どーでもいい知識 昆虫には肺がない

「見えにくい……!」


〈サティ〉は右手で顔を覆い、左手で目の前を払う。

 しかし指の残像が視界を埋め尽くしても、煙を晴らすことが出来ない。


 焦っている内に子グモの動きが鈍くなり、簡単に薙ぎ払われていく。

 個体数が減るに従い、床の影が薄くなると、何分かぶりに木目が見えた。


 子グモの大群は、〈サティ〉が「目で見て」動かしている。

 当然、〈サティ〉の視界が悪くなれば、子グモの動きも鈍くなっていく。


「目で見ている」と言っても、仮面に覗き穴があるわけではない。


 フルフェイスの髑髏どくろには、装着者の目と重なる位置にカメラが内蔵されている。

〈サティ〉が眺めているのは、コンタクト型モニターに表示された映像だ。


 見え方はごくごく自然で、肉眼と全く変わらない。

 戦闘に集中していると、モニターを見ていることを忘れそうになる。


 反面、何もかも人間の目と同じなので、煙や暗闇とは相性が悪い。


 一応、サーモグラフィーや高感度こうかんどカメラは内蔵されているが、普段はオフになっている。

 人間の目が持たない機能に関しては、必要に応じて起動しなければならない。


 一見、不便なように思えるが、脳の処理出来る情報量には限界がある。

 あれもこれもと欲張ったところで、混乱を招くだけだ。


 普段と違う景色は、目や頭に掛かる負担も大きい。

 実際、3D映画を観た後に、吐き気や頭痛を訴える人は少なくない。


 基本的に〈サティ〉は、性能より快適さを優先して作られている。


 装甲らしい装甲が限られているのも、防御力より動きやすさを優先した結果だ。

 その分、低下した防御力は、黒いボディスーツやサリーで補っている。


 かなり子グモが減ったことで、余裕が生まれたのだろうか。


 ハエは八本脚はっぽんあしばかり追っていた顔を、〈サティ〉に向ける。

 最悪なことに、酸の水流を吐き続けながら。


「うわわっ!」


 あっち、こっち、そっちとドローンが動き回り、酸のアーチをかい潜る。

 糸で吊られた〈サティ〉は、振り子のような状態だ。


 右へ揺れ、左へ揺れ、次は上、後ろと身体が跳ね回る。

 目まぐるしく視界の中身がうつわり、胃の中身が大きく弾む。


〈サティ〉が乗り物酔いに強くなかったら、今頃、仮面の中はゲロまみれだ。


 糸に翻弄される姿は、ドローンに操られているようにしか見えないだろう。


 しかし実際のところ、操作しているのは〈サティ〉のほうだ。

「操り人形」が指示を出さない限り、ドローンは簡単な動作しか出来ない。


「やられっぱなしじゃないよ!」


〈サティ〉は天井近くまで上昇し、ブランコに乗る時のように両膝を畳む。

 ノーブレーキで急降下し、思い切り両足を伸ばす。

 瞬間、靴底がハエにめり込み、顔面に足跡を刻み込んだ。


 ハエは酸の代わりに体液を噴き出し、後方に吹っ飛ぶ。

 更にそのまま何回かバウンドすると、大の字になって天をあおいだ。


「動きを封じて!」


 全力で叫ぶと、大量の子グモがハエを取り囲む。

 続いて大群は小さく跳躍し、180度向きを変える。

 そうしてハエに背中を向けると、こぞって尻を突き上げた。


 天敵が最大の武器を使おうとしていることを、察知したのだろうか。


 ハエは慌てて起き上がり、しっちゃかめっちゃかに尾を振りまくる。

 そして尻と言う尻を吹っ飛ばすと、バスケット用のゴールに向けて跳び上がった。


 当人(?)はうまく逃げたつもりだろうが、ハエには見落としていることがある。


 尻を突き出しているのは、床の子グモだけではない。


 天井を覆う大群も、全く同じポーズを取っている。


 =巣と言ったイメージの通り、全てのクモは糸を出すことが出来る。

 ハエトリグモのように巣を張らないクモも、糸を出すこと自体は可能だ。


 もちろん、〈サティ〉の操るクモも例外ではない。

 巣になるのは子グモ自身の身体だが、クモのアイデンティティは失っていない。


 一本、一〇本、いや、一〇〇本以上。


 天井から無数の糸が飛び出し、空中のハエに絡み付く。

 直後、ハエは逆バンジーのように吊り上げられ、猛スピードで天井に突っ込んだ。


 強い揺れが視界をシャッフルし、巻き込まれた子グモが弾け飛ぶ。

 屋根がはりが大きく震えると、照明から大量の埃が降った。


 ハエはダラリと手足を伸ばし、頭部を天井に突き刺している。

 ようやく、モンスターボールを投げるチャンスが訪れたようだ。


「縛り上げて!」


 両手を振り上げ、人差し指をハエに向ける。

 瞬間、天井が壁が床が糸を発射し、視界を白く塗る。

 一本残らずハエに絡み付き、アドバルーン大の繭に変えていく。


 このに及んでも、抵抗を続けているのだろうか。


 繭は小刻みに痙攣けいれんし、弱々しく天井を揺らしている。

 しかし徐々に揺れる間隔は広くなり、一分足らずで動きを止めた。

 胴体をきつく縛られたことで、酸欠に陥ったのかも知れない。

 

 人間と同じように、昆虫も呼吸を行っている。


 ただし、肝心の方法は、人間とかなり違う。


 全人類が知っているだろうが、人間は口や鼻で息を吸う。


 体内に入った酸素は、肺の肺胞はいほうから血液中に取り込まれる。

 その後、血中に含まれる赤血球によって、全身に運搬されていく。


 肺胞はいほうは半球状の器官で、人間には約三億個ほど備わっている。

 びっしり集まっているのが特徴で、「ブドウの実」と形容されることも多い。


 各部に運ばれた酸素は、細胞がエネルギーを作るために使われる。

 その過程で発生するのが、息を吐く時に排出される二酸化炭素だ。


 二酸化炭素はやはり、血中の赤血球によって運搬される。

 そして最後は肺胞はいほうから肺に排出され、口から外に出て行く。


 昆虫にも口はあるが、呼吸には使われていない。


 事実、バッタの頭を水に浸けても、死ぬことはない。

 その代わり、腹や胸を水に浸けると、溺れ死んでしまう。


 これは彼等が、腹や胸にある「気門きもん」で呼吸しているためだ。


 気門きもんは身体の側面にある穴で、普通は胸に二つい、腹に八つい備わっている。

 昆虫は胸に四個、腹に一六個穴がいていると言えば、多少分かりやすいだろうか。

 肉眼でも確認することが可能だが、小さな虫だと苦労するかも知れない。


「普通」と前置きしたのは、昆虫の種類によって微妙に違いがあるためだ。

 中にはハエのように、ウジの時代は二ついしか気門きもんを持たない昆虫も存在する。


 気門きもんは筋肉を使い、開け閉めすることが可能だ。

 更には酸素を吸うと共に、二酸化炭素を吐き出す役目も兼任している。


 この辺りは人間の口にそっくりだが、昆虫には肺がない。


 また昆虫にも血は流れているが、酸素の運搬には使われていない。

 体内に入った酸素は、気管きかんによって全身に運ばれる。


 二酸化炭素を気門きもんまで運ぶのも、気管きかんの役目だ。

 昆虫には細かい気管きかんが無数にあり、隅々まで酸素を送ることが出来る。

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