第一幕:不可思議な邂逅

第1話 騎士を拾った姫君

 雨上がりの朝靄あさもやの原野を石畳の街道が貫く。

 麦畑もない辺鄙な地を、白銀で飾り付けられた一台の立派な馬車が通る。

 その中に金髪碧眼の美しい少女と銀髪紫眼の使用人が並んで座っていた。

 透き通った青い瞳の持ち主の名はソフィア・ディアナ・アルトリア。「月の王国レグナ・ルーナ」と呼ばれるルナティア王国の第二王女で、他国への外遊からの帰途にあった。

 

 外遊先で口にした料理に似たものが、この国でも作れないだろうか――。


 そう考えた王女は王都に帰る途中、珍しい海産物が水揚げされるという漁村に立ち寄った。

 その一帯は土地が痩せており、小麦畑などはほとんどない。地元に住むものは漁師となって海に出るほかない貧しい土地であった。

 賑わっているのは沿岸の漁村だけ。そこをひとたび離れれば、閑散とした原野の中を人通りの少ない街道が貫くのみだ。


「ああ退屈。何か面白いことがあればいいのに」


 ただ運ばれるだけの馬車の中では何もすることがない。

 王女はため息をこぼした。腰まで伸びた長いブロンドの美しく整えられた後ろ髪の毛先をいじっている彼女を、横に侍っている二十代前半ごろの女性がたしなめるように声をかけた。


「王女様、髪が痛んでしまいますよ」

「しょうがないじゃない、ヘレナ。何もすることがなくてとても退屈なんだもの」

「関所で一泊して、明日には王都へ着きますから。もうしばらくのご辛抱ですよ」

「――あら。何かしら」


 侍女のヘレナになだめられて頬を膨らませていた。

 そんな王女ソフィアの碧眼が興味深い何かを見つけたのは間もなくのこと。石畳の上に何かがあることに気づいた。


(まさか……人!?)


 昨晩は激しい雨が降った。

 晩夏とはいえ、雨で濡れたまま横たわっていればどうなるか。


(体温を奪われて……死んでしまうじゃないッ!?)


 ソフィアの身体が動いた。馬車の窓をがばっと開けて身を乗り出さんとする王女に傍らに座った銀髪の侍女は絶句した。


「今すぐ馬を止めさせなさい」

「いかがいたしましたか」

「いいから止めてッ、早く!」


 馬を止めるよう馭者ぎょしゃに促したソフィアは、馬車が止まるや否や下りた。

 スカートの裾が乱れるのも構わず足早に、通り過ぎた人影に向かって歩く。その意図にヘレナも気づいたか。血相を変えて追いかけてきた。


「お待ちください、王女様ッ」


 ヘレナも必死に追いついて、ソフィアとほぼ同じくらいにうつぶせになった人物のもとにたどり着いた。

 衣服が湿っている。荒天の街道を外套もつけず歩いたのか。身体が冷え切っていることは疑いない。


「王女様はお下がりください。私が確認いたします」


 栗色の髪を短く生やし、大きな体格をした旅人だった。

 その耳元に口を寄せて、ヘレナは声を掛けた。王女よりも一回り背の高いしっかりとした体格で、大きな声を出して意識の有無を確かめた。


「大丈夫ですか、旅の方!」


 返事がない。意を決して首筋に手を添えた。身体が冷たい。だがわずかに脈拍がある。侍女が目を見開き主人に振り返った。


「脈がまだございますがとても微かで、今にも処置をしなければ助かりません」

「手当てして差し上げましょう」

「見ず知らずの者です。よろしいのですか」

「このルナティアの地で倒れた旅人である以上、見過ごすわけにいかないでしょう。どこの出身かわからない者であったとしても。母なる月の女神様がいついかなる時もわたくしの行いを見守っていらっしゃるのですから」


 先ほどまでの退屈そうな表情が嘘のようにソフィアは透き通る青い瞳の中にきらりと光る意志を宿していた。

 主人にそこまで言われたらご意志に従うまで――ヘレナの決断は早かった。


「かしこまりました。急ぎ蘇生術を施します」

「皆もヘレナに手を貸して」

「は、はいっ。王女様」


 ソフィアに随行している他の使用人たちも集まってくる。

 その様に気づいて一人の武官が駆け寄ってきた。腰まである赤髪を束ね、馬の尾のごとく靡かせた、気の強そうな眼差しの彼女。王女の隊列の先頭で騎乗し、周囲を警戒していた護衛隊長である。


「いかがいたしましたか、王女殿下」

「行き倒れの者を見つけたのです。ヘレナに蘇生術を施してもらいます」

「いけません! 今日中に関所に着けなくなるかもしれません」

「かまいません。アグネア、ここを宿営としましょう。急ぎ準備なさい」

「いいえ、承服いたしかねます。ここは野盗も出る危険な街道です」


 アグネアと呼ばれた赤髪の武官は同意できないと譲らなかった。自分の身の安全を守るためだとソフィアにはわかっている。それを押してこう言った。


「行き倒れの旅人を故意に見捨て、後ろめたい思いを抱いたまま王都へ帰りなさい。ルナティアの王女たるわたくしにあなたはそう言うのですか?」

「故意にとは申しておりません、たまたま運が悪かったと……」

「同じことです。このまま放置していればこの方は助からない……それを知って捨て置くなんて、わたくしにはできませんわ!」


 毅然として、はっきりと言い切った王女。燃えるような赤い髪をした武官は気圧される。小さく息を吐き、ついに折れた。


「承知しました……皆の者、この近くの開けた場所に天幕を張れ!」


 護衛隊長が叫ぶ。その号令に従って、配下の護衛たちは荷馬車から天幕を下ろし、速やかに組み立てていった。

 その間にヘレナが湿った旅人の服を脱がして乾いた布で身体を拭いた。全身のあちこちに古傷が、左脚にはできて間もない刺傷があった。


「身体を徐々に温める必要がございますが、ここから動かすのはかえって危険です」

「わたくしの毛布を使いなさい。それが一番温かいでしょうから。ここで温めてやりましょう」


 愛用の寝具を使え。

 その指示に王女の意志の強さを悟ったヘレナも、矢継ぎ早に配下の使用人に指示を出していった。


「かしこまりました。イリニは王女様の毛布を持ってきて。それから手の空いている者たちはここに天幕を張って風除けにして。事態は急を要します」

「はい、只今ッ」


 旅人が倒れた真横に大きめの布を敷き、武官が六人がかりで身体を抱えて布の上に仰向けにした。そこにいち早く毛布を掛けて体温が戻るまで温める。冷たい風で身体が冷えないように周りに天幕が張られていき、その中でヘレナが旅人の傍らに座って容体を窺っていた。

 朝靄が晴れて、太陽が天頂に近づき昇っていく。

 気温が上がる。旅人の頬にも少しずつ血色が戻っていく。適切な処置の甲斐あって行き倒れの旅人は命の危機を脱しつつあった。


「どうですか、ヘレナ」

「峠を越えそうです。体格がしっかりしていますし、体力のある者なのでしょう」

「運が良かったですわね。ここで息絶えていてもおかしくなかったのに」

「王女様のお慈悲のおかげでございます。この街道は人通りが少ないので、私たちが処置しなければ助からなかったでしょう」


 侍女がそう答えると、王女は満足そうに笑みを浮かべた。


「その者が目覚めたら、どこへ行くつもりだったか問いましょう。脚の怪我も治してやりなさい」

「かしこまりました。お任せください」


 天幕を出た王女に使用人の一人が声を掛けた。


「王女様、旅の者が持っていた荷物を全部集めておきました」

「ご苦労様。身分や出自がわかるようなものはありましたか」

「はい、このような短剣がございました」


 使用人が両手で抱えて差し出した短剣は柄に鮮やかな赤色をした宝石が埋め込んであるものだ。実用的な武器ではなく、装飾品の一種とわかる。


「――マテリアル・アナライズ」


 呪文を唱え、王女は驚いた。


(この鉱物組成は、柘榴石ガーネットかしら。魔術で精製したものじゃない、天然由来で高価なもの。それだけでもすごいのに、何かの術式と一体化されているみたい)


 興味がわいた。手に取って鞘から引き抜いてみた。刃の長さは四五センチくらい。幅の広い角ばった両刃の短剣の中央には真っ直ぐにが引いてある。あまりにも整った造形であった。


(こんな剣、普通に作れるものじゃない。この持ち主は、いったい何者なの?)


 美術品を見る作法で刀剣を見た王女は、それをゆっくりと元の鞘へとしまった。


「何らかの地位のある者でしょうか……これだけではわかりませんね。他には?」

「いいえ、あとは武器らしい長剣が一本あるだけでございました」

「わかりました。無くしてはいけないので、一つにまとめて天幕の中へしまって」

「かしこまりました」


 使用人に用件を伝えた王女は街道が貫く原野を見渡した。何もない場所である。


(こんな場所でたった一人で歩いていたのはなぜかしら。南に向かって倒れていたということは、きっと北から下ってきたんでしょうけど)


 この北には街がない。砂丘と葦原となっている湿地帯、そして木の生えない荒地。人が棲み付くには不都合な土地しかないのだ。

 その原野を石畳の街道が貫いている。ルナティア王国が成立するよりも昔からあるバルティカ街道の一つである。その先には女王が治める直轄領との境目である関所があった。


(王都に着くのは遅くなってしまいそうだけど、退屈しないで済みそう。アグネアを困らせてしまったけれど、ごめんなさいね)


 辺りの警戒を怠らず気を配っている護衛隊長。

 その姿を遠目に見つつ、王女ソフィアは心で詫びた。


 ***


 それから、さかのぼること十数時間――。


 黒々とした海に白波が立っていた。強い海風が砂をあおる。砂被すなかぶりになった栗色の髪が揺れていた。

 霞む目をしばたいて、地べたに倒れた若者は大地に掌をついた。

 右手には一握りの土ごともぎ取ったいくつかの白詰草トレーフル。その他には何もない荒れ地が辺りに広がっている。


(……ここは?)


 困惑。

 記憶と景色が結びつかない。

 こんな場所に来たことがなかったし、さっきまでいた場所でもない。


(どうしたんだ……うっ)


 刺客と斬り合った際に負った傷が疼く。この痛みは身に覚えがあるが――

 彼――シャルル・アントワーヌを取り囲み、斧槍ハルバードを振り下ろした者たちは誰一人そこに残っていなかった。


(生きてる……助かったのか)


 運が良かったのか、悪かったのか。今のままではなんとも言えない。

 他に誰一人いない耐えがたい孤独を忘れたくて、当てもなく彷徨さまよった。波音を背に負傷した足を引きずり、目的地のない歩みを進めていく。


(畜生……刺された脚が痛い)


 登った丘の上でぐるりと眺めた。

 海の反対側、原野を切り開いた道があることに気づいた。近くまで下りていくと、どこかで見た光景のようにも思える。

 遠征で立ち寄ったイタリア半島の教皇領で目にした、石畳の街道に似ていた。


(なんだよこれ、アッピア街道か?)


 しかし、首をかしげて思い直す。


(いや、あり得んだろ。プロヴァンスに帰ってきた俺が、なんでイタリア半島にいるんだよ?)


 見知らぬ景色に動揺する心。深く深呼吸して気持ちを落ち着けようとした。


(とにかく街を探そう。これを辿っていけば、いずれ人に会える)


 ここがどこかはわからない。だが、人里に着けば何かわかる。

 そんな希望を心に燃やして、見知らぬ道程を一歩ずつ進んだ。

 やがて空を高く覆う雲の彼方で日が暮れてゆき、辺りを夜の帳が包み込む。

 黒々とした雷雲が稲光とともに篠突く雨を以って放浪者を打ち据えた。

 風雨を遮る屋根もない中、尿意を覚えて風下に向かって道端で用を足す。ぶるっと身が震え、顎が鳴った。


(おい待て! イタリア半島どころか、地中海じゃない寒さだぞ!)


 桶をひっくり返したような激しい雨は三〇分ほどで止んだ。

 ずぶ濡れになった前髪を腕で拭う。

 いつしか雲間から無数の星空が顔を出す。半月の光が差し込んだ。晴れ渡った天を仰いで絶句する。星が全部でたらめに並んでいた。


(おいおい、どうなってんだよ)


 星がわかればだいたいの緯度と方角が理解できる。

 雲が晴れたとき、そんな期待が湧いては打ち砕かれた。彼が知っている星座が一つも見当たらなかったのだ。


(地中海の端っこでも星座はたいして変わらなかったのに。どこなんだよここは)


 喉がカラカラになっている。

 腹も減るが、喉の渇きに比べれば大したものではない。

 潮の匂いがする砂浜の近くで喉を潤すのはまず難しい。安心して飲める水を得られる場所を探す必要があった。


(クソッ……どうして俺がこんな目に……)


 異教徒との戦いのなかで親父おやじが死んだ。死の直前に親父はこう言い残した。


『俺が死んだら――プロヴァンスに軍隊を退却させ、再起の時を待て』

『後事をお前に託す。その旨を遺言書に記した。王宮の執務室の机に隠してあるから真っ先に探せ』


 だから彼は退いた。

 親父に殉じて死ぬと言った老兵たちを説得して。

 おどろおどろしい音を鳴らして追いすがるスルターンの親衛隊は手強かった。ここが死に場所とわらった老兵に、捨てる命なら俺にくれと言わねばならなかったほどだ。

 進んで死地に残った老兵を囮に、彼はスルターンの精鋭を引きつけて焼き払った。彼らの犠牲があって彼は生き残った。ここで死ねば、その犠牲が無駄になる。


(このまま死ぬもんか。蜘蛛クモの野郎、この借りは何倍にして返してやる)


 彼の地の土になった同胞たちの弔いも済んでいないうちに、親父が遺した遺言書をまだ手にしていないうちに、こともあろうにフランス王から刺客を送られた。

 あまつさえ、結婚を約束していた許嫁もフランス王に拉致されてしまった。

 このままじゃ、死んでも死にきれない――そんな思いが堰を切る。

 月に向かって彼は吠えた。

 雲が晴れた分、夜はぐっと冷えていく。思うように歩けない身体が、一層動かなくなっていく。石畳の街道がずっと続くだけで、歩いても歩いても人に逢う気配がまるでしない。


(腹減った……喉渇いた……)


 喉が苦しい。

 喉が渇くほどに水を求めているのに、涙が出てきそうになる。

 群れからはぐれて餓えた狼のように、野垂れ死にが待っているのだろうか。

 こんなところで死んでしまうのか。

 誰にも看取られることなく孤独に。


(いやだ、死にたくない……こんなところで……)


 戦って死ぬ覚悟はできていた。

 アーサー王、シャルルマーニュ、ローラン――偉大な英雄の物語を読んで、いつか自分もそうありたいと願っていた。

 偉大な父の傍らで盾持ちとして戦うことを許されて、十一の歳で初陣を飾った。

 自分を殺しにきた敵を殺して五体で震えた日々。激しい戦いを経るごとに身体に刻む傷の数が増えていった。いつに間にか、命を賭ける鉄火場てっかばに立つ恐怖に身体と精神が慣れていた。

 そうやって異教徒との戦いに十年――人生の半分を費やしてきた。信仰のために生きる騎士のあり方と疑わなかった。


(絶対いやだ――こんな無様な死に方は)


 腰に差した一フィート半四五センチほどの短剣を鞘から引き抜く。

 ガーネットの宝石が柄に埋め込まれた短剣――それは近衛騎士団『王の盾持ち』の団長になった若者にアルテュール征服王が贈ったものだ。

 在りし日の父から譲られた形見の品でもある。


親父おやじ……アンタのような立派なおとこになりたくて、俺は生きてきたんだ)


 十六で盾持ちから騎士になり、二十で『王の盾持ち』の団長に指名された。

 それから一年後、偉大な父は天に還った。それがほんの数か月前のことだ。父から預かった近衛騎士団の同志とともに彼は生きて国に帰った。

 こんな場所で息絶えるためでなく、聖戦に備え力を蓄えるためだ。


(死んでたまるか!)


 自らを鼓舞した若者は形見の短剣を鞘にしまい、また歩き始めた。


(歩けど歩けど、ゆく当てが見えない……一緒に旅する仲間もいない)


 濡れた身体に吹き付ける海からの強い風。

 寒さに冷え切った若者を先の見えない暗闇となき孤独が苛んでいく。


(独りがこんなにつらいなんて……つらい、つらいよ……カトリーヌ)


 離れ離れになった彼女が恋しい。

 許嫁だった幼馴染は息災だろうか。見知らぬ誰かと結婚させられて、寂しい思いをしやしないか。自分のように寒い場所に放り出されて震えちゃいないだろうか。

 クラクラする頭で彼女を思いながら、夜通しあてどなく歩き続けた。

 山の向こうがわずかに白み始めたころ。


(あれは……ッ!?)


 黒い海のはるか彼方に光が見え、目を凝らした。


漁火いさりびだ!)


 ようやく人の営みが見えてきた。きっとこの先には漁村がある。

 思うままにならない足を引きずって一所懸命に歩こうとしたが、身体が言うことをきかない。


(もう少しだ、動けッ、動けよッ!!)


 全身が震えてふらついた。

 気持ちだけが空回りする。

 足がもつれてつまずいた。

 やっと希望が見えたのに――身体が思いのほか冷え切っている。

 呼吸が早く、苦しい。身体を起こすのも億劫なくらい気だるい。瞼が重たくなってきた。身体中の力が抜けていく。


(……お前に逢いたかったな。もういちど……カトリーヌ……)


 斃れようとする彼をあざ笑い、容赦なく降る雨。

 冷たい石畳の上で、若者は次にいつ目覚めるかわからない眠りへと落ちてゆく。

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