*19:53 一年A組教室
「はあ……」
血だまりに変わってしまった静海を見下ろしながら、千衣は大きなため息をついた。
まだ元の世界に戻れないってことは、ほんとにシズちゃんは『犯人』じゃなかったってこと? じゃあやっぱり、シズちゃんが言ってたみたいに私なのかな?
……ま、そんなの今さらどうでもいいけどね。
至近距離ではじけ飛んだ静海の血が、顔や両手にべったりと付着している。
そんなものには、何の感慨もわかない。もはやそれは、ただの粘性の高い赤い液体にすぎない。静海の面影なんて、どこにもない。
死の直前まで見ていた、静海の顔。怒りの表情。焦りの表情。絶望の表情。それらを思い出してみると、いくらか心が満たされる気がする。死によって彼女が永遠に自分のものになった……自分が口にしたそんな妄想に浸ることで、少しは心の安らぎを感じられるような気がする。
でも、そんなものは所詮、純度の薄いまがい物……自己満足に過ぎない。妄想の中の静海が、かつて実在していた彼女のように、自分をさげすみの目で見てくれることはない。自分を痛めつけ、屈辱を与えてくれたりもしない。
ふと我に返ると、ここにいるのが自分だけであることに気付いてしまう。今まで千衣の心を強く動かした少女は、もうどこにもいなくなってしまったということを痛感して、千衣は静かに絶望していた。
これから、どうしよう……。
図書室に、戻る……?
図書室に戻って、残った奴らを皆殺しにすれば、もしかしたら元の世界に戻れるかもしれない。でも……そんなことに、何か意味があるの?
もう、シズちゃんは死んじゃったのに。彼女のいない世界に戻ったところで、もう、意味なんて何も……。
強い喪失感に襲われていた千衣の足取りは重く、時折ふらつくほどだった。
そのとき。
千衣の背中に、突然激痛が走った。
「なっ……!」
前に倒れる千衣。気力を振り絞って、背後にいる人物を確認する。
そこにいたのは、
「ひ……ひぃっ!」
「お、おおがみ……」
それは、千衣が持たせていたサバイバルナイフで心臓を突いて、死んだはずの大神響だった。
千衣は、苦痛をこらえながら声を出そうとする。
「あ、あんた……まだ、生きて……」
しかし響は、彼女がその言葉を言い切る前に、持っていた血だらけのナイフを千衣の心臓に突き刺す。
「ぐはぁっ!」
もう一回。
さらに、もう一回。
響は、何度も何度も、千衣にナイフを刺し続ける。
やがて。
それから数分がたち、もうとっくに動かなくなっていた千衣を認識して、響はやっとそのナイフを手放した。
「はあ……はあ……」
彼女の息は荒く、まるでフルマラソンを走った後のようだ。
ゴボ……ゴボ……。
動かなくなった千衣の体が、下半身から徐々に砕けて溶けていく。さっきの静海のように、やがてすべてが溶けて、ただの血だまりになってしまうのだろう。
そのおぞましさ、グロテスクさはまるで、かつて見た何かのスプラッター映画の中に自分が迷い込んでしまったかのようだ。全く現実とはかけ離れた映像でありながら、鮮明で生々しく、吐き気をもよおすほど気色が悪い。
それが視界に入らないように、響は目をそらした。
「だ、だって……仕方がないじゃないですか……。わ、私は、『嘘』を暴かれたら、死んじゃうんですから……。だ、だからこれは、自分を守るために、仕方なくなんです……。だ、だって……だから……」
体を震わせながら、響はそんな言い訳じみた言葉を何度も繰り返していた。
鶴井千衣に脅迫されて、『嘘』の置手紙を書かされたあと。響は、ずっと一年B組の教室に隠れていたわけではなかった。
このまま千衣に言われるがままに従っていても、行きつく先は見えている。どうせ千衣が助かるための盾として、代わりに殺されてしまうだけだ。そう思った響は、一計を案じることにしたのだ。
一年の教室に連れてこられ、「合図をするまで隠れていろ」と言われたあと。千衣が図書室に戻るのを待ってから、響は同じ教室棟一階にある調理実習室に行って、食紅と片栗粉で「血のり」を作った。
これまで、映画研究会の撮影で血のりを使うことも何回かあったので、必要な材料や手順などは頭に入っていた。だから、限られた時間でそれらしいものを作るのは、響にとっては難しいことではなかった。
あとはそれを袋に入れて体に忍ばせて、千衣が自分を呼んだタイミング――それはすなわち、自分が千衣の代わりに死ななければいけないタイミング――で、自分の血の代わりにその血のりを噴き出させたのだった。
『嘘つき』の『嘘』は、それを知った全員が信じた時点で真実となる。そしてその『嘘』は、声に出して言う言葉はもちろん、書いた文章……さらには、行った動作であっても有効だった。
だから、あの場の静海と千衣が「『独裁者』の『命令』で響が死んだ」という『嘘』を信じたことによって、それは真実となった。『1番』の響が『命令』されて死んだことで『独裁者』の能力は実行されたことになり、響は実際に死ぬことなく、その『命令』をやり過ごすことが出来たのだった。
「ふ、ふふ……」
独り言は、次第に乾いた笑い声に変わっていく。
「でも、そっか……そう、ですよね……。ふふふ……『嘘』をついたって、いいんですよね……? 『嘘』を知ってるやつを、殺しちゃえばいいんですから……。
ふ、ふふ……。
『嘘を全員が信じたときに真実になる』? だ、だったら、『嘘』を一人だけに話せば、そいつが信じた時点でどんな『嘘』だって『真実』に出来る……。それからそいつをすぐに殺せば、『告発』されるはずもない……。
な、なにこれ、無敵じゃないですか……。『嘘つき』って、こんな無敵の能力だったんですね……。ど、どうして私、今までずっと黙ってたんでしょうか……。この能力さえあれば、誰にも負けるわけないのに……。
あは、あはは……」
と、その瞬間。
「で、でめぇぇ……!」
響は突然、背後から何者かに抱きつかれた。
「ひひぃぃーっ!」
思わず、情けない声を上げてしまう。首を動かして振り返ったところにいたのは……いまや右脚は完全に溶けてなくなり、左脚もバラバラと砕け始めている状態の、鶴井千衣だった。
「う、『嘘』を……づいだなっ! おまえは、死んだふり……を、う……」
最後の力を振り絞って、千衣は片脚の力だけで響に飛びついたのだ。ゴボゴボと口から血を吐き出しながら、声を上げる千衣。それは、彼女の最後の抵抗。響の『嘘』に対する『告発』だった。
しかし。
「し、しつこいんですよっ!」
響は、もはや映画の怪物のようになってしまったそんな千衣の両腕を、まるで蜘蛛の巣でも払うように簡単に振り払った。
普段だったら、文化部で非力な響が陸上部の千衣の拘束から、そう簡単に抜け出せたりはしなかっただろう。しかし、既に致命傷を受けて体が砕け始め、泥人形のようにもろくなっていた今の千衣の両腕は、響が少し力を入れただけで簡単に外れる。そして、ボロボロと砕け散った。
「う、嘘を……う、そ……ぶがぁっ!」
両腕も失い、その場に倒れた千衣。それでも最後まで何か言おうともがく彼女の頭を、響は乱暴に踏みつけて黙らせた。千衣の『告発』は、最後まで言い切ることはできなかった。
顔を踏みつぶされた千衣は要をなくした扇のようにバラバラになり、破片は溶けて血となって……やがて、教室の床にできたただの血だまりとなった。
灰色の教室には、「かつて千衣だったもの」の血。そしてその隣に、静海の血だまりも並んでいる。
その二つを見下ろしながら、響はまた笑った。
「ふ、ふふ……『私は、誰も殺していない』……『こいつらが、戦って相打ちになった』……ふふふ……」
彼女はもう、震えてなどいなかった。息も、いつの間にか平常通りに整っている。
「なぁんだ……やっぱり嘘つくのなんて、簡単ですね。ははは……」
制服の白いブラウスは、自分が用意した血のりの上から千衣の血がべっとりとついて、すでに赤の面積のほうが多いくらいだ。しかし、今の響にはそんなことを気にしてはいなかった。
もはや何も恐れるものがなくなった彼女は、悠然とした足取りで、絵里利たちがいる図書室へと向かっていった。
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