どーでもいい知識 クモは脚で交尾する

 警戒をうながすような色合いは、本能的に目を引く。

 でなくとも、突然、ホラーチックな骸骨が出現したのだ。

 盲目でもない限り、釘付けになるのが当然だろう。


 にもかかわらず、ハエの視線は骸骨より少し上に向いている。


 奇っ怪な骸骨より目を引く物体が、体育館に存在するのだろうか?


 ある。


 骸骨の頭上に浮かぶドローンだ。


 大きさは、ちょうどマンホールくらいだろうか。

 姿形は巨大なクモそのもので、漆黒の身体は不気味につやめいている。

 目の位置や毒牙の構造も完璧だが、一つだけ大きな違いがある。


 改めて言うまでもないが、クモの糸は尻から出る。


 しかしドローンの場合は、八本のあしから垂れ下がり、手足を吊っている。


 そう、骸骨の手足を。


 涼璃すずりはわずかに浮いた状態で、両足と床の間には数㌢のスペースがある。

 両腕を水平に広げ、だらっと足を伸ばした体勢は、操り人形そのものだ。


 クモ型のドローンは、さしずめ人形使いの両手と言ったところか。


 八本のあしは、両手の小指、薬指、中指、人差し指。

 残る親指の役目も、二本の触肢しょくしが見事に果たしている。


 触肢しょくしはクモやサソリなどが持つ器官で、大顎を挟むように一本ずつ付いている。

 他の八本より大分短いが、外見上は九本目、一〇本目のあしに見えるかも知れない。


 実際、「あし」と付いていることからも分かる通り、触肢しょくしあしから進化した器官だ。


 ただし、他のあしは七つのふしを持つが、触肢しょくしには六つしかふしがない。

 しかも歩くために使うことはほとんどなく、もっぱらエサを解体するのに使われる。


 クモの触肢しょくしには歯があり、獲物を切断することが可能だ。

 また獲物を切り裂く際には、大顎こと鋏角きょうかくも使われる。


 更に触肢しょくしは、臭いや振動を感じ取る能力も持つ。

 これは八本のあしも同様で、昆虫の触角に似た働きを果たしている。


 ある意味でそれ以上に重要なのが、生殖器としての役割だ。


 交尾の際、オスは精子を溜めた触肢しょくしを、メスの腹にある生殖器に差し込む。


 そのため、メスのクモに比べて、オスの触肢しょくしは複雑な構造をしている。

 またオスだけ先端に膨らみがあり、性別を見分ける材料になる。


 ちなみにサソリの触肢しょくしはクモより巨大で、先端がハサミ状になっている。

 早い話、一般的に「ハサミ」と呼ばれている部分が触肢しょくしだ。


「さあ、影が来るよ」


 涼璃の――いや、〈サティ〉の言葉に反応し、ドローンのあしが蠢く。

 途端に糸が〈サティ〉の両手を吊り上げ、正面に向けた。

 両腕をまっすぐ伸ばした姿は、キョンシーに瓜二つだ。


「はぁぁぁ……!」


 仰々ぎょうぎょうしく息を吐きながら、両手を開いていく。

 すると手首の腕輪が輝き出し、洗面器ほどのサイズまで広がった。


 輪っか型の光は、いくつかの円と放射状のラインで出来ている。

 少し眩しいが、見た目はクモの巣そのものだ。


 光のラインは、〈サティ〉の全身にも配置されている。


 名前は〈フリッケライン〉で、正体はエネルギーを循環させるための流動路だ。

 ちなみに動力炉は延髄の走馬燈そうまとうで、〈スーツリアクター〉と呼ばれている。


 強く照らされた天井や床は、はりを木目をワインレッドに染める。

 必然的に影は濃くなり、日時計のように背を伸ばしていく。


 いや、変わったのは、濃さや長さだけではない。


 影の輪郭が、今まで微動だにしなかった輪郭が、小刻みに震えている。

 表面は不規則に波打ち、ぞわぞわとざわめいていた。


 アリの大群が一斉に足踏みしたら、似た音が鳴るだろうか。


 もっとも、実際にあしを動かしているのは、「アリ」ではないが。


 影は満潮を迎えたように広がり、壁や天井を塗り潰していく。


 一分もたない内に体育館中が埋め尽くされ、黒い色がハエを取り囲む。

 もうフルカラーの空間は、ハエの足下にしか残っていない。


 ベベ……ブルルル……。


 残念ながら、〈サティ〉にハエの言葉は分からない。

 それ以前に、ハエが発しているのは「鳴き声」ではなく、「はねこすれる音」だ。


 ただ今だけは、ハエの言いたいことが理解出来る。


 このままではヤバい! だ。


 ハエは垂直になるまで尾を振り上げ、正面の〈サティ〉に叩き付ける。

 瞬間、ドローンが急上昇し、〈サティ〉を後ろに運び去る。


 まずドローンの残像が、次に〈サティ〉の残像が両断され、床にトゲが突き刺さる。

 すぐさま黒い破片が吹きすさび、無地の空気に大量の点を打った。

 真実を知らない人には、影が砕けたようにしか見えないはずだ。


「バランス感覚に自信ある?」


〈サティ〉は天井近くまで上昇し、ハエを見下ろす。

 その後、小さくいきむと、ドアノブを回すように手首をひねった。


 にわかに影が震えだし、地響きが柱を揺さ振る。

 一瞬遅れて壁がきしむと、床や天井が大きく右に傾いた。


 斜めになった床は、建物が倒れ掛かっているかのように錯覚させる。

 だが傾いているのは、壁や床を覆う影に過ぎない。

 体育館を外から見ても、何一つ変化はないだろう。


 もっとも、中にいるものにとっては、どっちだろうと同じことだ。


 事実、ハエは水平にはねを広げ、右に左に傾いている。

 ヤジロベエのようにバランスを取り、転ぶまいとしているらしい。


「なかなか頑張るね……!」


〈サティ〉は手首を回すのを中断し、壁や床の動きを止める。

 呼応して、ドローンが糸を操り、〈サティ〉の左手を突き出した。


 突然、床が高波のように盛り上がり、ハエに突っ込む。

 ドン! と衝突音が鳴ると、バレーボール大の残像が宙を舞った。

 大きさと言い、勢いと言い、完全にスパイクだが、正体は言うまでもない。


 ハエは何度か床をかすめ、頭から壁に突っ込む。

 その瞬間、壁から影の欠片かけらが噴き出し、黒煙のように辺りを覆った。


 普通の虫なら、完全に木っ端微塵だっただろう。


 しかし幸いなことに、ハエは原形を保っている。


 見た目こそ風船のようだが、意外と頑丈らしい。

 多少ハードに攻めても、殺す心配はなさそうだ。


 凶暴なハエを無傷で捕獲するのは、難しいかも知れない。

 ただ新種の可能性がある以上、出来るだけ傷付けないようにするべきだ。


 とは言っても、相手は床を貫くほど力の強い生き物だ。

 単純に影で動きを封じても、力任せに脱出されてしまうだろう。


 捕獲するには、ある程度弱らせる必要がある。

 いきなりモンスターボールを投げても、ポケモンは捕まらないのだ。

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