超一流のメンタルセラピー

「なかなか華麗に飛んだね」


〈サティ〉はマックスまで圧縮空気を噴射し、一気にスピードを上げる。

 すぐさま白煙がディゲルの軌跡を塗り潰し、〈サティ〉を一階に押し上げる。


「ドアを塞がないと!」


〈サティ〉は足を止め、階段前のドアを閉じる。

 続いて両手を前に突き出し、くり返し円を描く。


 手首の腕輪から子グモが溢れ出し、ドアを這い上がっていく。

 大群は壁を作るように重なり合い、完全にドアを塞いだ。


 五秒とたない内に衝撃音が轟き、作ったばかりの壁が震える。


 どうやら階段に閉じ込められたハエが、ドアにトゲを叩き込んだらしい。

 子グモの壁で補強していなければ、貫かれていたかも知れない。


 一発目を防いだからと言って、油断は禁物だ。


 執拗なハエたちは、何度も何度もドアにトゲを叩き付けている。

 また大多数のハエは閉じ込めることが出来たが、何匹かは視界を跳ね回っている。


 最速でドアを閉めたつもりだったが、脱出を許してしまったらしい。


「早く逃げよう!」


〈サティ〉は急いでドアから離れ、あお向けのディゲルに駆け寄る。


「気軽に飛ばすな! 私は黒ヒゲじゃないんだぞ!」


 ディゲルは耳まで真っ赤にし、〈サティ〉に抗議する。


 やけに顔を突き出しているのは、つるつるの顎を見せ付けるためだろうか。

 チョコを食べ過ぎるとニキビが出来ると言うのは、迷信だったらしい。


「いいから、早く立ち上がって!」


 力任せにディゲルを引っ張り上げ、玄関の方向に押し出す。


「あいててて! 少しは手加減しろ! 腕がすっぽ抜けちまうだろ!」


 ディゲルは右腕を押さえながら、よろよろと走り出す。

 やけに蛇行しているが、落ちた時に頭でも打ったのだろうか。


「お前は私の扱いが雑すぎるぞ! さては私のことが嫌いだな!?」


「やっと気付いたの!?」


「ついに本音を吐きやがったな、このクソガキめ! 言っとくが、私だってお前のことなんか大っ嫌いだからな!」


「って言うか、くーねえのこと好きな人なんかいないからね!?」


 ことあるごとに拳銃を突き付け、部下を恫喝どうかつする?


 あまつさえ懲罰ちょうばつと称し、部下の生爪をアレやコレする?


3Zサンズ〉の離職率りしょくりつが九〇㌫を超えるのも、無理はない。

 ディゲルの素行をツイートした日には、油田ばりに炎上するだろう。


「何気に傷付くこと言いやがって!」


 グスっと鼻をすすり、ディゲルは大きく肩を震わせる。

 目元を拭った気がするのは、〈サティ〉の見間違いだろうか?


 そう言えば、誰かに聞いたことがある。


 他人に攻撃的な人ほど、自分自身は打たれ弱い。


「好かれたいと思ってたんだ……」


 想定外の事実に驚愕し、〈サティ〉は目を見開く。

 直後、鋭い音が耳元を横切り、仮面の頬から火花が散った。


 閉じ込めきれなかったハエが、早速攻撃を仕掛けてきたらしい。


「ご、ごめん。言い過ぎたね。た、たぶん、くーねえのことを好きな人もいると思うよ。うん、好きだよ。カカオの輸入で生計を立ててる人とか、明治めいじの人とかは」


「何もかも金銭絡みじゃねぇか!」


 可能な限り優しく言い、〈サティ〉は腫れ物……ゴホン、ディゲルの肩に手を置く。


 しかしディゲルは〈サティ〉の腕を振り払い、玄関の前で立ち止まる。

 それどころか、金切り声を発し、その場に座り込む。


「どうせ私なんて、どうなってもいいんだろ!?」


 どうやら心ない発言を浴びせられたことで、自暴自棄に陥ってしまったらしい。


 ここが昼下がりの診察室なら、セラピーに付き合うのもやぶさかではない。


 だが、ここは殺人バエの飛び交う修羅場だ。


 メンタルのおかしい女を相手にしている暇はない。


「心の悩みなら、専門医にして!」


〈サティ〉は苛立ちを、それ以上に積年の恨みを込め、ディゲルを蹴り飛ばす。

 その瞬間、ディゲルはライナー性の打球と化し、開いたままの自動ドアに突っ込む。


 外に飛び出たボールは、顔から地面に落ち、何回か弾む。

 その度にグキッ! と鈍い音を鳴らし、最後は建物を囲む花壇に滑り込んだ。


 一般人なら確実にあの世行きだが、ディゲルは秘密組織の長官サマだ。

 日々筋トレに励む彼女なら、脳挫傷のうざしょうか全身複雑骨折くらいで済んでいるだろう。


「あー、スッキリした」


 晴れやかな気持ちに従い、〈サティ〉は心の底から笑う。

 しかしすぐに歯をしまい、ドローンの針路を自動ドアに向けた。


 ほぼ一時間ぶりに外へ出ると、視界が茜色に染まる。

 木々の向こうに見える太陽は、下半分を海に浸けていた。


 かすかに聞こえる波の音も、大分柔らかくなっている。

 島を訪れた目的がバカンスなら、思わずうたた寝してしまったかも知れない。


 だが島にやって来たのは調査のためで、今は逃走劇の真っ最中だ。


 ウトウトしようものなら、一瞬で全身に穴がく。


「くーねえ、いつまで寝てるの!」


〈サティ〉はまっすぐ花壇に駆け寄り、うつぶせのディゲルを引き起こす。

 ついでに目覚ましのビンタをお見舞いし、白目をいたディゲルを叩き起こした。


「い、一体何が……!?」


 ディゲルはまばたきをくり返し、きょろきょろと辺りを見回す。

 頭に強い衝撃を受けたせいで、ここ数分間の記憶が飛んだのかも知れない。


「いいから行くよ!」


〈サティ〉はディゲルを引きずり、森に続く門へ走る。


「ま、待ってくれ! 頭がズキズキする! お前、バファリンと優しさを持ってないか?」


 ディゲルは二日酔いになったように顔を歪め、何度も哀願あいがんする。

 靴底と地面が接触する衝撃が、頭に響いて仕方ないらしい。


「どっちもない!」


 もちろん、ハエたちは研究所から飛び出し、〈サティ〉を追う――。


 滅茶苦茶に乱射される尾は、視界に無数の直線を刻み込む――。


 今までのストーカーぶりを考えるなら、〈サティ〉の予想は限りなく正確だったはずだ。


 しかし直後にくり広げられたのは、常識的な予想とは真逆の光景だった。

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