第17話 夜這いを目撃

 物音がした。瞼を開けると部屋は真っ暗だった。感覚的には一時間ほど眠っていた。


 音は廊下から聞こえてきた。それはゆっくりとこちらに近づいてくる。


 廊下の突き当たりがシェーラの部屋で、その手前がアリスの部屋だ。この部屋の前を通り過ぎようものなら問答無用で切り捨てる。たとえマリアであったとしてもだ。今、シェーラに近づくやからは敵だ。


 果たして、足音はアリスの部屋の前で止まった。ゆっくりと扉が開かれる。その瞬間にほのかに甘い香りが鼻孔を抜けた。


 アリスは息を殺して扉の裏に隠れた。


 足音は部屋の中へ踏み入った。音を殺そうとしているから、真っ当な用事でないだろう。


 漆黒に解ける長い黒髪がベッドへ真っ直ぐに進む。


「え……」


 アリスがベッドにいないことに気づいたのだろう。彼女は声を上げた。


 すかさず彼女の背後を取って首に刀を突きつける。悲鳴を漏らしかけた彼女の口を塞ぎ、耳元に囁きかける。


「なにをしているんですか? マリアさん」


 抵抗する素振りはなく、彼女は小さく首を横に振った。大声を出さないように念押ししてから口を解放してやる。


「お、お願い。殺さないで」


「あなたが僕を殺そうとしていたんでしょう?」


「ご、誤解。私はただ、怖くて……」


 彼女の身体を一通り調べたが、武器の類いは所持していなかった。どうやら殺しに来たわけではないようだ。


「どうしてコソコソと?」


「それは……」


 言い淀む彼女の首に刃を当てる。動かなければ切れることはないが、脅しには十分だ。


「慰めてほしくて、その……夜這いを……」


「え?」


 思わぬ答えにアリスは呆けてしまう。


 マリアはその隙をついて刀から逃れると、アリスに抱きついた。


「ちょ、ちょっと」


「お願い。もう無理」


 薄着のせいで彼女の胸の感触が生々しく伝わってくる。シェーラより大きくて柔らかい。こちらの服の中へ手を入れて密着してくるマリアに、さすがのアリスも取り乱して刀を落としてしまった。そのままベッドに押し倒される。


「マ、マリアさん」


「ごめん。でも、今夜だけ。お願い」


 馬乗りになってきたマリアは蕩けた表情をしていて艶やかだった。


 アリスが上半身を起こして逃げようとすると、背中に足を回されがっちりホールドされてしまう。首筋を這う舌の感触がアリスの思考と抵抗する意思を鈍らせる。


「実はやる気満々だった?」


「ち、違いますから」


 止める間もなく彼女は上半身に纏っていた服を脱ぎ捨てる。夜闇の中でも浮かび上がる白い肌が艶めかしく扇情的に映った。耳に吹きかけられた熱を帯びた吐息が脳を痺れさせる。


 このままではまずいと肩を掴んで押し剥がそうとするが、簡単に払いのけられた。身体が思うように動かない。急接近してくる彼女の顔を辛うじてかわす。


「キスは嫌?」


「嫌というか、その……」


「気持ちよくなるよ?」


 それがまずいのだ。色欲に溺れれば身を滅ぼす。


 今この瞬間にシェーラが襲われたら、という危機感がアリスの理性をつなぎ止めていた。それももうすぐ限界を迎える。


 彼女の唇が首を這い、顎へ移り、そのまま口へと上がってくる。触れられた箇所から抗いがたい快感が襲ってきて、今にも身を委ねてしまいそうになる。


 ああ、これはもう駄目かもしれない。


 諦めかけたそのとき、願わない形で事態が動いた。


「アリス?」


 廊下から覗き込んでくる影が一つ。彼女と目が合って、すぐにその表情が強ばった。


「なに、しているの……?」


 それは問いかけではなかった。首を横に振る彼女はわかっていた。ただ、目の前の光景を認識することを拒んだだけだ。


「シェーラ、これはちが――」


「最低!」


 言うが早いか彼女は駆けだした。階段を下っていき、すぐに玄関の扉を開く音がした。


「馬鹿っ!」


 それはシェーラに対してでもあり、自分にも向けた言葉だった。


 マリアを力尽くで押しのけて、シェーラの後を追いかける。


 外では憲兵が見回りをしている。こんな時間に外を出歩けば反逆者として冤罪をかけられる可能性が高い。


 昼間に殺された献上品の少女を思い出すと、感情が制御できなかった。焦りが冷静さを失わせ、闇雲に街中を駆ける。あんな最後をシェーラには迎えてほしくなかった。


 道端に見覚えのある背中を見つけた。息を切らして壁にもたれかかっている。彼女の体力のなさが今はありがたかった。


「シェーラ」


 彼女は振り返ってこちらの存在を確かめると、走り出そうとした。だが、数歩進んだところで力尽きてしまい、しゃがみ込む。


 アリスは駆け寄って彼女の腕を掴んだ。


「放して」


「誤解だから」


「なにがよ」


「さっきの、その……」


 口にしづらくて言い淀む。それを見て明らかに不機嫌な表情で、シェーラが目を細めた。


「好きにしたらいいわ。アリスが誰とエ、エッ…………しようと、私には関係がないもの」


「じゃあ、どうして逃げたの」


「それは、その……」


 今度は彼女が言い淀んだ。口の中でゴニョゴニョとなにか言っているが、まったく聞こえない。落ち着きなく視線を右往左往させたかと思えば、なにか思いついたように目を見開いた。


「大事な仕事中にそういうことをするなんてあり得ないわ。そんな人を信用できるわけないじゃない」


 シェーラの言うことには一理ある。信頼関係というのはとても大切だ。運び屋は献上品の少女たちから信頼される立場にはないため、反抗されることが多々ある。今のシェーラのように逃げだそうとする者も中にはいた。


「でも、だからって外に逃げてどうするの。今がどういう状況かわかってる?」


「わ、わかってないのはアリスの方よ!」


「シェーラ、大きな声を出さないで。処刑されたいの?」


「うるさいうるさい! なによ、あんな女に現を抜かして! アリスと一緒にいるくらいなら、処刑された方が――むぐっ」


 アリスは彼女の口を押さえ、路地裏に引きずり込んだ。無造作に置かれている木箱の山の裏に身を隠し、息を潜める。逃げようと暴れる彼女を抱きしめるようにして身動きを封じた。


「しっ、憲兵が来る」


 それでシェーラはようやく動きを止めた。


 重い布を引きずるような音が近づいてくる。


『こっちから人の声が聞こえたぞ』


 木箱の陰から表通りを窺う。通りかかっている悪魔は身体中にいくつもの汚れた布を巻きつけている。顔だけは布で隠されておらず、落ちくぼんだ目は夜よりも深い闇を覗かせていた。


 その悪魔をアリスは知っていた。感覚がとても鈍く、特に視覚はないに等しい。音で周囲を認識しているが、聴力も悪いので距離が遠ざかると精度が低くなる。


 しかし、この程度の距離なら十分に認識できるようだ。悪魔はアリスたちの方へ進路を変えた。


 音を立てないようにジェスチャーで伝えると、シェーラは何度も頷いた。

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