ロリは図鑑に載りたい

 猛然と轟く足音に、驚いたのだろうか。


 唐突に街路樹が震え、葉っぱの中からハエが飛び立つ。

 すかさずT字型の残像が空を射貫いぬき、視界の奥に突っ込む。


 控え目に見ても、三〇㍍以上は跳んだだろうか。

 本当に恐ろしいジャンプ力だが、やはり飛ぶことは出来ないようだ。


 その証拠に、ハエは忙しくはねを動かしているが、身体が浮く気配は全くない。

 はねが見掛け倒しでないなら、とっくの昔に飛んでいるはずだ。


 ただ、推測が当たっていたとしても、楽観視は出来ない。


 あれほどジャンプ力が高いなら、空を飛べるのと一緒だ。

 はねが役立たずでも、充分遠くに行くことが出来る。

 気を抜いたら、すぐに視界から消えてしまうだろう。


 幸いファミレスの周辺はさびれた地域で、現在も人影はない。

 少し先にはスポーツセンターがあるが、この時間ならまだ開いていないだろう。


 しかし涼璃すずりの記憶が確かなら、更に先には住宅街がある。


 今頃、人々は家の中で眠っているだろう。


 しかし、安全とは言えない。


 ハエが窓ガラスをを壊せるのは、ファミレスを出た時に証明済みだ。

 しかも、先程まで闇を溜めていた地平線は、オレンジ色を滲ませている。


 住人が目覚めるまで、あまり猶予はない。


 人々が出歩く時間帯になれば、危険度は一気に跳ね上がる。

 ファミレスでは出し抜かれてしまったが、これ以上、ハエを逃がすわけにはいかない。


 何より、相手は見たこともないハエだ。


 恐らく〈詐術さじゅつ〉で作られたのだろうが、新種と言う可能性も捨てきれない。

 昆虫の愛好家としては、絶対に捕まえなければいけない相手だ。


「悪いけど、飛び跳ねるのはクモも得意なんだよ!」


 涼璃は声を弾ませ、スキップするように跳び上がる。

 そうやってブロック塀の上に乗ると、すぐさま信号機にうつった。


 どうしてこう昆虫採集と言う行為は、血湧ちわ肉躍にくおどらせるのだろう?


 閉じていたはずの唇は、いつの間にか歯を覗かせている。

 自他共に認める仏頂面ぶっちょうづらが、すっかり満面の笑顔だ。


「名前はスズリバエがいいかな? あ、ランドウオオバエのがいいかも!」


 涼璃は信号機から跳躍し、沿道の雑居ビルに降りる。

 一気に屋上を走り抜け、落下防止用のフェンスを跳び越える。


 すぐに向かい風が吹き付け、唇を前髪を震わせる。

 頬は激しく波打ち、ぺちぺちと間抜けな音を立てていた。


「目が乾く……!」


 数秒間、自由落下を楽しむと、両足が道路に着く。

 同時に着地の衝撃が駆け抜け、全身の骨を震わせた。


 さすがに古傷が痛むが、立ち止まっている時間はない。

 何しろ、蘭東らんどう涼璃すずりの名前が図鑑に載るかどうかの瀬戸際なのだ。


 べべ……ブルルル……!


 必死な涼璃を尻目に、ハエは電柱から電線に飛び移る。

 更に一〇㍍ほどジャンプし、街路樹のてっぺんに降りた。


 大きさはメロンとゴマ粒ほども違うが、ちょこまかした動きはコバエそのものだ。

 見失わないようにするのがやっとで、ポケットの中の物体を使う暇さえない。


「動きを止めないと……!」


 涼璃は路肩に駆け寄り、放置自転車を担ぎ上げる。

 続いてスローインのようなフォームを取り、ハエに自転車を投げ付けた。


 ハチャメチャに車輪を回転させながら、赤い車体が空を駆ける。

 まるで「ET」のような光景だが、映画とはいくつか違いがある。


 まず背景は白くなり始めた空で、印象的だった月は全く見えていない。

 それ以上に違うのが、自転車のスピードだ。


 残像を引きながら疾走する様子は、もはや戦闘機。

 カゴにでも乗ろうものなら、失神するのは間違いない。


 けたたましいベルを聞き、異変に気付いたのだろうか。


 突然、空中のハエが振り返り、背後をうかがう。

 瞬間、前輪がハエの顔面にめり込み、浅いわだちを刻み込む。


 ベベブルルル!?


 ハエは大きくのけ反り、弱々しくはねを震わせる。

 同時にヒョロヒョロと下降し、道路の真ん中に落ちた。


「ご、ごめん! 少しやり過ぎちゃった!」


 涼璃は両手を合わせ、貴重な新種に謝る。

 その後、三段跳びのように駆け出し、舗装に大股の亀裂を刻み付けた。


 見る見るハエとの距離が詰まり、錆色さびいろの頭が視界を埋め立てていく。


 今まで淡泊だった空気は、刻一刻と生ゴミ的な臭いを強めている。

「夢の島」としか言えない強烈さには、誰もが顔を歪めるはずだ。


 にもかかわらず、臭いが強くなるほど、涼璃の顔はほころんでいく。


 あと数回地面を蹴れば、愛しのハエをハグ出来るだろうか?


 そんな風に楽観した――矢先、空と地面の間に割り込む横線。


 鋭利に視界を横断する姿は、空間が裂けたようにしか見えない。

 だが涼璃はさびのような色に、細やかな毛に見覚えがある。


 ハエの尾だ。


 苦し紛れに振ったのだろうが、風を切る音は鎌のように鋭い。


「うわわわっ!?」


 咄嗟とっさにしゃがみ、屈伸くっしんのように膝を畳む。

 そのまま鋭角に地面を蹴り、自分を前方に撃ち出す。


 つむじスレスレを尾がかすめ、短くカットされた毛が宙を舞う。

 直後、涼璃は低空を撃ち抜き、ハエに突っ込んだ。


 一人と一匹は地獄車じごくぐるまのように絡み合い、道路の端まで転がる。

 そうして縁石に乗り上げると、タイヤのように跳ね上がった。


 ぐるぐると視界が回り、回り、回り、空と地面が忙しく入れ替わる。

 数秒ほど荒々しい風音を聞くと、行く手に窓ガラスが立ちはだかった。


 すぐに甲高かんだかい音が轟き、透明な破片が乱れ飛ぶ。

 同時に涼璃とハエは室内に飛び込み、床に身体を打ち付けた。


 衝撃が一人と一匹を弾ませ、それぞれ別の方向に吹っ飛ばす。

 高い天井は大いに震え、はりに挟まっていたボールを落とした。


 涼璃はバウンドしながら室内を横断し、壁に背中を打ち付ける。


 目の中に火花が散り、視界を白く塗り潰す。

 一瞬だけ呼吸が止まると、久しぶりにお花畑が見えた。

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