鈴鹿の山の、鬼姫さま

笠緖

伊勢国、鈴鹿山にて

 見上げた空はただ高く、はなだ色をいくつも重ねたような青がどこまでも広がっていた。

 白い雲はまるで平城の都に聳える五重の塔のように高く積み重なっており、すぅ、と吸い込んだ空気は深い深い森のにおいがした。

 頭上でくるりくるりと飛んでいるのは、鷹だろうか。

 大きな翼を広げ、自由に空を駆けるその姿は、大空の覇者と呼ぶにふさわしい。


「世が世なら、俺だって覇者と呼ばれていたかもしれないんだがなぁ~」


 坂上田村丸俊宗さかのうえたむらまるとしむねは、その厚い胸に吸い込んだ澄んだ空気を溜息として吐き出すと、ぽろりと情けない声を漏らした。

 坂上田村丸俊宗。

 かの征夷大将軍である坂上田村麻呂さかのうえたむらまろを輩出した家柄であり、自身はその数世代あとの子孫である。

 けれど元より子沢山だった田村麻呂の、さらにその子供の子供の――となれば、もはやその功績に関する何の恩恵も預かる事が出来ない傍系のひとりに成り下がる。そのくせ、征夷大将軍の家柄なのだと家名ばかりは大事にし続けたせいで、日頃全く省みてくれるわけでもない朝廷に、厄介事ばかりを押し付けられる便利な家と化した。

 此度も、伊勢と近江の国境にある鈴鹿山すずかやまで悪さをする「鬼」を退治して来い、等という全く有り難くない詔を頂戴し、いまに至る。


「大体、鬼退治って言ったってアンタ……、俺、生身の人間なんだけど? って話なんだよなぁ……」


 もっとも、「鬼」というのはあくまでも通称であり、その実、近隣で略奪を繰り返している盗賊で、その名を立烏帽子たてえぼしというらしい。いや、もしかしたらそれこそ数世代前の祖父である征夷大将軍どのならば、一刀の下に退治出来たのかもしれないが。


「つっても、あれだろ。じーさんは数万の大軍率いて討伐に行けたわけだろ? 片や俺、何の苛めか知らんがひとり……って、どういう事だ、それ」


 ――否。

 正確にはひとり、ではない。

 家の者を数人連れてきているが、日頃より鍛錬をしているわけではない面々である。元々朝廷に依頼をしたという者の屋敷へ行くはずが、慣れない山登りで迷い、真っ先に彼らが根を上げることとなった。

 一番体力に余裕がある田村丸が、こうしてくだんの屋敷を探して先陣を切っている状態だが、そもそも彼にしたところで、真夏の蒸し暑さの中、綿襖冑めんおうちゅうを着こんでおり、冗談にも余裕などといえる状況にはないのが本音である。


「は~、しっかしこの鈴鹿山ってのは随分険しいが、鬼なんて本当に住んでるのかねぇ……」


 鬼の気持ちなんてわかるわけでもないが、どうせならもっと楽な場所に住みたいと思うのではないだろうか。

 ぶつくさと文句を口にしながら獣道に似た細い道へと足音を落としていくと、突然開けた場所へ出くわした。サァァ、というせせらぎが鼓膜を擽る。どうやら沢に出てしまったようだ。


「ってことはこの先は間違いなく滝か……」


 引き返そう、としたその時――。

 沢の向こう側にひとりの女がいた。

 頭頂部に二つ、輪を作り髪を結いあげており、すらりと高い体躯に鮮やかな韓紅のあお(上衣)に萌黄色のを合わせ、その肩に薄紅色の領巾ひれを纏わせている。

 やや目尻に勢いがあるぱっちりとした双眸、す、と通った鼻筋。唇は両の口角が持ち上がっており、その肌は発光しているかのように白く美しい。

 都であっても、そうお目にかかれないほどの――否。とても人間ひととは思えないほどの美しい女が、そこに佇んでいる。


「――っ、お前、は……」


 カ、と全身に血が巡った。

 女は、一瞬驚いたようにその長い睫毛を上下させ、ふ、とその頬を持ち上げる。


「アンタこそ、だぁれ? この辺じゃ、見かけない顔」


 媚びるような高い声でもなく、かといって男の心を萎ませない程度に低くもない――絶妙な音域のその声音は、キラキラと光を弾く沢の上で弾むように周囲に溶けた。


「俺、は――」


 一歩、彼女の方へと足を進め、名乗ろうとした、その瞬間。


「若ーっ! 田村丸さまーっ! 屋敷の遣いだって人が、迎えに来てくれましたよーっ!」


 自身がいま歩いてきた道から、声がかけられた。田村丸の大きな肩が震え、肩越しに振り返れば、山道を家人が上ってくる姿が見える。

 田村丸は「あ、あぁ」と曖昧に返事を送ると、再び沢の向こう側へと視線を流した。すると女は、薄紅の領巾ひれをゆらりゆらりと舞わせながら、「田村丸」と呟く。


「あ、あぁ。俺の、名だ。坂上田村丸」

「……ふぅん?」


 女は興味があるのかないのか、どちらともつかない声で相槌を打つと、くるりと田村丸に背を向けた。ふわり、萌黄色の裙が、空気を孕み衣擦れの音を小さく立てる。


「ま、待ってくれ! お……君の名は? 教えてくれっ」

「……アタシの名前? なんで?」

「……君が、好きになったからだ」

「ぷっ、会ったばかりで、会話もろくにしてないのに?」

「顔に惚れた! 声に惚れた! 男が女に惚れる、それ以上の理由があるか?」

「アンタ、惚れっぽいにもほどがあるでしょ。悪ぅい女に騙されそう」

「君になら騙されてもいいかもな」

「あははっ、そ~お? でも、きっと後悔するわよ」


 くす、と三日月を唇に食みながら、女は手に持った領巾ひれを弄び、長い睫毛を田村丸へと向けてきた。


「アタシの名前は、立烏帽子」

「……は、」


 領巾ひれが女の手からするり、零れ落ちる。


「鈴鹿山の、鬼姫よ」


 形の良い唇が、常よりも持ち上がっているその口角をさらに吊り上げながら、呪いの言葉をささやくように呟いた。

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