第188話「聖母」
「それじゃあな、エリザ」
「はい……」
帝都ノルトマルクでしなければならないことが済んで、俺達は王都に戻ることになった。俺も立場があるから、用が済んだら戻らない訳にはいかないのだ。
寂しそうに俯いて、ドレスの裾を握りしめて佇んでいる小さなエリザを見ると、後ろ髪引かれる思いがする。
「エリザ……」
「ごめんなさい」
エリザは、我慢しきれず俺に抱きついてきた。優しく抱きしめ返す。
お互いに情に流されるわけにはいかない立場とはいえ、エリザはまだ子供だ。別れは悲しいものだからな。
「良いんだよエリザ、こういうときは無理に気持ちを抑えなくても良いんだ」
「ううっ……やっぱり嫌です」
じゃあ、やっぱり行くのは止めようかというわけにはいかない。
エリザの肩を抱いて、俺は泣き止むまでそのままにしておいた。
後ろで俺を見送ってくれる白髭の老将に、俺は無言で頭を下げる。
マインツも無言で頷く。いちいち後を頼むと言わなくても、分かってくれる。
「エリザ、また会いに来るから」
「必ず、約束ですよ……」
小さい身体は、強く抱きしめれば折れてしまいそうだった。
まだ泣きじゃくっているエリザと、指切りをして再会を約束する。さて行かないと、と思った時に、ツィターの姿が目に入った。
「ツィターにも一応言っとくが、エリザを頼むな」
「はーい!」
雰囲気を盛り上げようと、情感たっぷりに別れの曲を弦楽器で引いているツィターは、まったく頼り甲斐がないのだが……その脳天気さがエリザの助けになることもあるだろう。
次にエリザ達に会える日は、いつになるのだろうか。
調子に乗ったツィターが「いざ別けれめ~、いざさらば~」と弦を爪弾きながら歌う。その物悲しい調べに見送られて、俺達を乗せた籠は帝都ノルトマルクをゆっくりと飛び立つ。
オラクルとカアラによって運ばれる籠の上から、遠くなるエリザ達の姿を眺めて、俺は柄にもなく感傷に浸っていた。
「何を浮かない顔をしてるのよ。これから自分の国に勝利の凱旋をするんでしょう、シャキッとしなさいな」
いつも元気なエレオノラが、俺の背をポンと叩いた。いや、ポンというかドスンッて感じだが……籠が揺れるから、あまり暴れないで欲しい。
元気がないのは、エレオノラにたっぷり絞られたせいでもあるんだぞと言ってやろうかと思ったがやめておいた。
「元気づけてくれてるつもりなんだよな。ありがとう」
「エリザ陛下のことなら、何も心配要らないわよ。そのために、みんなついてるんだから!」
「そうだな……」
「それより、タケルはルイーズ様達と王都で結婚式を上げるんでしょう。そのことを考えたほうがいいわよ」
いまさら心配してもしょうがないというのは正論だ。常に前向きなエレオノラの姿勢は立派だと思う。
王将軍となった俺には、果たさなければならない務めがたくさんある。頭を切り替えて前に進まないとな。
ちなみに、エレオノラがいつも着ている炎の鎧は、さすがに空中で籠を燃やされてはたまらないので、防火袋に包んで入れてある。
鎧を脱いだ姫騎士は、ただのちょっと活発過ぎる金髪碧眼の美少女。いつもこうであって欲しいのだけど。
エレオノラが率いるランクト公国の騎士隊や義勇軍の砲兵隊は、手薄になっている帝都防衛の要として残してある。
平時の指揮はアムマイン家の
俺の嫁だから側に居て欲しいとエレオノラに頼んだのは口実で、エリザのお側近くに奔放な姫騎士を置いておくのは教育上マズいと考えたからだった。
ルイーズ達、新しく入る嫁に負けたくないと意気込んでいるエレオノラは本格的な子作りに励むつもりらしく、言わなくても付いてきたかもしれない。それによって被る俺の迷惑については、まあ甘受するしかない。
なんだかんだ言っても、エレオノラは可愛い嫁だし、側に置いておきたい気持ちもあるのだ。
これでもエレオノラはランクト公国の将軍でありかつランクト公の跡取り娘なので、いずれは国元に帰さないといけないのだろうが、せっかく戦争も終わったのだ。それは、もう少し先に伸ばしておきたい。
それに、戦場で凛とした状態ならまだしも、戦争が終わって
性知識が皆無なのに本能だけで動いているせいか、まだまだ暴走しがちなのでもう少しオラクルに教育してもらったほうが良いだろう。
一筋縄ではいかない姫騎士だがルイーズが共に居てくれれば、それほど問題にはならない。
著名な女騎士であるルイーズに憧れている節があるエレオノラは、ルイーズが側にいると比較的大人しくなるので、良い配置とも言える。
そういえばルイーズだよ。
少し不安定な籠に背を預けてごろりと寝そべると、まだ護衛のつもりでいるのか大剣を抱えているルイーズに声を懸けた。
「ルイーズ、結婚式のことなんだけどさ」
「えっ、ああ……そうだったな」
ルイーズは近頃、上の空になっている事が多い。
何か悩みでもあるのだろうかと、少し気になっていた。ただのマリッジブルーならいいんだけど。
「ルイーズ、心配事があるなら言っておいてくれ」
「うん、言おうか迷ってたのだけど……。結婚式の前に、うちにも一度来てくれないか。忙しいタケルを煩わせるのはどうかとも思ったのだが、正式に婚姻するとなるとうちの家にも武家のしきたりというものがあって……」
そうか、それが気がかりだったのか。
居住まいを正して俺に頭を下げるルイーズに、俺も向き直った。ルイーズの父親、ジェローム卿のことをすっかり失念していたのは申し訳なかった。
「そうだよな! ルイーズのお父さんにはきちんと挨拶しておかないといけない。王都に戻ったら、時間を作るよ」
「うちの親への挨拶はどうでも良いんだが……いや、そうだな家族にはなるわけだし、挨拶もいるのだろうが、それより婚姻の儀は、昔からのしきたりだから、そちらをきちんと済ませておきたいのだよ」
一人娘をもらうのだから、菓子折りでも持って挨拶しに行くのは当然だろうとは思ったが。
武家のしきたりとは、結構堅苦しいんだな。結納の儀式みたいなものが、ちゃんとあるのだろうか。
ルイーズの実家のカールソン家は、カールソン流という剣術の道場で、二百四十年の長きに渡りシレジエ王家の剣術師範役も務めている古い家柄だ。
歴戦の女騎士に見えても、ルイーズだってお嬢様なのだ。武家の
「武家のしきたりか。堅苦しいのは苦手なんだが……ルイーズを娶るのに必要なら、それもきちんとやろう」
「えっと、タケルに面倒かけて済まないが、それほど堅苦しくはない。タケルならきっと簡単だ」
簡単に済む儀式ならば問題ないな。
王家に戻ったら、忘れないうちにさっさと片付けてしまうことにしよう。
※
空からの帰還だ。
騒ぎにならないように、こっそりと王都シレジエの後宮の庭に降り立つ。
「なんだ、シレジエ王宮って初めて来たけど大したことないのね」
エレオノラは、狭い籠のなかで肩が凝ったのか、腕を回しながらそんなことをつぶやいてる。
そういえばエレオノラは、王都に来るのは初めてだったな。
正確には、ゲルマニア帝国との戦争のときに敵将として来ていたわけだが、王都の中に入るのは初めて。
敵将だった姫騎士が、嫁として俺の後宮に入るとは考えると数奇な運命である。
「世界の首都と呼ばれるノルトマルクや大都市ランクトと比べてしまうと、シレジエはまだ田舎の農業国だからな」
これでも王都の官僚を統べるライル先生やシェリーが、頑張って産業をもり立てようとしているのだが。
街の規模自体は、そう簡単に大きくなるものではない。
「タケルが凱旋帰国したのに出迎えもなしなのね。うちの街なら、私が戦から帰ってきたら盛大にお祭り騒ぎするわよ」
空から籠が降りてきても、衛兵の一人も来ないのは防空の概念というものがないから、空に注意を払っている人間がいなかったのだろう。
防空については、今後考えないといけないかもしれないが、お祭り騒ぎはどうせ結婚式になったらやるから今はいいよ。
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
空から降りてきた俺達に気がついたらしいシャロンが、後宮の中から出てきた。
小さなシレジエ後宮を取り締まる宮内卿とかいう大層な名前の役職を与えられたシャロンであるが、清楚なエプロンドレス姿は変わらない。
「おお、帰ったよみんな」
手を上げて応えると、シャロンと共に奴隷少女のメイド達がちらほらと出て駆け寄ってきた。
裏庭で燃料に使う薪を割っていたらしいロールも、なんだなんだと大きな斧を担いで出てきた。
「ごしゅじんさま、おつかれ」
「おう、ロールも仕事だったか。お疲れ様」
この
それが日常を感じさせて、戦争が終わって平和になったのだなと感じた。また薄汚れているロールを風呂に浸けて、綺麗に洗ってやらないとな。
何がお疲れなのかは知らないが、まあいろいろ疲れているのは確かかもしれない。
エレオノラではないが、空の旅はスピードが速いのは良いが、じっとしてないといけないから肩が凝るね。
「ご主人様お疲れでしょう、湯浴みの用意をさせますね」
「帰ってきていきなり風呂か。まあ、お願いしておこうかな」
風呂好きアピールが過ぎたせいか。俺は風呂さえ用意しておけば満足すると思われている節があるね。
話を聞きつけてロールが喜んで風呂を焚きに行ったから、まあ良しとしておこうか。
俺とシャロンが話してるところに、落ち着いた艶のある声が割り込んできた。
「シャロンさん。夫を迎えた妻は『ご飯ですか、お風呂ですか、それともわたくし?』って聞くのが是非もない作法なんですよ」
「そうなんですか?」
「ええっ、タケルの故郷では新妻は是非もなくそうするのですよ」
「リアか……」
後宮から出てきたリアが、またくだらないことを言っているなとツッコもうとして、俺は二の句が継げなかった。
ゆったりとしたドレスを身にまとっているリアは、赤ん坊を抱いている。
それだけなら驚くには当たらない。
後宮から出てきたリアは、なんというか片肌脱いで胸をあらわにして、抱きかかえている赤ん坊に乳を含ませていたのだ。
「なんですかタケル、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして」
「おっ……」
なんというか、それは授乳である。リアが、赤ん坊に乳をやっている。
「お……おっぱい、ですか?」
「おっぱいじゃねえよ、いや、ある意味おっぱいだけども!」
もうリアに赤子が生まれたのか……なんてわけではもちろんない。確かに妊娠してはいるのだがリアのお腹は、まだ目立って大きくなってない。
しかし、胸は目立って大きくなっている。
というか、デカ!
ただでさえ無駄に大きかった乳が、さらに大きくドーンと張り出している。
よくブラもなしに、これほど大きな肉の塊が重力に逆らって形を保っているものだ。乳腺が発達して肥大しているのだろうが、よっぽど大胸筋が発達しているのだろう。
リアの抱いている赤ん坊は、張り出した乳房をあてがわれて、小さいお口で上手にチュパチュパと乳を吸っている。
無駄だった乳も、こうなれば子を育てる立派な器官であるので悪くは言うまい。
リアの抱いている赤ん坊は、くるくるっとした柔らかい灰色の巻き毛の俺とオラクルの子である。灰色の肌をした、魔族と人間のハーフの赤ん坊である。
「もう、どっからツッコんだらいいか分からない……」
「あっ、さすがはタケルの子供ですね。上手なおっぱいの吸い方です。ああんっ、是非もなく血は争えない……」
リアが、母親のオラクルが留守の間に乳母の役割を果たしている。それは分かる。
しかし、なぜリアはもう乳が出るのだ。
俺はあまり詳しくないが、確か母乳が出るのって赤ん坊が産まれてからのはずだろう。リアはまだ、全然そんな時期じゃないはずだ。
それなのに授乳出来ている。しかも、乳房大きすぎて母乳が出すぎなんだろうか。乳を吸い過ぎたらしい赤ん坊が、満腹してゲップしていた。
「リアは乳を飲ませながら何いってんだよ、人聞きが悪すぎるよ!」
「タケル。オラケルちゃんがビックリするから、あんまり大きな声を出してはいけませんよ」
むうっ、俺のほうが注意されちゃったよ!
しかも何だよ、そのしたり顔。明らかにリアは面白がっているのだが、俺の可愛い赤子を抱いた女には逆らえない。人質を取られた形である。
そもそも、ツッコミどころが多すぎて何から言ったら良いか分からないよ。
久しぶりにリアの本気を見た気がする。あっけにとられて、驚くどころか逆に冷静になってしまったほどだ。
そういえば、オラクルの子供の名前だが、俺が出した『オラケル』という案が、あんまりにも珍妙だというので保留になっていたが。
どうやら俺が留守中の間に、定着しているようだ。悪くない名前だと思うので、そのまま通ってくれると嬉しい。
「おい、リア……とりあえず事情を説明してくれ」
「赤ん坊は、是非もなく可愛いですね。預っているだけというのが残念ですが、私もはやく欲しいものです」
肩にもたれかかるようにして抱いている赤子の背中を撫でながら、ニヤニヤとこっちに嬉しそうな笑顔を向けるリアは相変わらずだった。
俺を驚かそうと、わざとオラケルの授乳を、俺の帰ってくるタイミングに合わせたのかもしれない。
「とりあえず、大丈夫なのか……」
「何がです?」
「いや、オラケルは魔族の血が入った子だろ。人間の、しかも聖職者の乳なんか吸って大丈夫なのかと……」
「あらまあ、乳なんかとは失礼ですね。聖母のミルクと言えば、そんじょそこらで飲めるものではありませんよ」
そりゃそうだろ。妊娠してる聖女は世界でお前しかいないんだから、実質お前しか出せないよ!
そういうことを聞いているのではない。
「いや、だから……」
「大丈夫ですよ。魔族の血を引く赤ん坊が人間の母乳を飲んでもどうこうないだろうとは、アーサマにも是非のないお墨付きを頂いております」
「そうなのか、だったらもうなんでもいいけどな……」
いちいち突っ込むのは疲れる。
リアに弄ばれている俺の様子を見かねて、オラクルが後ろから説明してくれた。
「タケル、ウシの乳をヤギの子が飲むようなもんじゃ。心配ない」
「いや、酪農の知識はないから、それが大丈夫なのか知らないけどな……」
「大丈夫じゃなかったら、ワシが聖女に大事な子を預けるわけがなかろう」
「なるほど、それもそうか……」
オラクルが入ってきたのを見て、リアも潮時かと思ったのか真面目な顔になった。
「さてと、タケルをからかって遊ぶのはこれぐらいにしましょうか。是非もなく、きちんと説明して差し上げますよ」
「やっぱりからかってたんだな! はぁ……もういいから、一から説明してくれよ」
リアが母乳を与えても、オラケルの発育に問題がないというのなら、まあ良いだろう。
しかし、アーサマ教会と魔族が対立してるという設定はどうしたのだ。もうこれ、何度言ったか分からんが。
「先程オラクルさんもおっしゃった通り、聖母のミルクは魔族の赤子だけでなく大人も飲んでも平気です。アーサマの加護により、わたくしの母乳は慈雨のごとく湧き出しますので、タケルの分もありますから、後でどうぞ」
「からかうのやめてねえじゃねえか!」
リアにまともな説明を期待したのが間違いだった。
だからなんでお前らは、俺に母乳を飲ませたがる。
「あら、味には是非もなく自信があるんですよ。アーサマが特別に出してくださった栄養満点の
「うるさいよ」
「オラケルちゃんも喜んで飲んでましたよ」
「それはまあ、留守中に乳母役をしてくれたのはありがたかったけども……」
赤ん坊をダシに使われると、文句が言えない。
たっぷりと甘いミルクを飲んだオラケルは、リアに抱かれたまま眠ってしまったようだ。
俺達が、わんわん言い合っているのに泣きもせず。
実の母親でもない女に抱かれて、オッパイを飲むだけ飲んだら寝てしまうのだから、肝が太い子だ。
きっと俺よりも大物に成長するんだろうなと思えば、頼もしい限りだ。
「オラクルさんがタケルに付いて行くというので、アーサマが乳母が出来るようにと、わたくしの乳の出を調整してくれたのですよ。出産前の授乳でも、是非なく母体も大丈夫だそうです」
「前から思ってたんだけど、アーサマはサービス良すぎだよね……」
乳の出を早めるとかは、女神様のやることだから簡単に出来るんだろうけど、魔族の血を引く子供を育てるのにミルクを恵んでくれるとか、どんだけ気前が良いんだよ。
全世界的な創聖女神なのに、他にやることないのかと言いたくなるほどのきめ細やかなサービスの良さである。
一応うちだって、王国の後宮なんだから乳母ぐらい見つけるけどな。
まあ、オラケルを育てるのに魔族のミルクしかダメとなったら、乳母を探すのも大変だったのかもしれないけど。
アーサマは、ユーラ大陸の人族全体を
魔族と人間の赤子が飲む母乳に互換性を付けておいてくれたことに関しては、感謝しないといけないかもしれない。
「アーサマの慈悲は、万人に等しくこの世界へと注がれています。オラケルちゃんが魔族と人間のハーフだからといって、是非もなく愛されないわけがないのですよ」
「……それは、ありがたいことだな」
くるくるの柔らかい髪に、小さな手足。眠っている赤子は、どこの世界でもこの上なく可愛いらしいものだ。
アーサマだって、こんなに愛らしい赤ん坊になら魔族のハーフでも乳ぐらいくれてやれと思うのかもしれない。
こうやって聖女のリアと、
いろいろとツッコミたい点は多いが、不意に優しげな表情を見せたリアが、ゆっくりと身体を左右に揺らして抱いている赤ん坊を上手に寝かしつけている姿を見てしまえば、俺はもうなんともいえなかった。
リアは、ちゃんと良いお母さんをしてくれている。その光景は、まるで後光がさして見えるほど神々しくて美しい。
こうしてみれば、リアは立派な聖女にも見えるのだった。
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