Sixth Chapter...7/24
盈虧院
仁科龍美。
私がその名前を貰ったのは、今から六年ほど前のこと。
もう記憶も朧気ではあるけれど、確かその日は雲一つない快晴だった。
憶えているのは、両親の笑顔。
それから、手を差し伸べたときの、優しい言葉。
――一緒に行こう、タツミ。
私は上手く事情を呑み込めないままだったけれど、それでも……その手を掴もう、と思ったのだ。
運命的な出会いだった。
……私は、いわゆる孤児だった。
物心ついたときから親などおらず、実家ではなく児童養護施設にその身を置いていて。
それが当たり前だという認識の下に生きてきたのだ。
実に十年間。
小学校四年生になるまで、私は児童養護施設暮らしだった。
当時の私は多分、アイちゃんと呼ばれていたはずだ。
学校に通ったりする都合上、苗字もあったはずだが、それは忘れた。
ちなみに名前は児童養護施設の職員が便宜上付けたものだから、生まれた瞬間に実の両親が何と名付けたのかは私も知らない。
本当の名前というものがあったかどうかも、分からない。
とにかく私は不要とされ、一度捨てられた存在だった。
私の身柄を保護したのは、盈虧院という名称の、民間の児童養護施設だった。
何でも、都内では比較的規模の大きい施設だったらしい。
そこには数百人以上もの、身寄りのない子供たちが暮らしていて。
また、都内だけでなく全国に同じ名称の施設が展開されているようだった。
公的機関でなく、民間で運営されている施設では、その環境に難があるところも多いのでは、と感じる人もいるだろう。
けれど、盈虧院は特段環境が良くないわけでもなかった。
基本的にはきっと、他の施設とそう変わりのない、子どもが普通に生活できるだけの環境は整った場所だった。
だから私は、少なくともただ生きる分には困ったことなどなかった。
盈虧院で掲げられていたのは、人生の苦楽。つまり、生きていれば楽しいことも苦しいこともある。それを糧として成長できる子どもになってほしい、というもの。
盈虧……つまり月の満ち欠けを冠する児童養護施設らしいスローガンだと、後になって私は思ったものだ。
しかし、たとえ住環境が問題ないものだとしても、孤児にとっての障害となるのは無論それだけではない。
内部ではなく、外部の環境。それもまた重要なファクターだ。
親無き子。同じ施設に通う他の子は、学校でそう揶揄されることがほとんど全員と言ってよかったし、私も当然ながら例外ではなかった。
小学校の一年目から、私は執拗な嫌がらせを受けた。
筆記用具を盗まれたり、上靴に石を入れられたり。
小学生が思いつく程度の単純ないじめなわけだが、やはり幼心には酷く堪えるものだ。
すぐに私は体調を崩し、週に一度は学校を休むようになった。
こんなとき、相談できる相手がいればいいのだが、親代わりである盈虧院の職員を頼ることはできなかった。何故なら、盈虧院は対外的なことに関して深く干渉しない方針をとっていたからだ。
要するに、人間関係は自分で何とかする。それも施設が掲げる、人生の苦楽だからということだった。
そういうわけで、基本的には施設内の子ども同士で日々の苦しみを慰め合うことが多かった。食事や入浴以外はほとんどが自由時間だったので、談話室に集まって、その日に自分がされたことを誰かに話し、その誰かが一緒に怒ってくれる。そんな感じで、何とか毎日をやり過ごしていったのだ。
大人になるまで、こんな日が続くのだろうか。私も他の子どもたちも皆、半ばその未来を覚悟しながら生きていた。事実、実親の元へ戻る子どもや養子縁組を結んでもらう子どもなど、一割にも満たなかった。
まさか私が一握りの幸運を掴めるとは、思いもしていなかった。
仁科家は、溺愛していた一人娘を不幸にも交通事故で亡くしていた。
仁科竜美。二人にとって彼女はまさに、目に入れても痛くない宝物というべき存在だった。
不運が重なった上での玉突き事故で、誰が悪いのかも分からない最悪の結末。二人は取れるだけの賠償金を各人から取ったものの、元々お金など欲しくもなかったし、娘を失った喪失感もまるで晴れることなどなかった。
竜美を亡くしてからの毎日は、恐ろしく空虚なものだったという。
何のために仕事をしているのか。何のために家事をしているのか。果ては何のために生きているのか。そう思い詰めるまでになってしまった二人は、これでは竜美も悲しむからと、無理やり意識を変えようとした。
二人きりの時間をもっと有意義に使おうと、ショッピングをしたり、散歩をしたり。
けれど、そこで子どもの姿を見る度に、竜美のことを考えてしまって苦しんだそうだ。
どうすればいいのか。二人が絶望の淵に立たされていたそのとき。
下校途中の私の姿が、二人の目に止まったのだ。
そう、本当にどういう巡り合わせなのか。
私の姿は、仁科竜美にそっくりだったわけだ。
二人は、誘われるように私の後を尾行した。
後になって思えば、不審者に間違えられても不思議ではなかったそうな。
とにかく、そうして二人は私が孤児であることを理解し。
ほとんど即決で、私を養子にしようと決めたのだった。
――一緒に行こう、タツミ。
私にとっては、まさに青天の霹靂だ。
知らない人たちが、知らない名前で私を呼び、手を差し伸べたのだから。
けれども私は、彼らの笑顔を目にして。
最終的に、その手を取ることを決意したのである。
そして私は、アイちゃんから仁科龍美になった。
私のオリジナル――お姉ちゃんの竜美と、一文字だけ違う名前。
私はそれを理解したときから、二人が……お父さんとお母さんが求めることもまた、理解した。
だから私はひたすらに、お姉ちゃんに近付こうと努力するようになったのだ。
これが、私という存在のこれまで。
私が龍美になるまでの、昔話。
そうして私は、必死で灰色の日々を駆け抜け。
その中で静香という親友を見つけ。
そして、あまりにも呆気なく。
全てを喪って、この満生台へとやって来ることになったのだ――。
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