タピオカの悲劇

@a5065478

第1話

「えー、そんなの無視しちゃえばいいじゃん」

「でも、それって後々怖くない?」

田んぼに囲まれた田舎の一本道を二人の女子高生が歩いている。二人の手にはタピオカミルクティー。2020年夏になっても、タピオカの人気はまだまだ落ちていなかった。

 そのうち「じゃ、また明日ね」と一人が畦道に逸れて行く。「じゃあねー」という後ろの声を聞きながらーー。

 家の近くまで来たところで、彼女ははたと立ち止まった。

「また買い食いなんかして」なんて小言を言われると面倒だな……。う〜ん、ちょっと良心が咎めるけど、まっ、いっか。

 おもむろにミルクティーだけ飲み切って、残ったタピオカを田んぼに流し込む。

「タピオカって澱粉の塊らしいから、害はないよね。案外、いい栄養かも」

容器はビニール袋に入れて鞄に突っ込んだ。明日どこかで捨てるつもりで。

「美味しいけど何故か全部は食べきれないんだよねー」

独り言を呟きながら、彼女は家に入っていった。



 愛する卵のもとに帰ってきたゲコ丸は明らかな違和感を口にした。

「なんか、卵めっちゃ増えてない?」

ツヤツヤでプリプリまん丸なおたまじゃくしの卵。それが出かける前よりずいぶんと多い。

「ゲコ美のやつ、また産んだのかなぁ」

最近いつ愛し合ったっけ? と記憶を辿りつつも、まあ子沢山はいいことだ、と一旦疑問を棚上げにして、卵たちを優しく撫ではじめた。

「おまえたち早く顔を見せてくれよー。父さんは楽しみにしてるからな」そう言うゲコ丸の顔は自然とほころんでいた。

 だが、そうしているうちに、彼はもうひとつの違和感に勘づいた。

…………なんか、甘い匂いがする。

その匂いが卵から漂っているらしいことに気づくのに、それほど時間はかからなかった。

 もちろん、実際には卵ではなく女子高生の捨てたタピオカから薫っていることなんて、彼には知る由もない。実は卵が増えたわけではなく、ゲコ丸とゲコ美の卵にタピオカが混ざってしまったのだった。

 ゲコ丸はひとつの卵を両手に抱えた。

(こんな匂いがするなんておかしい……。ひょっとしたら何か病気に罹っているのかもしれない。どうしよう……)

卵を心配する気持ちで心を痛める。しかし、それと同時に彼の中である好奇心が頭をもたげた。この甘い匂い、一体どんな味がするのだろう、と。

 いやいや、とゲコ丸は大きく頭を振った。

「まったく! 自分の食い意地が嫌になるよ。可愛い卵が美味しそうだなんて……」でも、と周りを見回す。ゲコ美はまだ帰って来そうにない。

(ちょっと舐めてみるくらいなら、いいよな……)

背徳感でゾクゾクしながら、それでいて卵と妻に申し訳ない気持ちを抱えてつつも、ペロリとゲコ丸は卵に舌を這わせた。

 ふわっと優しい甘味が鼻の奥に広がる。

 うわぁ、なんだコレ! すごく幸せな気分になるじゃないか! ペロリ、ペロリと何度も夢中で卵を舐め回す。止まらない! あぁ、スゴい……堪らない……。


「あなた……何してるの……?」

ゲコ美の声。いつの間にか彼女が戻ったことに、ゲコ丸は気づかなかった。顔面蒼白でゲコ丸を凝視し立ち尽くしている。

「い、いや! なんかさ、卵から甘い匂いがしたから、異常がないか、舐めて調べていたんだって!」

ゲコ丸は咄嗟に思いついた言い訳をまくしたてた。

「はあ? 何言ってんの?」語気を強めて彼女はさらに続けた。「舐めてみたところで卵の異常なんてわかる訳ないじゃない! 変な言い訳するんじゃないわよ!」

ゲコ美に責められたことで、一心不乱に卵を舐め回しているところを見られた気恥ずかしさが、ゲコ丸の中で一転して怒りに変わった。

「う、うるさい! 俺がなにをしようと俺の勝手だろ!」

「はぁ? 勝手なわけないでしょ! 大事な卵を食べようとしてるのかと思ったわよ! あんな気が狂ったみたいに舐め回して!」

「た、食べるだって? おまえ、俺が普段からどんなに卵たちを可愛がってるか……。ふざけんな!」

「ふざけんなはコッチよ! あー怖っ! 今すぐ卵から離れて!」

チッと舌打ちしながら、ゲコ丸は卵から離れた。

「よしよし、みんな怖かったね。本当お父さんおかしいよね。可哀想、可哀想」

ゲコ美はひとつずつ様子を確認しながら、愛おしそうに卵に頬擦りした。

「まったく、お父さん気持ち悪いよね。あんなのが父親でも、あなたたちは大丈夫よ。わたしがいっぱい愛情を注ぐからね」

ゲコ美はゲコ美で、さっきのゲコ丸の姿を見た時の驚きと恐怖が、その後のお粗末な言い訳で怒りに変わってしまっていた。わざとゲコ丸の神経を逆撫でするような言葉が、口をついて止まらない。

「ろくにご飯を持って帰らないし。あんなお父さんなら、いない方がマシよねー」

「ゲコ美! いい加減にしろよ!」

「別にあなたに言ってるんじゃなくて、子どもたちと話してるんだけど? 邪魔しないでくれる?」

「くそっ!」

正面から文句を言っても、口ではゲコ美に敵わない。

「あーあ、どうせ碌でもない父親だって言われるくらいなら、いっそのこと本当に卵を食ってやろうかなー」

ゲコ丸はゲコ美の気分を少しでも害してやりたい一心でそう言ってやった。

「あんなに甘い匂いがするんだから、味だって甘いのかもなー」

「!!」

一瞬にしてゲコ美の身体中の筋肉が強張る。そしてゆっくりと、近くにあった石を持ち上げた。

「卵に手を出すんなら、あんた殺すからね」

ゲコ美は怒りと恐怖でブルブルと震えていた。もちろん、ゲコ丸には卵を食べる気なんてさらさらない。でも、卵に危害を加えられるかもしれない状況を前にして、極度の緊張状態にあるゲコ美には、そんなことは思いもよらなかった。

 殺す、という言葉を耳にして、ゲコ丸はますます苛立った。

「こんなにいっぱいあるんだから、ちょっとくらい食ったってなんてことねえよ」

ふん、と鼻を鳴らすゲコ丸にゲコ美が襲いかかった。

「うわぁああ!!」

雄叫びとも悲鳴とも取れる叫び声。振り下ろされる石を、ゲコ丸は両手で防ぐ。

「このヒステリーが!! いっつも怒鳴り散らしやがって!!」

そのまま石を奪い取ると、それをゲコ美の脳天に叩きつけた。

「ぐえっ…………」

どさり、とゲコ美が崩れ落ちた。


 ざまあみろ、と思ったのはほんの一瞬。即座に深く真っ黒な後悔と恐怖が彼の周りを取り巻いた。

「あ……あっ! ゲコ美? ごめん! 大丈夫?」

ゲコ美の側に擦り寄り、恐る恐る彼女の身体に触れた。

「なあ、ゲコ美? なあ、大丈夫か? ゲコ美…………ゲコ美?」

ゲコ美はピクリとも動かない。即死だった。

 昼間の暑い大気とは異なる涼しい夕風が、田んぼの水面を波立たせ、そこに夏の強いオレンジ色の夕陽が当たり、キラキラと騒がしく、そして美しく二匹と卵たちとタピオカの頭上を輝かせていた。

 ゲコ美はたしかに気が強くて、ケンカになると簡単にヒステリーを起こす。でも、それでも普段は明るくて、卵にも自分にも愛情深い。心の底から妻にして良かったと思える雌カエルだ。本当のところ、卵よりもゲコ丸の方を深く愛している。

 ゲコ丸は水面を仰いだまま、じっと座り込んだ。側に横たわるゲコ美が視界に入らないように。


 それからしばらくして、彼は卵の方に向き直った。

「あ、そうだ……、卵を食べるんだった……」

頭がぼーっとして何も考えられない。ただ、「卵を食べる」というさっきの自分の言葉だけが思い出されていた。

 ひとつ卵を掴んで口に入れた。プリプリモチモチの食感とともに、その薫りから想像される通りの優しい甘味が口いっぱいに広がった。……ああ、美味しい。

 もぐもぐと食べているうちに、はじめはうっすら、次第にはっきりと、自分がとんでもないことをしていることに気がついた。でも、もう、なんだか頭がうまく回らない。食べるのを止めるということすら、思いつかない。

「あ゛あ゛あぁー、あ゛あ゛あああー!!」

ただもう悲しくて、消えたくて、何がなんだか訳がわからなくて。ゲコ丸は泣きながら卵を食べ続けた。

 最初のふたつは甘い味がした。みっつ目は生臭い、無理に良く言えばワイルドな味がした。

(卵には二種類の味があるんだな……)

そんなことを思っていた。

 丸一日経った頃には、ゲコ丸は全ての卵を食べ尽くしていた。

(美味しいなあ卵って。もっともっといっぱい食べたいなぁ)

最早ゲコ丸は正気を失っていた。

 ふらふらと立ち上がると、近所の若夫婦の住処に向かった。途中で手頃な石を拾い、「ゲコ丸さん、こんにちは」と挨拶した奥さんを殴り倒すと、突然の出来事に目を見開いている旦那にも襲いかかる。

「卵ぉ! 食べさせてよぉおおー!」

なんとか旦那を始末すると、彼らの卵の前に腰を落ち着けた。

「君たちはぁ、俺がしっかりと味わってあげるからね。ゲゲゲコ」



 その秋、例年に比べて田んぼの収穫量は少なかった。害虫のためだった。なんでも、理由はよくわからないが、害虫を食べてくれるはずのカエルが減少したから、らしい。

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