画廊荒らし
小林犬郎
第一章
絵描きのみを生業にすることの厳しさを遅まきながら認めたので、大学時代の友人をあてに美大受験の予備校で講師をすることになった。
大学時代に応募したコンクールでいくつか入選した絵があり、そのうちのどれかがある老夫婦の目に止まったらしい。彼らのうち絵を飾るのが好きな方が私の作風を気に入ってくれたようで、部屋の景色に飽きたタイミングで絵を買ってくれるようになった。さらに良いことに、似たような趣味を持つ仲間に私の絵を広めてくれて、ときどきはその中から買い手がつくようにもなった。予備校に勤めることになるまでは、ほぼ彼らに養われるように生きていた。
彼らとの関係が終わったのは、老夫婦のうち絵が好きな方が亡くなったからである。それを知ったのは、彼らの家に絵を届けに行ったときだった。梱包材を切らしてしまい、さらにそれを買いに行く店が知らないうちに閉まっていたりして、届けに上がるのが予定より数日遅れていた。ようやく老夫婦の屋敷の前まで着くと、庭先に家具やら何やらが値札をぶら下げて広がっているのを見た。その中に二千円とか三千円とかの札がつけられた私の絵もあり、大きな絵ほど高かった。しばらく立ち尽くしていると熱心に文机を吟味している痩せた男が目に入った。すると俄かに私の絵が、誰の目にも止まっていないように思えてしまったのだ。今までの情熱を否定されたような気持ちになり、結局屋敷の誰とも口を聞かぬまま引き返してしまった。届けるべきだった絵はどうすることもできずに仕舞ってあるが、未だ段ボールに入ったままである。
このとき縁側に夫人が佇んでいるのを見て、絵が好きだったのは亭主の方だったと知った。夫人は気立てが良く活発なタイプなのに対して亭主の方は寡黙だった。電話で話すのも、絵を掛ける場所を指定していたのも夫人だった。それに彼女はときどきお茶会に誘ってくれたりもした。夫人はよく私から美学についての話を熱心に聞き出そうとしていたから、彼女ばかりが私の絵を好いているものだと思い込んでいた。
老夫婦の仲間たちにもどういうわけだかそれ以来絵は売れなくなった。どちらかというと夫人の方の仲間たちだったのだろうか。
誰に話してもそうだが、こういう終わり方を説明するとこれのみが印象的になってしまい気が沈んでしまうので、彼らとのやり取りの中で真に感銘を受けたことというのも併せて必ず紹介するようにしている。
馬に乗り草原を駆ける女性の絵を老夫婦に売ったとき、この絵について夫人と議論したことがある。私はこの女性の向かう消失点に、人それぞれ何を見出すか気になっていた。しかし夫人はこの女性が何から逃げているのかを気にしていた。それともう一つ、私は馬に乗る姿からこの女性の強さや決意を表現したかったのだが、夫人はこの馬の生命としての暖かみを強く感じ取り、この女性の抱える潜在的な寂しさを見出した。自分で描いておきながら、この絵について夫人から学んだことは多かった。
つまり芸術というのは一度放たれると完全に作り手から独立できるということである。創作というのは自己表現というよりもむしろ子を成すということに近いのかもしれない。以来、この価値観は常に私の多くを占めている。
話を戻す。元々彼ら相手の商売に留まっていたし、彼らにさえ絵が売れない月もあったから生活は決して楽ではなかった。だから予備校で働けるようになったのは素直に嬉しかった。金銭の面でもそうだが何より嬉しかったのは、形は違えどやはり絵を描くことを求められたことだ。
予備校は画材屋の斜向かいにある雑居ビルの二階と三階を占めている。この画材屋にはよく行っていたから、予備校がどこのビルにあるかまでなら、かねてより知っていた。雑居ビルの外装は排ガスが沈着したり塗装が剥げたりしていて、不本意な灰色にくたびれていた。かたや予備校の内装は清潔な白色と木目調に整えられていて、いかにも飾らない風を飾っているような感じだから初めて来たときは参ってしまったが、慣れるのも早かった。
ここで私は日本画志望の鉛筆デッサンと水彩の授業を受け持つことになった。仕事は楽だった。授業開始より早く来て準備し、時間きっちりに授業をして、それが終わると残って講評を書いたりした。家から歩いて行ける範囲にあったし、馴染の画材屋も近かったから面倒は少なかった。ただし雑居ビルの階段はいつも薄暗くて急なので、大きなキャンバスを何枚も買ってしまうと高々三階までだとしてもギシギシいうエレベーターに乗らなければいけないのは不便だった。
この予備校での上司に当たる川村という男はとても親切にしてくれた。大学時代の経験則から絵描きは存外気性が荒いものと心得ているので、こういう人は珍しいのだと思う。歳は四十だが、それより上に思わせる雰囲気がある。黒々とした短髪はうねっていて、額は少し広くなっていた。どこか寂しそうな垂れ目を丸眼鏡ごしに覗かせていて、これが広い肩幅とは対照的だった。彼は仕事の指導や講師室の人間関係にいたるまでとても気を配ってくれていた。ただ、私はこの穏やかな男を恐れていた。人格の裏側を不必要に勘ぐったわけではなく、ただこの人を万が一にも怒らせたとしたら、私は自分の非を認めざるを得なくなるからである。
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