指名された。

 それから一年後、偉大な父は天に還った。それがほんの数か月前のことだ。父から預かった近衛騎士団の同志とともに彼は生きて国に帰った。

 こんな場所で息絶えるためでなく、聖戦に備え力を蓄えるためだ。自らを鼓舞した若者は形見の短剣を鞘にしまい、また歩き始めた。


(歩いてもゆく当てが見えねぇ……一緒に旅する仲間もいねぇ)


 濡れた身体に吹き付ける海からの強い風。寒さに冷え切った若者を先の見えない暗闇となき孤独が苛んでいく。


(独りがこんなにつらいなんて……つらい、つらいよ……カトリーヌ)


 許嫁だった幼馴染は息災だろうか。見知らぬ誰かと結婚させられて、寂しい思いをしやしないか。自分のように寒い場所に放り出されて震えちゃいないだろうか。

 クラクラする頭で離れ離れになった彼女のことを思いながら、あてどなく夜通し歩き続けて山の向こうが白み始めた。


(あれは……ッ!?)


 黒い海のはるか彼方に光が見え、目を凝らした。漁火いさりびだ。ようやく人の営みが見えてきた。きっとこの先には漁村がある。

 思うままにならない足を引きずって一所懸命に歩こうとしたが、身体が言うことをきかない。


(もう少しだ、動けッ、動けッ!!)


 全身が震えてふらついた。気持ちだけが空回りする。足がもつれてつまずいた。

 やっと希望が見えたのに――身体が思いのほか冷え切っている。

 呼吸が早く、苦しい。身体を起こすのも億劫なくらい気だるい。瞼が重たくなってきた。身体中の力が抜けていく。


(……もういちど、お前に逢いたかったなぁ……カトリーヌ……)


 斃れようとする彼をあざ笑い、容赦なく降る雨。

 若者は冷たい石畳の上で、次にいつ目覚めるかわからない眠りに落ちた。


 ***


 雨上がりの朝靄あさもやの原野を貫いた石畳の街道をゆく一台の馬車。

 その中には金髪碧眼の美しい少女と銀髪紫眼の使用人が並んで座っている。

 透き通った青い瞳の持ち主の名はソフィア・ディアナ・アルトリア。「月の王国レグナ・ルーナ」と呼ばれるルナティア王国の第二王女で、他国への外遊からの帰途にあった。

 

 外遊先で口にしたあの料理に似たものがこの国でも作れないだろうか――。


 そう考えた王女は王都に帰る途中、珍しい海産物が水揚げされるという漁村に立ち寄った。

 その一帯は土地が痩せており、小麦畑などはほとんどない。地元に住むものは漁師となって海に出るほかない貧しい土地であった。賑わっているのは沿岸の漁村だけ、そこをひとたび離れれば閑散とした原野の中を人通りの少ない街道が貫くのみだ。


「ああ退屈、何か面白いことがあればいいのに」


 ただ運ばれるだけの馬車の中では何もすることがなく、王女はため息をこぼした。腰まで伸びた長いブロンドの美しく整えられた後ろ髪の毛先をいじっている彼女を、横に侍っている二十代前半ごろの女性がたしなめるように声をかけた。


「王女様、髪が痛んでしまいますよ」

「しょうがないじゃない、ヘレナ。何もすることがなくてとても退屈なんだもの」

「関所で一泊して明日には王都へ着きますから、もうしばらくのご辛抱ですよ」

「あら……何かしら」


 侍女のヘレナになだめられて頬を膨らませていた王女ソフィアの目が興味深い何かを見つけたのはそれから間もなくのこと。石畳の上に何かがあることに気づいた。


(まさか……人!?)


 晩夏とはいえ雨で濡れたまま横たわっていれば体温を奪われて死んでしまう。

 ソフィアの身体が動いた。馬車の窓をがばっと開けて身を乗り出さんとする王女に傍らに座った銀髪の侍女は絶句した。


「今すぐ馬を止めさせなさい」

「いかがいたしましたか」

「いいから止めてッ、早く!」


 馬を止めるよう馭者ぎょしゃに促したソフィアは馬車が止まるや否や馬車を下りた。

 スカートの裾が乱れるのも構わず足早に、通り過ぎた人影に向かって歩く。その意図にヘレナも気づいたようで、血相を変えて追いかけてきた。


「お待ちください、王女様ッ」


 ヘレナも必死に追いかけて、ソフィアとほぼ同じくらいにうつぶせになった人物のもとにたどり着いた。荒天の街道を外套もつけず歩いたようだ。衣服が湿っている。身体が冷え切っていることは疑いない。


「王女様はお下がりください。私が確認いたします」


 栗色の髪を短く生やし、大きな体格をした旅人の耳元に口を寄せて、ヘレナは声を掛けた。王女よりも一回り背の高いしっかりとした体格から大きな声を出して意識の有無を確かめた。


「大丈夫ですか、旅の方!」


 返事がない。意を決して首筋に手を添えた。身体が冷たい。だがわずかに脈拍がある。侍女が目を見開き主人に振り返った。


「脈がまだございますがとても微かで、今にも処置をしなければ助かりません」

「手当てして差し上げましょう」

「見ず知らずの者です。よろしいのですか」

「どこの出身かわからない者でもこのルナティアの地で倒れた旅人である以上、黙って見過ごすわけにいかないでしょう。母なる月の女神様がいついかなる時もわたくしの行いを見守っているのですから」


 先ほどまでの退屈そうな表情が嘘のようにソフィアは透き通る青い瞳の中にきらりと光る意志を宿していた。主人にそこまで言われたらご意志に従うまで――ヘレナの決断は早かった。


「かしこまりました。急ぎ蘇生術を施します」

「皆もヘレナに手を貸して」

「は、はいっ。王女様」


 ソフィアに随行している他の使用人たちも集まってくる。その様に気づいて一人の武官が駆け寄ってきた。腰まである赤髪を束ね、馬の尾のごとく靡かせた、気の強そうな眼差しの彼女。王女の隊列の先頭で騎乗して周囲を警戒していた護衛隊長である。


「いかがいたしましたか、王女殿下」

「行き倒れの者を見つけたのです。ヘレナに蘇生術を施してもらいます」

「いけません! 今日中に関所に着けなくなるかもしれません」

「かまいません。アグネア、ここを宿営としましょう。急ぎ準備なさい」

「いいえ、承服いたしかねます。ここは野盗も出る危険な街道です」


 アグネアと呼ばれた赤髪の武官は同意できないと譲らなかった。自分の身の安全を守るためだとソフィアにはわかっている。それを押してこう言った。


「行き倒れの旅人を故意に見捨て、後ろめたい思いを抱いたまま王都へ帰りなさい。ルナティアの王女たるわたくしにあなたはそう言うのですか?」

「故意にとは申しておりません、たまたま運が悪かったと……」

「同じことです。このまま放置していればこの方は助からない……それを知って捨て置くなんて、わたくしにはできませんわ!」


 毅然として、はっきりと言い切った王女。燃えるような赤い髪をした武官は気圧される。小さく息を吐き、ついに折れた。


「承知しました……皆の者、この近くの開けた場所に天幕を張れ!」


 天幕を張るように号令をかけた護衛隊長に従って配下の護衛たちは荷馬車から天幕を下ろし、速やかに組み立てていった。

 その間にヘレナが湿った旅人の服を脱がして乾いた布で身体を拭いた。全身のあちこちに古傷が、左足にはできて間もない刺傷があった。


「身体を徐々に温める必要がございますが、ここから動かすのはかえって危険です」

「わたくしの毛布を使いなさい。それが一番温かいでしょうから。ここで温めてやりましょう」

「かしこまりました。イリニは王女様の毛布を持ってきて。それから手の空いている者たちはここに天幕を張って風除けにして。事態は急を要します」

「はい、只今ッ」


 愛用の寝具を使えという指示に王女自身の意志の強さを悟ったヘレナは、矢継ぎ早に配下の使用人たちに指示を出していった。

 旅人が倒れた真横に大きめの布を敷き、武官が六人がかりで身体を抱えて布の上に仰向けにした。そこにいち早く毛布を掛けて体温が戻るまで温める。冷たい風で身体が冷えないように周りに天幕が張られていき、その中でヘレナが旅人の傍らに座って容体を窺っていた。

 朝靄が晴れて太陽が天頂に近づき昇っていくにしたがい、気温が上がっていった。旅人の頬にも少しずつ血色が戻っていく。適切な処置の甲斐あって行き倒れの旅人は命の危機を脱しつつあった。


「どうですか、ヘレナ」

「峠を越えそうです。体格がしっかりしていますし、体力のある者なのでしょう」

「運が良かったですわね。ここで息絶えていてもおかしくなかったのに」

「王女様のお慈悲のおかげでございます。この街道は人通りが少ないので、私たちが処置しなければ助からなかったでしょう」


 侍女がそう答えると、王女は満足そうに笑みを浮かべた。


「その者が目覚めたら、どこへ行くつもりだったか問いましょう。足の怪我も治してやりなさい」

「かしこまりました。お任せください」


 天幕を出た王女に使用人の一人が声を掛けた。


「王女様、旅の者が持っていた荷物を全部集めておきました」

「ご苦労様。身分や出自がわかるようなものはありましたか」

「はい、このような短剣がございました」


 使用人が両手で抱えて差し出した短剣は柄に鮮やかな赤色をした宝石が埋め込んであるものだ。実用的な武器ではなく、装飾品の一種とわかる。

 それを手に取って鞘から引き抜いてみた。幅の広い角ばった両刃の短剣の中央には真っ直ぐにが引いてある。あまりにも整った造形であった。

 美術品を見る作法で刀剣を見た王女は、それをゆっくりと元の鞘へとしまった。


「何らかの地位のある者でしょうか……これだけではわかりませんね。他には?」

「いいえ、あとは武器らしい長剣が一本あるだけでございました」

「わかりました。無くしてはいけないので、一つにまとめて天幕の中へしまって」

「かしこまりました」


 使用人に用件を伝えた王女は街道が貫く原野を見渡した。何もない場所である。


(こんな場所でたった一人で歩いていたのはなぜかしら。南に向かって倒れていたということは、きっと北から下ってきたんでしょうね)


 この北には街がない。砂丘と葦原となっている湿地帯、そして木の生えない荒地。人が棲み付くには不都合な土地しかないのだ。

 その原野を石畳の街道が貫いている。ルナティア王国が成立するよりも昔からあるバルティカ街道の一つである。その先には女王が治める直轄領との境目である関所があった。


(王都に着くのは遅くなってしまいそうだけど、退屈しないで済みそう。アグネアを困らせてしまったけれど、ごめんなさいね)


 辺りの警戒を怠らず気を配っている護衛隊長。

 その姿を遠目に見つつ、王女ソフィアは心で詫びた。

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