星空は記憶を纏って
雑務
星空は記憶を纏って
父とは、よくベランダで夜空を見上げていた。時折車のヘッドライトに目をしかめながら、決して綺麗とは言えない星たちの下で語り合うのだ。
天文学者である父は、あれが木星、あれが土星、あれが......、というふうに教えてくれた。生まれてすぐに母を亡くし、父も夜遅くにならないと帰ってこない家庭であったため、このひとときだけが僕の毎日の楽しみだった。
「月って、どれくらい遠いの?」
「うーん......もし休まずにひたすら歩き続けたら、10年かかるぞ」
「へー、思ったより近いんだね、でもまだいまいちピンとこないよ」
「うーん......地球10周分の距離って言ったらピンとくるかな?」
「地球10周ってすぐに歩ける?」
「人間が生まれてから死ぬまでに歩く距離が大体地球1周だから、人生10回分だな」
「えー、じゃあ月ってすごい遠いじゃん!」
「競歩の選手なら一度の人生で月まで行けるかもな」
「じゃあ将来は競歩の選手になって月まで行くね」
ある日、僕はあれがオリオン座、そしてあれがおうし座だと習いたての知識を父に披露した。褒めてくれると思った僕は、期待を込めながら父の顔を覗き込んだ。しかし父はため息をついてこうつぶやいた。
「お前には牡牛の形が見えているのか? だとしたらお前は星空の見方を勘違いしているな」
僕は負けじとこう言い返した。
「だってあの星とあの星とあの星を結ぶと、牛の顔の形になるよ、教科書にも書いてあったもん」
「星空はそんな単純な点の集まりじゃないんだぞ、お前に言ってもまだ理解できないだろうが、星空ていうのは空間じゃないんだ。宇宙のアトランダムな『時間』が布置しているんだ。それを点と線で結ぶような幼稚なことしていたら、いつまでたってもこの神秘の本質は掴めないぞ」
僕はぽかんと口を開け、ただただせわしなく開閉する父の口元を見つめるしかなかった。父は喋り終えると、口元に微笑みを取り戻して照れ笑いを浮かべた。星の話になるとつい熱くなる父は、小学生である僕相手に難しい話をしてしまうとき、申し訳なさからかいつもこうするのだった。
父の星に関する話はいつも魅力的だった。僕はこのとき、将来は天文学者かプラネタリアンになろうと決心した。
「いいか、星空は、いつだって現在と過去をつなぐんだ、、、、、、」
父の声と車のエンジン音がやがて夜空に溶け合っていき、僕は眠りの世界へ入っていった。
しかし、その夜が父との最後の思い出となってしまった。
その日の朝、大粒の雨が降っていた。父が小学校まで送ってくれることになったが、運悪く信号無視してきた軽トラックと衝突してしまった。ボンネット部分にぶつかっただけで、大した衝撃はなかった。だがガソリンに引火してしまったのか、瞬く間に炎が眼前まで襲ってきた。僕は、間一髪で近くのガソリンスタンドで働いていたおじさんに引っ張り出されて助かった。しかし、父と軽トラの運転手は、炎の濁流の中で苦しそうにもがくと、途端に凍りついたように動かなくなった。熱により車の窓ガラスが勢いよく割れると、車のヘッドライトをキラキラと反射し光の星屑が父を包む。消防車が視界を遮ると父の姿は見えなくなった。呆然と炎を見つめていた僕は何も考えることもできない。
気づいたら病院のベッドの上にいた。
僕は児童養護施設に預けられることとなった。僕は毎日、夜になると一人で星空を見上げていた。
「現在と過去をつなぐ......ってなんだろ......」
寝転んで星空を見上げ、じっくり考える。目を細めて星を見てみた。まぶたに星明かりがにじんで広がった。
そうとは言っても、決してさみしい思いをしているわけではなかった。施設主催でクリスマスパーティを楽しんだり、花見を満喫したり......。周りに溶け込み、特に問題も起こさず楽しんでいた。
しかし、ある夏の日キャンプファイヤーに参加したとき、過呼吸を起こして気を失ってしまった。炎だ。あの日のトラウマが蘇ったのだ。記憶が鮮明にフラッシュバックして、消化器官を焼き尽くされるかのようだ。
それ以来、調理用コンロやストーブでも胸騒ぎを感じるようになった。背後からジロジロと襲いかかる機会を窺う、目のような炎。父を奪ったその炎が憎い。
父への思いと炎への憎悪を募らせながらも、日々は淡々と過ぎていった。
僕は、近くのマンションのエレベーターに一人で乗る。10階まで上がった後、4階まで下がる。が、5階にまできたときそのマンションの住人が乗ってきてしまった。4階で降りるとき、とても訝しげな目でこちらをみていた。やり直しだ。階段で1階まで降りると、エレベーターで10階まで上がる。4階まで下がる。ドアが開くと同時にすぐに閉ボタンを押す。その後、全ての階のボタンを押した。その後、エレベーターは5階まで上がり、止まった。
「失敗かぁ......」
次に、ヒキガエルを捕まえてきた。生きたまま足を全て引きちぎる。喉が裏返ったかのような悲鳴がカエルから漏れる。これで作業がしやすくなる。安全ピンを頭にさして穴を開けると、そのままほじくり脳を引き出す。仕上げに水で洗い流し、平成31年の1円玉を頭に入れた。枕の下にそのカエルを入れ、寝転がる。ヨーグルトに納豆を入れてかき混ぜたような、エイリアンをシュレッダーにかけたような、万引き常習犯の半生を偏微分したような音が響く。そして、呟く。
「ヒキガエル様と一緒に時と僕の体を平成31年にヒキカエス」
どうにかして父の生きていた頃に戻りたかった僕は、ネットで様々な方法を調べていた。この他にも3つほど試したのだが、枕の裏に残った赤黒いシミを除いて成果は得られなかった。
図書館へ向かい、司書に尋ねる。タイムスリップしたいんですけど、何かいい本はありますか。若い女性の司書は親切に教えてくれた。この本なんかどうでしょう。『マンガで分かる! 相対性理論入門』。僕はそれを手に取る。現代にタイムスリップしてきたアインシュタインはかせが、小学4年生のソウタくんとイセイちゃんにやさしく教える内容だ。司書が僕の瞳をじっと見つめながら聞く。未来に行きたいの? 過去に行きたいの? おねえさんだったら未来かな。ムーンショット目標が実現した未来を見てみたいな。ムーンショット目標って知ってる? 人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現するための計画なんだけど、AIロボットを社会と調和させるんだ。サイバネティックアバターっていって、Society 5.0時代のサイバー・フィジカル空間で自由自在に活躍するロボットやアバターの整備も進めてるんだよ。それが実現したら司書なんて仕事なくなっちゃうのかな。どんな仕事が残るんだろう。ミュージシャンとか......作家さんとか......風俗も残るのかな。でも二次元にしか興味を持たないような人もいないみたいだしそれもわかんないね。あら、ごめんなさいね、こんな話しちゃって。
僕はその本と、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をバッグに入れて施設へと戻った。銀河鉄道の夜の表紙をめくり、テントウムシのように小さな文字を追いかける。ジョバンニとカムパネルラが銀河鉄道に乗り、旅をする物語だ。僕はいつのまにか引き込まれていった。幻想第四次を駆け巡る列車。何処へでもいけるのだ。過去にも未来にも異世界にも。しかしそのイメージはすぐに崩れて引きちぎられてバラバラになり、漢字とカタカナとひらがなへ戻ってしまう。
全て読み終わると、相対性理論の本を開いた。なるほど。時間の進みというものは、認知ができないだけで速くなったり遅くなったりしているらしい。この理論を利用すればタイムスリップができるのではないか。自分が早く動くほど、周りから見るとゆっくりに見えるらしい。『光ちゃん』が光速ロケットと競争しているイラストと共に説明されていた。分かったようで分からないような少しだけ理解できたような摩訶不思議な理論だ。
しかし『光ちゃん』が必死に疾走しているイラストからも分かるように、光にも速さがあるらしい。
これって......。
『いいか、星空は、いつだって現在と過去をつなぐんだ、、、、、、』
父の言葉がフラッシュバックする。
光にも速さがあるということは、ある星から地球に光が届くまでにタイムラグがある。つまり、地球に光が届く頃には、その光は過去の光となっているわけだ。星の過去の姿。過去の記憶。しかも、星によって地球からの距離は様々だ。ということは、星空には宇宙の様々な過去の記憶が散らばっているということになる。
父の言っていたことはこういうことだったのか......。
星空は、ただの平面的な点の集合体ではないんだ。時間的な奥行きが、星空の本質だ。これを認識できなかったとき、点と点を線で結び、決して見えやしない動物や人間を形作ってしまうのだ。
ある冬の日、僕は施設行事として大阪へ旅行することとなった。人生初の新幹線に乗り込む。時速300kmで走りだす。イヤホンでビートルズのHere Comes The Sunを聴きながら、窓の外を眺める。父が好んでいた曲だ。棚田で作物を収穫する人。つり下げられ、セミのようにくっつきビルの窓を拭く人、公園のブランコで立ち漕ぎする子供。僕は今、時速300kmで移動している。君たちとは異なった時間の流れの中にいるんだ。知ってるか? これが相対性理論だ。君たちより一足早く未来へ行くよ。とめどない優越感に満たされるが、これは旅行に浮かれているだけか。ふと、気づく。外でたたずむ人たちとの間にも、わずかに距離が存在する。隣で寝ている安倍くんとすら距離が存在する。彼らも「過去の姿」であるわけだ。見えている景色は全て過去のもの。そしてちょっぴり早い時間の流れ。時の壁は案外、簡単に飛び越えられるのかもしれない。
考えてみれば、意識するとしないとに関わらず様々な壁を普段から越えている。時速300kmによって、大阪までの遠さという壁をひょいと乗り越え、イヤホンによって思い出の壁を越える。時には越えたくない壁すら、越えてしまうかもしれない。現実世界では思いもしない事故によって、一気に運命が変わってしまうことがある。小説でも同じだ。いつでも伏線や前触れが描かれているとは限らない。小説は現実世界を模倣するものだ。急展開によって場面という壁を超えたっていい。
急ブレーキ。
「この新幹線に爆破物が仕掛けられたという情報が入ってきたため、急停止いたしました」
慌てた運転士の早口のアナウンスが響き渡る。
その瞬間、山と山が衝突したような轟音が響くと、地面が揺れた。前方車両から大量の人が流れ込む。
その瞬間、2回目の爆発音。気がつくとさっきまでそこにいた人たちは、人間とは呼べなくなっていた。よく見ると座席が一つ燃えている。一つ後ろの座席、また一つ後ろの座席へと、濁流のように炎が押し寄せてくる。僕は必死に後方へ逃げる。しかし、慌てて逃げる人たちによってぎゅうぎゅう詰めだ。身動きが取れない。炎にトラウマを持つ僕は、体をブルブルと震わせていた。視界が暗くなっていく。煙のせいだ。
「伏せろ!」
僕はある男性に背中を押され、地面に押し倒された。
「煙を吸い込んではいけない!」
その途端、目の前で人がバタバタと倒れていく。やがて僕の意識も薄れていき......
「先生、昨日は大変でしたね、まるで映画みたいな光景でしたね」
「そうだな、この子ももう長くないだろうな。こんなちっちゃいのに可哀想に......」
「もう助かる見込みはないんですか?」
「植物状態とはいえ、生きてること自体がもう奇跡的な状態だ。なんとか生きようともがいてるみたいだが......体力が尽きるまでだろうな」
「でも、まるで意識があるみたい......何かに立ち向かっていくような、こんな凛々しい顔......」
目の前には炎が燃え盛っていた。しかし、近づいていくことはできない。目の前全てが燃え尽き、全て灰になるとまた違う炎が現れ、また焼き尽くしていた。なんとかしてここから抜け出したい。しかしもう疲れてきた。眠りたい。僕まで消えてなくなりそうだ。
しかし炎の中、ようやく気付いた。そっか、これって......僕の記憶......?
炎の奥から、様々な記憶が蘇ってきた。父と過ごした時間。僕は意を決して、炎の中へと飛び込んでいった。やっぱりそうだ。炎を形成していた原子一つ一つが、僕の記憶となっていく。
表面しか見ていなかった僕は、形だけの炎に怯えていた。しかしこれは炎なんかじゃない。星の集まり。僕の記憶の集まり。僕そのものだ。
星空が広がっていく。いつのまにか、満天の星空の中に僕は浮かんでいた。僕そのものの思い出の中を漂っているのだ。記憶が均一に広がり、時間に縛られることなく、どの記憶も、過去も未来も自在に旅することができる空間。父とも会えるのだ。
涙が零れ落ちると、列車の形をした光となった。僕は、身体というものを持たなくなっていた。境界を持たない、概念としての意識。全てと同化する僕。父との思い出とも同化し、僕たちは今ジョバンニとカムパネルラとなっていた。銀河鉄道は僕たちをどこまでも連れていく。
星空は記憶を纏って 雑務 @PEG
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます