赤い目と赤い月

 骨の折れる片付け作業を一人で終わらせて。

 もう午後一時も過ぎたころ、私はようやく下山することができた。

 太陽が厚い雲に覆われているといっても、夏の暑さは容赦なく、蒸し風呂のような熱気が襲う。

 そのせいで、私は額だけでなく至る所から汗を流しながら、愛しの我が家を目指して歩いていた。

 鈍色の空からは、いつ雨が降り出してもおかしくない。火照った体を冷ましたいから、むしろ小雨なら降ってくれてもありがたいくらいだ。


「……あ」


 そこで、ポツリと。

 一滴の雨粒が、確かに私の頬に落ちた。

 まだ、ほとんど気が付かない程度ではあるけれど。

 雨雲からは少しずつ、雨が降り始めているようだ。

 ゆっくり歩いていっても、服が濡れて透けないうちには帰れるかな。

 流石にこの天気で出歩く人は、そう多くないとは思うのだが。

 目算を誤って濡れ鼠になったとしたら、下着が透けて見えるのは恥ずかしいな。

 ……などと考えていると、いきなり目の前に通行人の姿を見つけた。

 その人も雨のせいで、慌てて帰るところなのかもしれないと思ったのだが、人影はどうも背が低い。

 見た目からして、どうやら子どものようだ。

 女の子……盈虧園の生徒だろうか?

 私の視線に気付いたのか、女の子の足がピタリが止まる。

 そして、ゆっくりとこちらを振り向く。


 ――え?


 彼女のことは知っていた。

 玄人が、よく気にしていたからだ。

 河野理魚。

 精神に疾患を持ち、喋ることもままならない少女。

 玄人が永射さんの死体を発見するきっかけとなった少女……。

 理魚ちゃんは、まるで夢遊病者のように力無く立ち尽くし、表情の消えた顔をこちらへと向けている。

 そして、その目が。

 真っ赤に、充血していた。


「ひっ……」


 クラスメイトの豹変した姿に、私は思わず声を漏らしてしまう。

 だって、あんなに赤い目がこちらを見つめていたら、恐怖心が湧いても仕方ないじゃないか。

 理魚ちゃんの双眸は、白目の部分が完全に赤く染まり。

 にも関わらず彼女は、それを気に留める様子もなく呆然とこちらを見つめているのだ。

 少女は黙して語らない。まるで私の向こうに何かを見ているかのよう。


「ねえ――」


 意を決して、声を掛けようとしたタイミングで。

 少女はまた、ふらりと身を翻して私に背を向け、彷徨うように去っていく。

 そう。最初から私など、眼中になかったようだ。

 あの子が見たかったのは、私でない別の何かだった……。


「……ルナティック……」


 あの赤い目に、私はふとその言葉が浮かんだ。

 熱病に侵されたような、虚な瞳。濁ったその黒目の外側は、ある意味美しいまでに赤く染まり。

 彼女の目で見た景色は一体どのようになっているのだろうかと考えたところで、私は恐ろしくなった。


 ――もしかして。


 それこそが、赤い満月へと至るのだろうか、と。

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