第9話

「はあ…はあ…はあ………」

 丘の上へと続くその道は、小さい時から通っていたおかげで暗闇の中でも迷わず進めた。しかし、あのころとは違って、運動不足である今の僕の身体には体力的に厳しいところがあった。

 すでに息は上がっていて、額には学校の職員室ですっかり冷えたはずの汗がにじみ始めていた。

 僕は道の途中で苦しさのあまり乱暴に足を止め、膝に手をつくと、しばらくそのまま息を整えて呼吸のしずらさを緩和しようとした。走るのをやめると全身に心臓のバクバクという鼓動が響き出し、回復するはずの疲労度を逆に膨れ上がらせて、浮き彫りにした。そして、僕は休憩しても大した意味がないことを理解すると、傍の木に手を当てて身体を支えながらまた走り始めた。

 すると遠くの空で何かが光り、暗闇だった視界が少しばかり明るくなった。

 ドーン………ドーン………

 そして後から遅れて、心臓の鼓動より大きな、身体の芯に響く破裂音が続けざまに聞こえてきた。

「はあ……はあ……始まっちゃったか………」

 俊太と別れてから初めて後ろを振り返ると、背の高い木々の隙間から丸い炎の輪郭と小さい火のこが見えた。それを目にした僕は、今までも十分速く動かしていた足をさらに急かして一秒でも速く走った。

「はあ………はあ………」

 そして最初の一発から数えてちょうど二桁目の花火が打ちあがった時、やっと僕は丘の上に着いた。

「あ、やっほー」

 すると、そこにはちゃんと花楓の姿があった。

 彼女はいつの日かと同じ場所に同じように座り、僕に気づくと同じように芝の地面を叩いて、隣に座るよう指示をした。ただ一つだけ、花楓は前と違ってきれいな浴衣姿をしていた。 白地に淡い桃色や藍色の朝顔の柄が入った浴衣。

 僕は花火の音が鳴り響く中でその容姿に目を奪われ、さっきまでとは違う鼓動の高鳴りを、さっきよりもずっと鮮明に感じた。

「………ごめんね、急に」

 僕が心臓を落ち着かせながらゆっくり近づき、隣に座り込むと、花楓は躊躇いながらそう切り出した。

「僕の方こそ、間に合わなくてごめん」

「間に合わなくて………何に?」

「何にって………花火………」

「ふふふっ、何言ってるの、間に合ってるじゃん」

 花楓の弱気な口調を見せたのに続いて僕が引け腰で謝ると、彼女は面白そうに明るく、それでいて僕を褒めるように優しく笑い、こちらに向いていた目線を夜空に輝く七色の花に向けた。

 僕は思いもしなかった温もりに声を奪われ、花楓の言葉に返事を返すタイミングを逃した。

「………それで、今日はどうしたの?」

 僕がその一瞬の沈黙をごまかすように何気なく話題をそらすと、笑顔だった花楓は目線と一緒にその表情を落とした。

「うん、私も夏奈慧くんに謝りたくってさ」

「謝るって?」

「ほら、この前ひどいこと言っちゃったから」

「ああ、そのことね」

 僕は呼び出された理由に納得しながら、自分が怒っていないことが伝わるような口調で声を漏らした。

 しかし、その意図は花楓には届かず、彼女はさらに沈んだ、暗い顔をした。

「自分でも自分がどうしたいかわかんないの。毎日、夜が来るたびに明日には死んでるかもって考えがよぎって………。それがどうしようもなく怖くて………」

 それから彼女は弱々しい声を少し発すると、膝の裏に腕を回して小さくうずくまった。

 その姿を見た僕は今すぐにでも声をかけてあげたかった。大丈夫だって励まして背中をさすってあげたかった。

 だけど、僕はそうすることができなかった。いや、そうする資格がなかった。

 死という本物の恐怖と戦ってきた人と、平凡な、むしろ怠惰した人生を送ってきた人間とでは味わってきたものが違う。

 何も知らない奴が苦しんでいる人間に何を言っても、それは励ましなんて優しいものにはならず、同情という鋭利な刃になって追い打ちをかけるように苦しむ人の心に刺さる。僕はそのことをよく知っているからこそ、無責任に言葉をかけることができなかった。

 この時、下を向いた視界の隅に見える花楓の姿はすぐ近くにあるはずなのに、僕の目にはずっと遠くにあるように見えた。

「ごめん………」

 そして、僕がやっとの思いで見つけられたのは謝罪の言葉だった。

「なんで夏奈慧くんが謝るの、何も悪いことしてないのに」

 花楓はそれを聞くと僕の言葉を否定し、続けて自虐的に笑った。

「ほんとひどい話だよね。勝手に面倒なことに引き込んでみたり、そうかと思ったら突き放してみたり………ほんと、馬鹿みたい………」

 親のこと、自分のこと、小説への思い、将来への恐怖。彼女の表情や声の一つ一つには、今まで彼女が抱いてきた苦悩を彷彿させるものがあった。

 だが、それでも僕は奥歯を噛みしめて、花楓が見せるその姿を、伝わってくるその音を、ただずっと受け止め続けるだけのつもりだった。

 しかし、この時の僕の目には僕の助けを望んでいる少女の姿が確かに映っていた。

「僕はそう思わないよ。面倒なこととか馬鹿みたいなことだなんて」

 そして花楓の想いに触れた僕は、深く呼吸をしてずっと高鳴っている鼓動をゆっくり鎮めると、大切そうに間を作って落ち着いた声でそう言った。


 ***   ***


「ねえ、先生何してるの?」

「これ?」

「うん」

「これはね、お話を書いているんだよ。ある男の子とある女の子の物語」

「物語?」

「そうだよ。小説ともいうね」

「小説………面白そう!僕も小説書く」

「あはは、いいと思うよ。夏奈慧くんならきっと凄いのが書けるよ………ただ、もうちょっと大人になってからかな」

「先生、これはなんて読むの?」

「それは私のペンネーム。春風芽吹希って読むの」

「ペンネーム?」

「そう、わかりやすく言うと、もう一つの私の名前」

「ふーん………はるかぜめぶき………なんかかっこいいね」

「そう?じゃあ忘れないで覚えてて」

「うん」


 ***   ***


「………先生………ちゃんと覚えていましたよ」

 僕はポケットから取り出したスマホに、ある本の表紙絵を表示させると沈黙の中でそう呟いた。そしてそれを花楓の方へ向け、涙でいっぱいの瞳に画面を見せた。

「どうして………わかったの………?」

 花楓はそれを見た途端、驚きのあまり泣いていることを忘れたみたいに目を丸くした。

 僕が花楓に見せたもの、それは春風芽吹希というペンネームの作家が書いた小説本の画像だった。

「教えてもらったんだ。ずっと昔、それこそ花楓がまだこの名前を名乗ってない頃に」

「どういうこと………?」

「先生だよ。小学校の時、先生の小説のノートに書いてあるのを見つけて、それが何なのか聞いたんだ」

「ああ………そういうことか。………お母さん、今になって厚かましいことを残してくれちゃって」

 花楓は少し下を向いて、どこか嬉しそうに先生を罵るとまた瞳を潤わせた。

「名画座に行った日、あのポスターの前で止まったのはそういうわけだったんだね」

「うん、そう。まさかあそこで自分のものに会うとは思ってなくて、急なことだったら見た瞬間に固まっちゃってさ」

 僕が今になってようやく理解できた、彼女の不思議な行動のわけについて確認をとると、花楓はわざと笑って照れを隠し、頷いた。しかし、僕がそれに釣られず表情を和らげないでいると、花楓はすぐにその笑みを崩して、自分の抱いている感情に見合った表情をした。

「ごめん、今まで気付いてあげられなくて」

「ううん、今気付いてくれただけでも嬉しいし、凄いよ。普通の人じゃ気付けないもん………」

 会話が一順すると、さっきまで聞こえてなかった花火の音がまた大きく響き始めた。

「………実はさ、僕も花楓に言わなきゃいけないことがあるんだ」

 僕は意を決するとその音にかき消されるか、辛うじてかき消されないかの声でまた話を始めた。

 だが、口を開いた後で何かが喉にひっかかり、僕にそれ以上どう切り出せばいいかわからなくさせた。その何かとは恐怖や拒絶によく似た感情だった。

「大丈夫、私知ってるから」

 そして僕が間投詞を並べて間を凌いでいると、何も知らないはずの花楓が物知り顔に言い、さらに僕を困惑させた。

「知ってるって………何を?」

「共感覚のことでしょう」

 喉の栓が消えて僕が聞くと、彼女は口に手を当ててくすくすと笑った後で、平然と驚くことを言った。

「えっ………なんで………?」

 僕は冗談を言っているのだろうと思っていた花楓が自分の言おうとしていたことをずばり言い当てたことで、前にもここで味わったことのある気味の悪さを感じた。

「お互い、信頼してる人のことを見誤ってたみたいだね」

 すると花楓がまた面白そうに笑っていった。僕は花楓の言葉の意味を数秒かけて理解すると、ある人物を頭の中に思い浮かべてはっとなった。

「もしかして………」

「わかった?」

「奈央の仕業か………」

 僕がそう呟くと花楓は優しく口角を上げ、正解。と続けた。

「なるほどね。だから事情も知らないあいつが、真夜中に僕の家の前で張ってるわけだ」

「ああ、奈央くん本当にあの後、会いに行ってくれたんだ。優しいんだね」

 僕は疑問に思っていた点同士が繋がったことで納得し、次会った時に彼をどうしてやろうかと考えを巡らせた。

「それで、いつ失くなったの?」

「夏休みが始まる前。正確に言うと二学期の期末テスト初日だったかな」

「そういえば結果悪かったんだってね」

「それも奈央から?」

「うん、そうだよ」

 僕は思った以上に情報が漏洩されていることに呆れて、ため息をつきながら肩を落とした。そしてそれと同時に、張り詰めてない居心地の良い空気に入っていた力を抜き、密かに笑みを作った。

「じゃあ、あの小説を病室に持ってきた時にはもう無かったんだ」

 だが、その気の緩みは直後に花楓が放った言葉で再びきつく収縮し、額に脂汗をにじませた。

「ごめん、もう………あんなことはしないよ」

 僕は今、彼女が遠回しに指摘している契約違反を潔く認め、一度は夢見た未来を夢のまま終わらせる覚悟を決めた。

「え、書かないの?」

 すると花楓は自分で指摘をしておきながら不思議そうに首を傾げ、煽っているようにしか見えない態度をとった。

「書かないのって………書く意味ないでしょ」

「そうかな」

「そうだよ。花楓は共感覚のある僕をオファーした、だけど今の僕にはもうその力はない」

 僕は彼女の言葉の中に生じている矛盾が自分にとって得なことだと理解しながら、それを手離し、自分の決めた意志を貫こうとした。

「私は今でも夏奈慧くんには物語を作る才能があると思うよ………」

 だが、僕が何を言っても、花楓は支離滅裂なことを重ねることをやめず、僕の頭の中を真っ白にさせた。

「………それに」

 そして僕が思考を止めたまま少しの沈黙が続くと、今度は何かを匂わすように呟き、また空を見上げた。

「私は共感覚があるってだけで、夏奈慧くんを選んだわけじゃないから」

「え………?」


 ***   ***


「お母さん、これ見て」

「なに、どれどれ」

 小学校に上がって二ヶ月ほどが経った、ある週末の放課後。私はいつものように学校で書いた物語を机に向かっている母に見せた。

「すごいじゃん。うん、面白いよ」

 母はノートの物語を読むと、私の頭を撫で、優しく褒めてくれた。

 母はどれだけ忙しくても、私が声をかければちゃんと話を聞いてくれるし、ちゃんとそれに応えてくれる。だから私は母のことが好きだった。そして、母のことを尊敬していた。

 私が物語を書くようになったのは母の影響で、物語を書くイロハも母から教わった。

 そんな母が最近、ある教え子のことを私によく話してくるようになった。その子は私と同い年で、普通の人にはない不思議なものを持っている、そう母は言っていた。


 ***   ***


「私はその生徒の話を聞くたびに、彼がどんな人なのか、もっと知りたくなった。今思えば、顔も声も知らない、でも母が気にかけているその人のことを、私はいつからか好きになってたんだと思う」

 花楓が自分の過去を語っている間、僕は彼女の口から飛び出してくる一言一言に囚われ、予想だにしない驚愕から彼女を見つめたまま目を丸くしていた。

「それって………」

「うん………、夏奈慧くんのこと」

 花楓の本当の気持ちに触れたこの瞬間、僕の中に今まで感じてきたどの感情とも違う色の波が押し寄せてきた。そして僕を飲み込むとしぶきを上げながら真っ白だった頭の中をその色、一色に染めあげた。

「初めて会った時、夏奈慧くんを夏奈慧くんだとわかったのも、カラコンとか共感覚のことを見破ったのも、全部初めから知ってたからできたの」

「で、でも、初めて会った時、花楓は僕の顔を知らなかったんでしょ。それなら、なんで僕が先生の言っていたその人だとわかったの?」

 僕が自我を保つために揚げ足をとるようなことを言うと、花楓は黙り込んで下を向いた。

「………わかるよ。だって十年間、ずっと片想いしてきたんだから」

 そして頬を赤らめながら、そう呟くと彼女の手がこちらへさりげなく伸ばされ、怖気付いていた僕の手を引き寄せた。

「今までずっと怖かった。私には小説しかないから、それを失いたくなかった。死ぬ準備ができちゃうから、渡したくなかった」

「渡す?」

「そう。私はね、自分が持っているものを私より有効活用できる人に残したいの。遺産みたいに」

 花楓は苦笑いをして自分の感情をその影に隠すと、僕から顔を背けながら徐々に表情を落としていった。

「夏奈慧くんはその条件に当てはまってる。悔しいけど、夏奈慧くんは私なんかよりずっと素質があるよ」

 横から見える彼女の瞳には悲愴の雫が溢れんばかりに溜まっていた。

「花楓が望むなら渡せばいいし、嫌なら渡さなくていいんだよ。どうするかは花楓次第であって他人がどうこう言うことじゃない。だから花楓が決めたことなら、それがどんな道でも僕は尊重する」

 自分の口から流れた言葉は、居心地の悪い空気を振動させ、重くのしかかるように頭の奥に響いた。そして鮮やかな色で胸の中に花開いたかと思わせると、後に儚い寂寥感を残し消えていった。

 遠くで鳴っている花火の音は激しさを増し、さっきまでより多くの色で彩られた火花が複雑に入り混じって夜空を照らした。

「………ずるな、夏奈慧くんは………そんなこと言われたら、もう覚悟決めるしかないじゃん………。………私はどのみち、そう長くない。だったらせめて、私がいた証だけは生き続けてほしい」

 花楓はいっぱいになった涙を頬に流すと、さっきと違う種類の笑顔を作り、自分自身の思いを確認するように呟いた。

「だから………夏奈慧くん、改めて言うね」

 そして僕の名前を呼ぶと、繋いでいた手を離してその場に立ち上がり、こちらを振り返った。

「私の生きる意味を………あなたに授けます」

 目の前にたたずむ彼女の姿は、さっきまでとは違ってとても嬉しそうで、生気にあふれていた。

「春風芽吹希、私がお母さんからもらったもう一つの名前。今度は夏奈慧くんが使ってあげて」

「………ごめん」

 僕は彼女の出した答えに自分の強要を感じ、思わず謝った。

「夏奈慧くん、謝ってばっかり」

「そうだね………ごめん………」

「ふふふっ………いいよ。これで、いつ死んでも悔いが残らなくなったから」

 花楓は言うまでもなく辛いはずなのに、それを逆に都合の良いことだと無理に思い込んで、自分ではなく僕の心にかかる負担を減らそうとしてきた。本来僕がするはずの役目を花楓にさせている、僕はその状況に無性に怒りを覚えた。

「花楓………」

 そして立ち上がりながら彼女の名前を呼ぶと、その身体をゆっくりと抱きしめた。

「一度だけでいいから、花楓の本当の気持ちを教えて」

 僕が頭上で囁くと花楓は初め、僕の胸元に顔をうずめたまま固まったように動かなかった。

 浴衣の上から触れる彼女の背中は少しばかり前より細く弱々しくなっていて、本人の言う通り今にも消えてしまいそうだった。だから僕は怖くなった。

「今日が最後じゃないよね………?」

 依然として黙り込んでいる花楓の様子は、次第に僕の声に不安を帯びさせ、治まりかけていた動悸を再び起こした。

「この丘はさ、僕が先生といた最後の場所なんだ。今日と同じように花火の上がってる夏祭りの夜だった。十年も前のことだけど、今でもはっきり覚えてる」

 だが、僕は敢えてその症候を解消しようとはせず、むしろ油を注ぐことを言った。

「まだ一緒に………いられるよね………?」

 意図的に増悪した不安は、どこか苦衷に似たものがあった。そしてその感情は僕の傷んだ心に重くのしかかり、呼吸ができないような痛苦を生んだ。

 僕は彼女の姿に遠い過去の記憶を重ねながら、もう一度聞き直した。しかし、花楓は再び下を向いて僕の胸にもたれるばかりで、何の反応も示さなかった。

「僕はもう、誰も失いたくないんだ………だから、花楓………思ってることを言って」

 その沈黙から彼女の心の内を感じとった僕は、切実な思いでそう言うと、彼女の後ろに回した腕に少し力を入れた。

「………死にたくない………死にたくないよ、夏奈慧くん………」

 それからさらに数秒後、花楓は僕の首筋に掌を伸ばし、僕以外の誰にも届かない声で初めて内に隠していた心中を零した。

「私を………助けて………」

 うなじに触れる花楓の手は夏夜の気温よりずっと冷たく、温もりとはかけ離れた温度をしていた。しかし、僕はなぜかそこに命の存在を強く感じた。

「僕のために生きて………僕を………花楓の生きる意味にして」

 そして、溢れるように自然と湧き出た声は、自分でも驚くほど震えていて、花火の音に打ち消されそうなほど小さかった。

「それって………プロポーズ?」

 僕が無意識を口にすると、それに対して花楓が無理に戯けた反応を見せ、予想外なことを聞いてきた。

「え………?」

 発した言葉が意図しない方向へ解釈されたことで僕は戸惑い、思わず彼女に聞き返した。

 花楓は上を見上げて僕の表情を見ると意地悪そうに、それでいて嬉しそうに笑った。

「やっぱり綺麗だね」

 そして右手の指先で僕の前髪をかき分けると、瞳を覗くように視線を合わせてそう言った。

 良好になった視界の中に映る花楓の表情は、さっきと変わらず確かに笑顔だった。しかし、僕がそこから感じ取れたのはどこか儚く、寂しそうな感情だけだった。

 僕は次第にそんな花楓の表情を見ているのが辛くなり、目を閉じながら背中を曲げて、花楓の首筋に顔を寄せた。

「僕がきっと………花楓を幸せにする」

「ふふふっ………じゃあ末長くとはいかないけど、よろしくお願いします」

 真っ暗な視界の中に聞こえた声にはまだ暗い感情が残っていたが、同時に生きる意志も強く感じられた。

 花楓との約束が交わされたその数秒後、最後を飾る一際大きな炎が花開いた。続いて花火の終わりを意味する二発の破裂音が鳴り、夜空に闇が戻った。


 人生とは何か。人は何のために生きているか。

 僕は子どもながらに、この人類が長らく向き合ってきた哲学の題材に立ち向かい、その結果自分を見失った。

 人間はふとしたことで呆気なく死ぬ。だから人に生きる意味なんてない。目的なんて必要ない。

 それなりの地位と生活に困らないだけのお金、雨風を凌げる家と温度のある食事。それがあれば良い。あとは健康で平凡な日々を送り、過去や未来に縛られず、今日を生きる。そうして人生を安全に、確実に終えられれば幸せになれる。

 十七年間でたどり着いた僕の人生観は、誰が何と言おうと結局覆ることはなかった。そしてこれからも覆されることはない。そう思っていた。

 だが、その人生観は覆された。


 この日、無意味だったはずの僕の人生に意味が生まれた。

 彼女のことを幸せにする。彼女のために物語を書く。

 それが僕の………僕が今日を生きる意味だ。



『今から行くね』

 夏休み最終日の朝十時頃、数日ぶりに何かを受信したスマホの画面には奈央からのメールが表示されていた。

 メールの通知に気づいた僕は寝不足のせいで重くなっている瞼を強引に開けると、身体を引きずってベッドから這い出た。

 母はいつも通り既に出勤したようで、家の中に僕以外の人の姿はなかった。

 洗面所に行き、まだ眠気が取れ切れてない顔を洗って気を引き締める。僕は水のかかった前髪の隙間から、代わり映えしない瞳が覗くと密かに微笑み、流しっぱなしにしていた蛇口を閉めた。

 そして寝乱れた髪をある程度なおすと、目の色を変えないまま自室に戻り、服を着替えた。

「ピンポーン」

 すると着替え終えたと同時にインターホンが鳴り、数日ぶりの奈央の来宅を知らせた。

「おはよう、久しぶり」

「うん、おはよう」

 僕達は少し辿々しく言葉を交わし、いつも通りリビングに向かった。コップを二つ用意して適当な飲み物を注ぐとその一つを奈央に渡し、テレビ画面の前に座る。

 今日の居心地の良い空間はいつもと違い、どこか閑散としていて、肌にまとわりつくような侘しさがあった。

「何………しようか」

 しばらくの間、画面の前で意味のない沈黙が続くと、それに耐えかねた奈央がまたぎこちなく口を開いた。

「ゲームしかないかな。宿題はもう終わってるし」

 それに対して僕は平然そうにぼやきながら、テレビ画面の右手にある小さな棚を開け、本数の少ないゲームを漁った。

「面白そうなのある?」

「ない………ね。ゲーム系はずっと、俊太頼みだったから」

「そうだよね」

「奈央が好きなやつ選んでいいよ」

 僕はそう言って棚の傍を離れると、入れ替わるように奈央を誘導してゲームソフトを物色させた。そして、奈央は気に入ったソフトをハードディスクに入れると、二人分のコントローラーを持って僕の隣に戻ってきた。

「やっぱり俊太がいないと静かだね」

「うん………」

 僕は侘しげに笑う奈央からコントローラーを受け取ると、すぐにはゲームを始めずにしばらくの間、下を向いたまま意味もなくボタンをいじっていた。

 するとそれから少しして、テレビのスピーカーからゲームの音が流れ始めた。

「そういえば、結局奈央は大学のオーキャン行ってきたの?」

「行ってきたよ。去年も行ったからこれといったものはないけど、やっぱり入るならあの大学がいいかな」

 ゲームを始めて間もなく、僕達は手を動かしながらいつものように会話を交わし、近況を報告し合った。

「そっか。まあ、奈央なら入れると思うよ」

「うん、僕も自分に関してならそこまで心配はしてない。けど………」

「問題は俊太だよね」

「そうなんだよね。本当に狙う気なのかな」

 だが、話がデリケートな話題に触れると、動き始めたばかりのゲームキャラが一体、途端に停止してその後ピクリとも動かなくなった。

「俊太、一人で大丈夫かな………」

 僕がそれに気づいて操作していた奈央の方を向くと、彼は不安そうな顔で母親なんかが口にしそうなセリフを言った。ただ、奈央の作った深刻そうな面持ちが、放たれた言葉から冗談らしさを取り除き、その後には重々しさだけを残した。

「そこまで心配しなくても、きっと平気だよ。ああいう性格だから崖っぷちに立たされて、むしろやる気出してるよ」

「………そう…だよね。ああいう性格だもんね」

 しかし、僕が納得のいく口実を並べると、奈央は短い沈黙を続けてからそれを飲み込み、冗談交じりに笑って見せた。

「そう、ああいう性格だから」

 僕はその笑顔につられるように冗談を繋げ、この場にいるはずだった人間の代役として部屋の空気を和ませた。

 その甲斐もあって、止まっていたテレビ画面は再び上下左右に忙しなく動き始め、周囲に本来の温度を取り戻した。

「夏奈慧の方はどう、小説はあれから進んでる?」

 すると奈央は話が一順しても、その会話の流れを止めないために新しい話題を振ってきた。

「うーん、まあまあかな」

「そっか」

 僕がコントローラーを動かしながら頭を働かせずに答えると、彼はそれと同じくらい適当に返事をした。

「ねえ、読ませてよ」

「嫌だよ。まだ完成もしてないし」

「いいじゃん。ね、ちょっとだけ」

「………わかったよ」

「やった」

 僕は奈央との言い合いの結果、小説を彼に見せる羽目になった。そして、コントローラーを置いて喜ぶ奈央を横目で見ながら立ち上がると、食卓の上に置いていたノートを持ち上げて、それを彼に渡した。

「春風………ねえ、これなんて読むの?」

 すると、奈央はノートの最初のページに書かれた文字を見て、その読み方がわからず僕に聞いてきた。

「え、ああ。それはね………」

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