第二話 遅すぎた日々が巡って( 三 )



「いい。やっぱり 言わ ないで」


 もし、今まで仔どもが何より切望せつぼうしてきた言葉を与えられてしまったら、どうすることもできない。おめおめと身体を差し出し、傷つけてもらいにいくような行為だ。それは。


 身体を一層ちいさくして、きつく目をつぶる。耳をふさいだ。


 ここは今までいたどの場所より、  痛い。


「出て く。どっか、いく。やだ、嫌だ。こわい」


 身体が震える。裏切られたときの恐怖をまざまざと脳裏に思い出す。その震えを押さえようと今度は肩に手をまわす、そのときを見計らったように、刹貴の声が届く。


『今のお前の状態で、どこにいける。れ死ぬ気か』


 温度を一変させた険しい声に身体を冷えさせながら、仔どもは何度も頷いた。

 死にたがりにとっては、そちらのほうがどれだけ嬉しいことだろう。


「そう、する。そっちのほうが、怖く、ない。だから、だから 」


 息をつく合間、からん、かラりんと風鈴が鳴っている。仔どもはふと思い出し、枕辺まくらべを見やった。そこに仔どもの求めるものの形はない。「 風鈴は、」


 仔どもはぽつんと疑問を零した。「母さまの風鈴、どこ」


 持っていたはずの母の形見は、せっている間になくなっていた。刹貴が持っているに違いない。それだけはどうしたっておいていけない。


 見やると刹貴は小さく首を傾げた。わざとらしい仕草に、ほとんど仔どもは確信する。


「か、返してよ。風鈴、返して、」 それを聞いて、刹貴は嘲笑ちょうしょうじみた笑みを口元に乗せた。ぞわり、背中が総毛立つ。仔どもは慌てて視線をそらした。


 仔どもをいたぶっていた笑みと、それはよく似ていた。


『ああ、分かるものなら自分で取って持っていけ。人間』


 刹貴は人差し指を立て、天井を指し示す。仔どもは耳を疑い、そろりと顔を上げる。刹貴の長く節だった、きれいな指が促す先を見る。


 そこで初めて自分がいるのがどんな場所なのかを理解して、仔どもは目を見開いた。これでは、見つけようがない。絶望に似た感覚が仔どもをひたす。


 風鈴が、部屋中に吊るされていた。仔どもが自失して見上げているあいだ、一斉に、誘うような音を奏でる。きれいだが、どこか薄ら寒いひびき。青銅はときおり炉の灯りを反射してちかチかと輝く。まるで夢のような風景だが、そうでないことは痛みがすべて知っている。


 それは仔どもの持ちものと似ているようだったが、こうも暗い上に低いところからでは、到底どれが自分のものであるかなんて分かろうはずもなかった。


「どれ、どれなの。かえして、かえ  してよっ」


 取り乱して仔どもは叫んだ。そうする以外、すべはなかった。


 放心する仔どもに向かい、刹貴はただ淡々と言い放った。


『諦めておとなしくしておくことだな。怪我が治ればいずれ返してやる』

「そん、な」


 どれだけ、掛かる。この傷をいやすのに。その長いあいだ、ここにいろというのか。それは仔どもにとって責め苦にも等しい。


「いやだ、む りだ。そんなの。どうする つもり」


 呼吸がうまくできない。声がのどにからまる。


 もしか  して。


「売る、  の」

『売る』


 語尾を跳ね上げて、刹貴は訊ね返した。波のなかった声に、困惑したような疑問が乗る。


『お前を売ってなんとする』


「だって、だってっ。珍しい、から売れる、てっ」


 

 むかし。



 否応いやおうなくよみがえってくる過去に、血の気が引いていくのを自覚した。今よりもっと幼かった仔どもにとって、それはあまりに陰惨いんさんすぎる記憶だった。


 むかし、夜陰やいんに乗じて仔どもを訪ねてくるものがあった。そいつは仔どもの姿に怯えない、仔どもを傷つけない、唯一と言ってもよかった。そいつといつの間にか仔どもは仲良くなって、仔どもにいたく同情してくれたそいつはあるよる、逃げようと、そう言って仔どもの手を引いたのだ。



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