shape first 入村
乗客が多く立ち乗りも多かった特等列車も国一番の都市を通過すると一気に空いた。窓の風景も建築物が姿を消して、森林と田んぼと電線が目に入る機会が多くなった。
赤色のリボンが巻かれた青く丸いハットを被る少女の顔はまだ幼さが残っていた。ガタガタと無遠慮に揺れる車内、垢抜けた乗客が消えた後に残った田舎臭い人物の会話などまったく気に触れないように大人しく赤い座席に両手を膝に置いて座っている。
今年のイーグルスはやるじゃないか。後方の座席で酒盛りするおやじ達の会話は嫌が応にも耳に入る。おやじ達は地元プロ野球チームの快進撃について意気揚々と語っているが、少女にとっては何の関心を持つことが出来なかった。
「お嬢さんもどうだい。イーグルス優勝すると思うかい」
おやじ達は酔いがひどい。自分の娘と同じような年代の少女に対しよくもくだらない理由で絡む。しかし少女は微笑する。これぐらいへのかっぱなのである。
「すると思いますよ」
おやじ達は少女の純粋な返答を受けて、馬鹿みたいに驚いた。おやじ達の周りにはこのような絡みを無下に扱う女の子が多かったのであろう。
おやじ達は興味津々で少女に絡み続ける。
「君はどうやら野球に詳しそうだ。どこファンなんだい」
「特別意中の球団があるわけではありませんが。イーグルスの赤見内選手とか渋くて好きですよ。見逃した時のバット捌きとか」
身振り手振りを交えた少女のコナな回答におやじ達は目を輝かせた。この年代の女の子で、自分たちの会話に加わる才能を持ち合わせていることなど余りに稀有だから。
少女は表情を変化させず会話を続けた。興味がなくても少女は知識を持ち合わせていた。これから少女が舞台とするB村の村民の贔屓球団がイーグルスという情報があったため、勉強するのは少女の義務だった。
少女は大人には程遠い姿ではあるが、目の前で棒遊びの話に夢中となっているおやじ達に比べればはるかに重い責務を負っていた。目の前のおやじ達の姿は少女にとって初めて会話を交わす異国の大人であったが、全く人間的な威厳を持ち合わせていない姿に呆れを通り越して考えるのも無駄だと思考を閉じた。
少女は某国で生まれ育った。大国であるF国から一世紀前に独立し、度重なる国家消滅の危機を乗り切った某国の国民らしく少女にも誰人にも犯せない意思が存在した。
少女は国内で培った使命を小さな身体に抱えて、世界に放たれた工作員の一人だった。某国は国家を保つために他国に秘めた思想を国民内で共有していた。国民は国際社会の例に乗っ取り当然の様に他国に散らばりながらも、その思想が世界に暴露されることなかった。 彼らはいつ時代の波に犯され消滅してもおかしくない某国を保つために存在していた。
少女の目的は広大なF国の端で国の意思が行き届いていないように思われるB村で人知れず育成されているF国の人材を調査して、将来某国に被害をもたらす人材と判断した場合は秘密裏に処理することであった。それが少女の最初の使命だった。
少女は自分の喜怒哀楽など何一つ交わさずに無意味なおやじ達との会話を続けた。車掌がゆっくりと狭い通路を通り過ぎる。もうすぐ目的地のB村に着くみたいだ。少女は虚ろな視線を窓に向けた。外は先ほどよりも酷く緑に覆われた田舎具合だった。
少女が生まれ育った町は武骨な岩と苔と蔦が印象的だった。生まれて初めて匂う緑の匂いは人生観を震わせる毒気があった。
数少ない乗客を乗せた赤い電車は煙を吐き出しながら、緑の向こう側へ消えていく。少女にとって関係ない話だった。
駅のホームには尻を掻くご年配の駅員と少女以外に姿はなかった。ほかの乗客はもう既に駅を後にしたようだ。駅の外からイーグルスの応援歌が聞こえてくる。
紅色でレトロ感のある切符を改札口の駅員に渡す。何処かの貴婦人のような姿の少女に駅員は目を奪われたようだった。少女は駅員に無関心だった。
駅の外も緑が広がっている。白アゲハが数匹飛んでいる。太陽の光は雲と白い霧に緩和された状態で、無感傷を気取っているようだ。
少女は迎えの黒塗りの車を見渡す。大きな桜の木の下で、腰を曲げたおじいさんが手招きをしている。初対面する異国の同志。そして表面的には少女のおじいさんになる男。
常識的な挨拶を交わして、少女は流れるままに車内に乗り込んだ。
「B村はいかがでしょう。母国とは勝手が違いすぎて驚きましたかな」
おじいさんは年相応の紳士具合で少女に話しかけてくる。少女はバックミラーに映るおじさんの顔を意識しながら回答する。おじいさんは初めてできた孫をかわいがるようなやさしさが太く白い眉に醸し出ていた。
おじいさんが運転する車は整備が行き届いていることはよくわかるのだが、残念ながらB村のガタガタな地面の前には形無しだ。座席ががたがた揺れて話にならない。
「緑がきつくて吐きそうです」
おじいさんは苦笑する。
「そうなります。特に初めて国を出たから尚更です。人間ってやつは土地に染みついておりますからな」
おじいさんとの会話はあまり長続きせず、車内は次第に無言が定着する。少女はB村の風景に視線を向けていた。何処を見渡しても代り映えのしない緑。時々村民がだるそうに歩いていた。職にあぶれたらしい若者が空を深刻そうに見つめている。若者につられて、少女は窓に顔をあてて空を見つめるが、ただ雲が浮かんでいるだけだった。
駅から離れれば離れるほど、住宅の姿が少なくなっていく。話には聞いていたが、おじいさんの家は想像以上に辺境にあるようだ。
数十分後、おじいさんの家に着く。おじいさんの家は洋風な匂いを抱えこんだ一軒家。壁を伝う蔦が程よくレトロさを醸し出している。
おじいさんの先導にちょぼちょぼついていく。おじいさんには妻が居るが、生粋のB村民である。つまり、同志でない。
某国の国民は全てを国に捧げたもの以外に存在しない。外面どれだけ他国の人間と仲よくしようが、某国への忠誠心は揺るがない。
だからこそ、村民にもお互いを晒しあう夫婦の関係の女性ですらもおじいさんは騙し切って生活しているのだ。某国の忠誠心を胸に秘めて。
少女はおじいさんの生き方に興味を秘めていた。初めて異国の地に足を踏み出した彼女よりも先にその地に存在し続けて、何のミスも犯していないように思われるおじいさんに。
しかし少女の口からその疑問が零れることはなかった。少女の使命に直接的な影響はないから。少女は元来無口な気質ではあるが、委ねられた使命が無口を加速していた。
「どうかしたのかい」
少女はおじいさんの呼びかけに我に帰る。玄関を開けたおじいさんは振り向く。少女は虚空を見つめていた。少女は深呼吸して、微笑する。
「いえ、少し考え事を」
おじいさんはやさしく笑う。
「そうかい。考えることはいいことだ。我々に思索はなくてはならないものだからな」
その通りである。小国でしかない某国が一世紀も独立を維持しているのは思考をし続けているからだ。
「しかし、考えすぎて立ち止まるのは感心しないよ。我々は動き続けることで生命を約束されるのだから」
少女は頬をほのかに赤く染める。そうだ。このようなところで立ち止まっているわけにはいかない。誰も助けてくれない。少女が自身を履行できなければ、それは必ず国家へ大きな損害を被ることになる。そうすれば、少女が最も大切にしている家族や友人の生活環境が失われることになる。我々は我々の聖域を維持するために国家を立ち上げた。独立し続ける。少女もまた、国家の意思にひどく賛成する構成員の一人だった。
少女は口をきゅるりと横一文字にする。身も心も締め上げる。毎秒が戦いなのだ。気を引き締めて。
少女は黒いローファーを脱いで、予め用意されていた藍色のスリッパ―を履く。
リビングではおばあさんが歓迎の用意をして、待っていた。テーブルの上には多種多様のお菓子が置かれている。おじいさんの後ろでほのかな高揚感を抑えきれないように少女はもじもじと体を動かしていた。
「まあ、なんてかわいいおちびちゃんでしょう。お顔をみせて。ね」
おばあさんは好奇心旺盛なようだ。少女の様に出会いに対して顔を輝かせている。このおばあさんと日常を過ごしてきたおじいさんの苦労と偉大さには尊敬の念を抱かざるをえない。
「はじめまして。悠木リサと申します」
少女はその体には似つかわしくない恭しさで礼をした。おばあさんは更に目を輝させる。
「なんて礼儀正しいことなんでしょう。お母さまのご教育が良いのですね。
こちらこそ、始めまして。吉村カエデと申します」
おばあさんも負けじと恭しく礼をする。おじいさんは苦笑する。
リサはおばあさんの背後の壁に掛けられたF国の偉大指導者藤田氏の肖像を見る。F国民には必須のアイテムだ。藤田氏への崇拝の有無に関わらず肖像を掛けないものは非国民として断罪される。藤田氏ははげかけの頭にふさわしい満面の笑みと相反する厳しさの隠しきれてない双眼を全国民に投げかけている。まるでどこまでも偉大指導者の権力は届くと傲慢を隠さないように。
おばあさんは目をキリッとして、おじいさんに注意する。
「こらっ。あなたも挨拶するのよ」
「いや、僕はもう既にしてきたから」
おばあさんは呆れたようにおじいさんをみる。
「リサちゃん。このじじい、ご迷惑かけることなくあなたをここまで送り届けることできたかしら」
礼儀正しく答えることもよかったが、何となくいたずらしたくなった。
「なんかよくわからない演歌をテンション高く歌っていました」
「まあ、なんて野郎でしょう。これはお仕置きが必要ですね」
おじいさんはまさか目の前のおとなしそうな少女がこのような理由なき裏切りを起こすなど考えもつかなかったようで、狼狽している。
「いや、リサくん。何言っているの。いや、君も真に受けないで」
「かわいいリサちゃんがウソでもいうと思っているの。ほら、お尻出しなさい」
リサは無言で仕置きの一部始終を見守る。本当にこの夫婦は仲がいいことがわかる。リサは自分にはとてもこのように振る舞うことは出来ないと感じる。
仕置きが終わるとリサは荷物を横に置き、お菓子を頂いた。ミルクの味が印象的ないぶし銀のクッキーがとてもおいしく、リサは驚きのスピードで大量に頬張る。おばあさんはその様子を本当にうれしそうに見守っていた。
「本当にこの子が当分の間、この家にいるなんて信じられないわ。これって現実なのかしら」
「現実だよ」
名目上、リサはおじいさんの妹の娘という事になっている。F国の金融都市で生まれ育ったが、一年間母親の海外出張が決まり、片親の影響もあり、泣く泣くおじいさんのもとにリサを預けることにした設定。もちろん設定上の母親は架空の人物だ。本当の母親は某国で会計士として様々な企業の財布の紐をこれ以上ないほど縛りつくしている。
「リサちゃん、よろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします」
ほっぺについたクッキーのかすをぺろりとなめてから、リサは恭しく礼を返した。
深夜。柔らかいベットに横になり、リサは虚空を見つめている。壁には掛けられほやほやのF国の偉大指導者藤田氏の肖像がある。肖像は掛けられほやほやであるというのに、何故かしわしわだった。
リサは時間の通過をその身に受け止めていた。前進することを阻む取るに足らない思考を肉体に課さない努力など、工作員として生きるための訓練で身に着けており屁の河童であった。
そろそろいいだろうか。もうおばあさんも寝たころだ。おばあさんはリビングで深夜番組を晩酌しながら見続けていて、少々の気配にすら気づく具合だったから、なかなか行動に移すに時間がかかった。
リサは布団から抜け出した。白い靴下を履いて、ベットの下に隠してある黒いシューズを履く。荷造りされたままの段ボールをぬって、リサは窓を開けて二階から飛び降りた。
おばあさんは深夜の徘徊はしてはいけないとリサがお風呂から出た後に釘を刺すように話した。もちろんいい子ちゃんにしか映らないリサが深夜に何の了解を得ることなく徘徊することなど有りえないことはわかっている。しかし、それでも話しておかなければならない事情がそこには秘められていることがよくわかる。
車の中でおじいさんは話してくれた。
「この村には一匹の怪物がいるのです」
初めての徘徊は誰の監視もない中で行いたかった。他意はない。情報に関しては事前確認しているし、B村の詳細についてはおじいさんに聞けば大概のことはわかる。怪物についてもだ。
ただ自由に自身のリズムで世界を知ることがリサのモット―であり、初めての任務で実行することが幼いころからのリサの夢の一つだった。それにこの任務はゆっくりと確実に処理されることが重大視されていた。ただ目標物を確認すれば速やかに処理することは求められていない。任務遂行者が自分の世界観を施すことも長期間の任務には大切なのだ。
パジャマ姿のリサは右往左往周りの情報を五感で感じながら、無音で駆け巡った。B村は電灯設備が少なく、少女の深夜徘徊には不向きな土地だ。しかしリサは天然のネコ目を持ち合わせており、まるで昼間の様に二つの眼球には映っている。
人が離れた深夜の世界ではウサギや野犬、様々な動物たちの天下が繰り広げられている。彼らがリサに歯向かってきたとしても、リサには跳ね返すだけの力がある。歯牙にもかからない。
リサは徘徊のスピードを緩めない。深夜の野外淫行に励むカップルや、DVの叫び漏れる家屋以外に刺激的な世界は見当たらない。そこまで活発には動いていないという事か。
落胆の気も隠せないリサは徘徊の速度を緩めて、一息ついた。狂犬的な気配を隠さない野犬たちが興味深そうに近づいてくる。野犬たちは月の光を浴びるリサをまるで精霊のように感じているようだ。吠えることなく目をぱちくりさせている。
リサは野犬たちがやさしさに飢えているように思った。彼らにやさしさを与えられる余裕をもつものがこの村にはいないんだろうと推測される。リサは彼らの心を癒してあげたいと思った。
リサは野犬たちを手招きした。野犬たちは手招きを拒絶せずに素直に受け止めたようだ。ゆっくりと四本足で近づいてくる。
リサは地べたにぺたりと座る。野犬を胸に受け止めて頭をなでなでする。野犬たちは荒々しさを棹に納めて、なすがままなでなでに心を預けている。
リサはこのままこの世界が続けばなと思う。野犬はB村にとって不快な存在であろう。しかしB村は野犬を処理できるほどの衛生意識を持ち合わせていない。だから今日、リサと野犬は出会うことが出来た。場所が場所ならば野犬は確実に処理されて姿はないのだ。
いつまでもリサは野犬を愛でていたかったが、日の出が近い。農家の多いB村の村民が動き出す頃合いだ。名残惜しいがリサは野犬を胸から放し、別れを告げた。
「また、今度ね」
野犬もまた名残惜しそうに吠える。リサは手を振りながら、離れる。帰宅の時間だ。
リサは目にも止まらないスピードで駆け抜けていった。野犬は嬉しそうに遠吠えを挙げる。
遠吠えに交じり、トランペットの音を耳にした。リサは驚きで立ち止まった。
この時間帯に非常識な演奏に驚いたわけではない。今耳にした音色は亡きリサの先輩が奏でていた音色に似ていた。先輩はハーモニカであったのだが。
リサは硬直した足を動かすことも出来ず、そうしているうちに演奏はやんでしまった。
もう一度確かめたい。今耳にした音色は現実か幻か。内臓がぐにゅぐにゅと歪み平衡感覚が潮が引くように失われていく。リサは丹田に集中し、意識が飛ばないように心掛ける。
リサは白昼夢に包まれたのだと自分を納得させる。あの人はもうこの世にいないのだ。未だに受け止め切れていないばかりに。
胸の鼓動が激しい。忘れなければならない。幻に愚弄される暇などリサにはないのだから。フラフラの脚に喝を入れて、リサは歩み始める。
B村に立派な快晴はなかなかみられないようだ。連日と変わらない湿気た空気感が心なしか高揚感を抑制している。
灰色がアクセントカラーに使用された制服を身にまとい初登校。実年齢は十一歳だが、書類上は十四歳の女子中学生。初めて見る世界を想像するといくら任務上の必要性があるとはいえ、個人的な感性がワクワクを押さきれない。おじいさんの後ろをぽつぽつと着いていきながら、散りゆく桜を傲慢無礼に蹴とばしていく。
校舎は工事途中で業者の不祥事により永久に完成の憂き目をみない不完全さで不器用に立っている。緑の空間にはあまりなじんでいないことを緩和するためなのか、蔦が校舎の外壁を侵食している。
おじいさんが折れ曲がった校門でチャイムを鳴らす。休み時間らしい校舎から容赦ない視線が数多くリサを見つめている。リサは知らんぷりした。
誘導に従い校舎へ進む。校舎前には、F国の偉大指導者、藤田氏の銅像がある。完全に再現されたはげかけの頭は酸性雨の影響ですっかり錆びている。土台には全国民革命運動の際の最重要スローガンだった『蒼穹は胸の内で萌えている』が刻まれている。
額の脂汗を赤いハンカチで拭きがちな教員がリサの担任みたいだ。彼の誘導に従い、埃の被った事務室で書類上の手続きをおじいさんは行う。室内には歴代校長のご尊顔が額縁に納められている。どいつもこいつも覇気のないおじいさんばっかりだ。その中で、偉大指導者藤田氏の肖像は歴代校長とサイズが違うのもあるが、輝きが違う。頭の禿げ具合がその効果を増長させているのかもしれない。
教員はおじいさんがたどたどしく手続きをしている間にじろじろとリサを盗み見している。リサは男らしくない無遠慮な目つきにイライラする。怒りをつぶやきそうだ。
「なにですか」
余りに気になる。リサは怒気を含んだ物言いをする。
「いや、なんでもない」
教員はぱちくり瞬きを繰り返す。なにかやましい考えでも抱いていたのであろうか。追及する気にもなれない。
授業が始まるチャイムが鳴った。生徒の喧騒が次第に収まる。学校という組織は国が変わっても同じようだ。リサはついこの間まで通っていた工作員養成機関での思い出が頭をよぎる。
膝の痒さを我慢できなくなってきた頃合いになってようやく手続きが終了した。おじいさんは顔中に汗を垂れ流している。よほど事務作業が苦手なんだろう。リサはポッケから青いハンカチを取り出す。無言でおじいさんに差し出した。
おじいさんはリサの申し出に躊躇したが、やさしさに甘えてハンカチで汗を拭く。
拭いたハンカチの処理はおじいさんに委ねる。流石におじいさんの汗が染みこんだハンカチをポッケに入れる趣味はない。
「では明日からよろしくお願いします」
リサは恭しく礼をする。担任は不自然に礼を返した。
桜が舞い散るなか、帰宅の途へと着こうとする。爽やかな清水が河を流れるように胸は穏やかだ。
鼓動が乱れる。穏やかな胸は反転し、真っ赤なホリゾントが印象的な分の悪い戦場へと舞台は転換する。
リサは振り向いた。この間耳にしたトランペットの音が校舎から聴こえてくる。幻聴ではない。
「リサくん、一体どうしたのかね。興奮は体に毒だよ」
リサはおじいさんのやさしさを無碍にして校舎へと向かう。今度は絶対に正体をつかむ。幻にはさせない。
音は途中で詰まり、それっきり二度と吹かれることはなかった。しかし事前に校舎の配置を把握しているリサには何処に演奏者がいるのかわかっている。
リサは迷路のような校舎を進む。2階、かつて美術部の部室として扱われていた空き教室の扉を無音で開く。
酔いどれ親父がべろんべろんになってなお酒盛りを辞めようとしない。体に悪影響を与える深酒を宥めようとする妻の催促を無碍にし、酒瓶を抱え込み放そうとしない。
未だかつて見たことない情景をリサは脳裏に浮かべる。女生徒に対する表現としては常識的には相応しくない。だが、それにしてもなのだ。
ク リーム色のカーテンが日光をやさしく遮断する。乱雑に並べられた座席の部屋の角、窓側に女生徒はだらりと意識を失ったように座る。右人差し指にかかったトランペットがだらしなく埃の溜まった床に沈んでいる。
この女生徒が本当にあの音色を奏でたのか。状況証拠が整っているとはいえにわかには信じがたい。
リサは考え直した。脳裏に刻まれた先輩の音色を恋しく覚えていたから、たまたま似たような音色を耳にしたから、驚いてしまったのであって。実際には全く違う音楽が施されていただけ。
リサは堕落の極みに到達したように思われる女生徒に話しかけたものか、逡巡する。話しかけても無駄なように思われる。
女生徒は前髪を払う。
「…なに」
蚊の鳴くような音量。しかし芯の通った生命を諦めていない声。女生徒は不愉快そうにリサを見つめる。眼光は今にも床に滑って落ちそうな不安定で、鋭かった。美しいとリサは感じる。
「どうしたっていうのよ」
リサは我に帰る。どうしたっていうんだろう。いくらなんでもひどすぎる。正気でいるには余りにリサは驚いてしまったのだけど。それでも正気でいる努力に励まなければ、任務遂行など夢のまた夢。しかもリサの工作員としての活動は始まったばかりなのだ。このような按配ではいつ大きな過失に落ち込んで命を失ってしまうものか知れたものではない。リサは瞬きと深呼吸をして落ち着く。
正気に近づいたリサは、意を決して女生徒に話す。
「…あなたの音楽が余りにも亡くなった先輩の音色と似ていて。それでここまで来たんです」
女生徒は無関心だ。表情に変化はみえない。もともと無表情なのかもしれない。
「でも、あなたの姿がみるとそれも幻の様に思えて」
「あなた転校生?」
「はい。悠木リサっていいます」
女生徒は品定めするようにリサをじろじろ見つめる。
「同級生か」
知りたい情報だけを摂取し終えて、再び女生徒は自分の殻へと閉じこもる。そうはさせないとリサは質問を投げかける。
「あなたのお名前はなんですか」
女生徒は無表情を貫く。そんなに閉じこもってもいいことなんて一つもないのに。
「名前、なんていうんですか」
女生徒はムスッと頬を膨らませる。
「名前なんてなんでもいいじゃない」
「よくないです。私、悠木リサです。あなたは」
しつこいな。女生徒は面倒くさそうにため息を吐いた。
「大北カナタ」
カナタ。大北カナタ。リサは新しい情報をインプットした。これで二度と忘れない。
「大北さんのトランペット、もう一度聞きたいです」
カナタの心は完全に封鎖された。何を話しかけても返事が返ってこない。
続きはまた今度ってやつだ。リサも流石に諦める。名前を聞けただけでも上出来だ。
リサは無言で会釈して、教室から出た。
外ではおじいさんが首を長くして待っていた。
「話はすんだのかい」
リサは苦笑いする。
「失礼ですけど、不法侵入していますよ」
おじいさんは軽く頭をグーで小突く。流石に紳士のおじいさんもリサの無鉄砲な行為を無言ではあるがお叱りのようだ。リサも内心では理解している。
B村にくるまで抱えていた任務に対する意識がひっくり返されたように、行動のコントロールがとれない。リサは自分自身に恐れと云うものを覚えた。
死にたいときほど、どうして人は自分を諦めやすくなるんだろうか。あれほど自分自身も他人も大切だと感じていたのに、すべてを放棄しても構わないと自暴自棄になるんだろう。
先輩は孤独を感じたときハーモニカを吹いていた。先輩の音色は全ての人間を拒絶していた。先輩自身でさえもだ。
それ故にか。とても美しかった。先輩のハーモニカはリサの胸をひどく揺さぶる。普段は明らかにされないリサの深層をやさしく宥めてくれたかと思えば、ナイフでぐっさぐさに突き刺したり。すごく繊細で大胆だった。
先輩は何一つ目立った特性を持ち合わせていないリサを特別かわいがっていた。リサはどうして自分が先輩に寵愛されたのか未だに謎である。生前に先輩の口からその真相を聞くことは叶わなかった。
先輩は選ばれた人間だった。誰よりも世界の核心に近く、伝えることが出来た人間だった。ただ先輩には幸運が平凡なリサよりも少なかったのかもしれない。弱冠17歳で人生の幕を閉じた。
F国で初めてのソロコンサートを成功させた夜にホテルの一室から飛び降り、死んだ。世間的には若き天才の謎の自殺として事件は消化された。もちろん真実は闇の中に消えてしまっているが、本当のところ先輩は工作員としての活動を過剰に行いすぎた結果、F国に消されてしまったのだ。
先輩はF国と某国との掃いきれない敵対心を踏まえても融合の道が存在すると模索していた。
先輩は数多の大人が最大の敵として掲げていた偉大指導者藤田氏の思想でさえもある一定の評価を与えていた。
「青空は胸の内で萌える。しかし青空は天気でいとも簡単に揺らぐ。揺らぎを受けとめず、黒い空が目に映りながら認めない者は馬鹿な誇大妄想家にすぎない」
先輩は派手な事が好きだった。先輩は多くの先達が実行してきた道とは別のアプローチで某国に貢献しようと励んだが、失敗に終わった。
先輩が奏でたメロディーは人生を謳歌する前に響きを忘れてしまった。まだまだでは収まり切れないほどの未遂の事業が山積もりとなっている。先輩がいないせいで、どれほど世界は遅れてしまったのだろうか。
もう二度と先輩の音色を耳に出来ない事実は重くぬるく掴みようのない厚い壁となって、リサの胸につっかかっている。
もう一度逢えるならば。叶うこともない夢にリサは支配され続けてる。
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