第38話 選ばれた勇者でなくとも、君が望むなら
がら空きになったアリスの胴に魔王の拳が叩きつけられる。骨の砕ける音がして、アリスはボールのように床を跳ねた。半ばから刀身を失った刀を取りこぼし、無様に這いつくばる。咳に血が混じる。激痛で意識が飛びそうになる。もはや立つことすらできなかった。
「アリス! しっかりして!」
シェーラが駆け寄る。
「シェ……ラ、にげ、て」
そこへ紫光の奔流が襲いかかった。
彼女は光壁を前面に作り、真っ向から受け止める。壁に亀裂は入らない。防ぐことはできている。だが、少しずつ押されていた。勢いを殺しきることができない。
「お願い! 止まって!」
じりじりと下がっていく。これ以上後退すればアリスを庇えなくなる。
シェーラの叫びを嘲笑うかのように紫光の軌道が下に逸れた。床が爆発し、二人は吹き飛ばされる。
シェーラが咄嗟の機転で光の膜を作り、破片自体は防いだものの、すでに満身創痍の二人にとっては床に叩きつけられるだけでも決定打となり得る。
アリスは指一本すら動かすこともままならない状態で、床を這ってシェーラの下にたどり着く。
「シェー、ラ」
呼びかけると彼女はうっすらと瞼を開いた。
「ごめ、ん……さい。わた、しの……せい……ア、リ……」
「違う。シェーラのせいじゃ、ないよ。僕が、選んだんだ」
彼女は目を潤ませ、目尻から綺麗な涙を流す。
「あり、が……。アリス……であえ、て……よかっ……うっ」
苦痛に顔を歪める彼女の頬に手を伸ばして、そっと触れた。
「僕もだよ。僕にとって、シェーラこそ、勇者だった」
くすぐったそうにシェーラは目を細める。
「わたし、に……とって、も……」
シェーラが手を伸ばす。だが、途中で痛みのせいか動きを止めた。だからアリスは彼女の手を迎えに行って握りしめる。
息を整えてから、シェーラがニッコリと笑った。
「アリスは私の……私だけの勇者、だから」
幸せだと思った。このまま死ぬことができたなら、幸福な人生だったと胸を張って言える。
世界を救うことはできなかった。
この世にたった一人しかいない大切な人を死なせてしまう。
それでも心が満たされていく。
「さいご、まで……いっしょ、に……」
――ああ、君と死ねるなら、もうなにも要らない。
これ以上のことはなにもない。
だからこそ、アリスは全身に力を込めて、立ち上がろうとする。
何度も失敗して床に額をぶつける。割れたところから血が流れ出すのを感じながら、それでもようやく片腕をついた。
「アリ、ス……?」
不安げな表情が胸をチクリと刺す。
「ごめん、シェーラ。君にだけは生きていてほしいんだ」
かつてアレックスに聞いたことがある。戦うことが怖くないのかと。痛みに負けそうになることはないのかと。強大な相手と戦う使命を背負い、辛くないのかと。逃げようと思わないのかと。膝を突いて楽になろうと思わないのかと。
彼は笑いながら言った。
「怖いに決まってる。辛いに決まってる。痛くて痛くて、死んだ方がマシだと思ったことなんて数え切れやしない。でもさ、みんなが望んでくれるから。勝てって願ってくれるから。身体の底から勇気が湧いてくる。頑張ろうって思える。だから俺は何度だって、歯を食いしばって立ち上がれるんだ」
ようやく、アリスは理解した。
誰をも救う勇者になれないことは初めからわかっていた。
それでも諦めずに手を伸ばしたのは、きっと。
誰かを救うことならできると思ったから。
なりたかったのは勇者じゃない。
ほしかったのは万人からの羨望でも期待でもない。
ただ、誰かに必要とされる存在でありたかった。
たった一人でよかったのだ。
気づくのが遅すぎた。
それでもまだ、終わってはいないから。
だからアリスは立ち上がる。
「……ごめん、アレックス。君の期待には応えられないみたいだ。僕はそんな大層な人間じゃないから」
あとは頼むと言ってくれた、かつての戦友への懺悔の言葉。
転がっている折れた刀を手に取って、口端を吊り上げる。
「でもさ……。だから、僕は戦うよ。何度だって立ち上がってみせるよ。どんなに惨めでも、這いつくばってでも――」
他の誰でもないシェーラが、自分だけの勇者だと言ってくれたから。必要としてくれたから。
「――僕は魔王を倒すよ」
勇者とは魔王を倒す者だ。自分たちが憧れた勇者は、そういうものだった。
願いはできるだけ叶える。それがこの旅のルールだ。
――アリスなら大丈夫。きっとできるさ。
それは過去の記憶か。はたまた幻聴か。
鎖の断ち切れる音が鳴った。風切り音とともに、アリスの足元にアレックスの聖剣が突き刺さる。
アリスは迷いなく柄に手をかけ、剣を抜いた。その瞬間、身体の奥底から力が湧いてくるのを感じた。しかし、それはすぐに暴風のように荒れ狂う。制御しきれなくて身体が引き裂かれそうになる。
アリスは選ばれた勇者ではない。本来なら、この聖剣を引き抜くことすらできないはずだ。その無理を通しているのだから、代償があってもおかしくはない。
力が弾けそうになった瞬間、声が聞こえた。耳に届いた。
「アリスなら大丈夫。絶対に、絶対にできるわ!」
かすれた声で、しかし力強さを込めた声で、シェーラが叫ぶ。痛いはずなのに、苦しいはずなのに、彼女はアリスのために微笑む。
「ありがとう、シェーラ」
あれほど暴れ回っていた力が急に鎮まった。それも光の巫女の力なのかはわからない。そんなことはどうでもよかった。
今なら、なんだってできる気がした。
魔王を倒すことだって。世界を救うことだって。
だからこそ、アリスはただ一人のためだけにこの剣を振るう。
「瞬劫――
時間の流れとは道を歩き続けるようなものだ。幾本もの道があり、進むことができるのはたった一つだけ。ならばそれは過程であり選択だ。一つひとつの過程が、選択が、時間というものを形作っている。
加速がその道を縮め、誰よりも先に到達することであるならば。その極致である瞬劫の本質は、過程を飛ばして選択の結果だけを得ることにある。
未来にあるいくつもの結果の中から、たった一つを今に重ねる究極の聖法。かつてその境地に至った者は遙か昔に一人だけ。彼は勇者となり、当時の魔王を討ち果たした。
アリスはそこに至れる器ではない。
だが、揺るがぬ決意を胸に聖剣を手にした今、この瞬間だけ。
アリスはそこに至った。
得たい結果はただ一つ。
刹那、魔王の胸部が切り裂かれ、血が噴き出した。
『馬鹿な……』
腕が宙を舞い、額の目が潰れ、足が折れる。魔王の身体に次々と傷が刻まれていく。
だが、瞬劫はそんな都合のいい聖法ではない。
未来の結果がアリスの身体にも及ぶ。吐血し、腕が折れ、脇腹が穿たれる。どれも致命傷にはならないものを選んでいるにもかかわらずこの有様だ。
どちらかが死ぬまで続く削り合い。
そうして、アリスは最後の結果を選び取る。
「終わりだ」
魔王の首が裂け、大量の血がまき散らされる。崩れ落ちた魔王。だが、その瞳に諦念は浮かんでいない。最後の力を振り絞るように、紫光を手に平に出現させる。
『貴様らも道連れだ』
放たれた禍々しい光は、しかし、清廉なる光によって阻まれる。
『おのれえええええええええ』
シェーラもまた死力を尽くして光壁を作り出した。それが魔王の攻撃を完全に防ぎきる。
『我が、我が、負けるのか』
魔王の敗北に、臣下たちが一斉に動き出す。
だが、すでに決着はついていた。
「ああ、僕たちの勝利だ」
瞬劫で加速したアリスが魔王の頭部を貫いた。
目を見開いたままの魔王の身体が崩れ落ち、動かなくなる。その瞬間、この場にいたすべての悪魔が塵となって消えた。
「これ、は……」
不思議そうに瞼を瞬かせるシェーラ。
「たぶん魔法だよ。おそらくは三年前の内乱で誰も信じなくなったんだろう。だから自分の死と同時に臣下も死ぬような魔法をかけていたんだ。そうすれば首を狙ってくるやつはいなくなるか、ら…………」
「アリス!?」
シェーラの声が遠ざかる。床に倒れたのはわかったが、痛みは感じなかった。瞼が重くて、目を開けていられない。
ようやく終わったのだという安堵とともに、アリスは意識を手放した。
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