世界最大のボディプレス

「ば、化け物だ……!」


「逃げろー!」


 金切り声を金切り声が追い、絶叫に絶叫が続き、行列全体が大きく波打つ。

 直後、人々は我先に駆け出し、動物園の出口になだれ込んだ。


「きゃあ!」


「い、いたい! 押さないで!」


 あちこちから悲鳴が上がり、押しのけられた女性や子供が倒れ込む。

 肝心の出口はすし詰め状態で、人々は全く動くことが出来ない。


「皆さん、落ち着いて下さい! 一人ずつゆっくり外に出て!」


3Zサンズ〉の隊員は必死に呼び掛けているが、耳を貸す人はどこにもいない。

 むしろ声を大きくするほど、子供の泣き声が激しくなっていく。


「クソッ、全員構え!」


 中野なかのは周囲の隊員に命令し、自身も腰のホルスターに手を伸ばす。

 そして拳銃を引き抜くと、銃口をハエに向けた。


「近寄り過ぎるなよ! 絶対に尾の間合いには入るな!」


「は、はいっ!」


 隊員たちは横七人、縦五人の列を作り、ハエの前に進み出る。

 すぐに透明な盾を構えた隊員が前進し、列の前に壁を作った。


「撃て!」


 雄々しく命じ、中野は引き金を引く。

 隊員たちも発砲し、大量の薬莢やっきょうが宙を舞う。


 どんなに大きいと言っても、ハエはハエだ。

 銃弾を当てることさえ出来れば、傷を負わせられるはずだ。


 そう、当てることが出来たなら。


 だがハエは速やかにあしを縮め、したたか地面を蹴る。

 瞬間、巨体は綺麗さっぱり姿を消し、代わりに浅い曲線が空中を走る。


 太さや大きさこそ段違いだが、暗い錆色さびいろには見覚えがある。

 ファミレス生まれのハエがジャンプする度に、頭上を駆け抜けた色だ。


 以前の個体より大分大きいが、ジャンプ力は変わらないらしい。

 いやむしろ、小さな個体より速い。


 巨大になった分、地面を蹴る力も強くなったのだろうか。


「消え……いや、跳んだのか!?」


 中野は銃を撃つのも忘れ、ひたすらまばたきをくり返す。

 そうこうしている内に何かが落ちる音が轟き、土煙が上がる。


 場所は――〈3Zサンズ〉隊員の背後だ。


「後ろ!?」


 隊員たちは息を呑み、一斉に振り返る。

 見開いた目に映ったのは、大地を薙ぎ払う尾だった。


 高い土煙が猛進し、一人また一人と隊員を呑み込んでいく。

 野太い悲鳴が連続し、辺りに隊員たちが飛び散る。


 普通以上に筋肉を蓄えた男性が、完全にボーリングのピン扱いだ。


 幸い直撃を受けたのは地面で、隊員たちにトゲは刺さっていない。

 誰一人卵は産み付けられなかっただろうが、よかったと言えるのはそれだけだ。


 隊員たちは一人残らずあお向けになり、苦悶の声を漏らしている。

 完全に失神し、白目をいているものも少なくない。


 ベベ……ブブブ……。


 邪魔者を排除したハエは、楽しげにはねを震わせる。

 しかし突然動きを止めると、T字型の頭を右に向けた。


 世界一巨大な複眼は、三〇㍍ほど離れたトイレを映している。

 ハエらしく、糞尿の臭いにかれたのだろうか?


 頭の中の疑問に答えたのは、あどけない泣き声だった。


「おかーさーん!? おかーさーん!?」


 トイレの脇に、三歳くらいの女の子が立ち尽くしている。


 たぶん、避難している最中に、母親とはぐれてしまったのだろう。

 ふっくらした頬は、涙と鼻水でびしょ濡れになっている。


「おかーさーん!? どこー!? どこにいるのー!?」


 女の子は力一杯叫び、自分の居場所を母親に教える。

 だが呼び掛けにこたえたのは、不気味な羽音だった。


 ベベ……ブブブ……!


 ハエはゆっくりと尾を振りながら、女の子に迫る。

 少しずつトゲが鎌首かまくびをもたげ、女の子の胸に狙いを合わせていく。


「に、逃げろ……!」


 うめくように絞り出し、中野は目の前の拳銃に手を伸ばす。


 しかしダメージのせいで震える指は、なかなか引き金に掛からない。


 むしろいたずらに拳銃を突っつき、遠くに転がしていく。


 中野が手間取っている間も、ハエは女の子に近付いていく。

 尾の間合いに入るまで、もう時間はない。


 がむしゃらにぶっ飛ばしてきた甲斐あって、動物園はすぐそこまで迫っている。

 今までは〈3Zサンズ〉のカメラと接続し、眺めていた園内も、自分の目で確かめることが可能だ。


 それでも、悠長に降下していたら、手遅れになってしまう。


「突っ込むよ!」


〈サティ〉は子グモに命令し、ドローンのプロペラを停止させる。

 普段のように少しだけ浮いた状態なら、落下距離は拳一つ分程度だっただろう。


 しかし今、〈サティ〉がいるのは、車がミニカーに見える高さだ。


 しかも停めたのは、頭上に浮くドローンではない。


 ドローンはドローンでも、足下にあるドローンだ。


 材料は大量の子グモだが、形や色は頭上のものと変わらない。

 ただし大きさはワゴン車以上で、ディゲルと〈サティ〉の二人が乗っても余裕がある。


 地上から見上げたら、巨大なクモが飛んでいるように錯覚することだろう。


詐術さじゅつ〉によって実体化した物体にも、重力は働く。


 ドローンを形作る子グモたちも、例外ではない。


 四枚のプロペラが停まった瞬間、XLサイズのクモは急降下を始める。

 途端に強烈な向かい風が吹き荒れ、〈サティ〉の装甲をきしませた。


 おたけびのような風音は、女の子の泣き声も、人々の怒号も掻き消している。

 片手でも大グモから放したら、空の彼方かなたに吹っ飛ばされてしまうだろう。


「バ、バカ! 私は〈PDF〉を着てないんだぞ! 止めろ! 止めろぉ!」


 ディゲルは腹這いになり、大グモの背中にしがみついている。

 しきりに叫び、何か抗議しているようだが、風音のせいで全く聞こえない。


「行っけー!」


〈サティ〉は勇ましく咆哮し、眼下のハエを睨み付ける。

 〇.一秒後、大グモが大地に特攻し、浅いクレーターを刻み込む。


 莫大な量の粉塵が噴き上がり、キノコ雲のように空を突く。

 更には粉々になったアスファルトが乱れ飛び、無差別に周囲を打ち据えた。

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