エクストラエピソード

Ex1 ある日の佐藤兄弟1 直史の歪で純粋な恋愛

 メインストーリーはなろうで展開中です。

 ※時系列的には直史の高校二年の初夏ぐらい

 この話自体には官能描写などはありませんが、性被害や性犯罪について少しでもトラウマのある方にはお勧めしません。メインストーリーにはさほど関係ありません。


××××××




「兄貴、何か本貸して」

 遠慮なく襖を開いた武史は、座椅子にもたれかかって考え事をしている兄を見つけた。

 いや、そう見えただけで、どうやらうたた寝していたらしい。

 兄は家で勉強をしていても、眠くなったらすぐ寝てしまう。眠いというのは集中力の限界だからだそうだ。だから短期睡眠を摂って、また勉強をする。

 長いだけの勉強はするなと、武史も以前に言われた。兄のアドバイスは少ないが的確だ。

「何がいい? 続きか?」

「いや、マンガじゃなくて、単発の面白い小説。娯楽色が強くて、重くないの」

「そうは言っても……そういう系統の本は最近、瑞希さんのお勧めに偏ってるからなあ」


 そんなことを言いながらも、直史は本棚を探す。

 この兄は本を読む時、必ず紙の本を読む。

 電子書籍だと手に感じる重さが足りないそうだ。

 文庫版もハードカバーも読むので、それは単なる重量の話ではないのだろう。


「これなんかどうだ? 俺は個人的に好みのやつ『駿河城御前試合』」

「時代劇? 誰が出てくるの?」

「ああ、戦国とかじゃないととっかかりが難しいのか。じゃこれは? 瑞希さんにも好評だった」

「……『さみしさの周波数』ね。この人ってホラー書いてなかった?」

「作風が二つに分かれてるんだよ。俺はどっちも好きだけど、女の子にはこちらが向いてるかなって思った」

「感動系は今の気分じゃないんだよなあ」

「難しいこと言うね、お前」




 そう言いながらも直史は『イン・ザ・プール』を差し出した。

「短編連作だし、次の巻で直木賞取ってるから、外れない。こういうのも読むんだよなあ」

 その言い方だとまるで――。

「これも瑞希さん?」

「ああ、ちょっと意外なものも読むんだなって思った。誰かにお勧めしようとして自分でも買ったんだけど、あんまり暇がなかったな」

 野球で忙しい兄だが、その中でも勉強を欠かさない。

 キャパオーバーをしそうだと傍から見ると心配なのだが、優先順位はしっかりしている。


「やっぱ勉強が一番で、野球が二番なの?」

 二番目に頑張る野球で、甲子園の全国制覇を目指しているのだから、傲慢と言えば傲慢である。

 ただ兄にしてみれば、負けたら仕方がない、程度であるそうだ。

「いや、勉強が二番で野球は三番」

「すると一番は?」

「女」

 あまりにも意外な返答に、武史は絶句する。

 いや、意外ではないのか。断言するのが意外だったのだ。

「瑞希さん、だよね?」

「他にいないだろ?」


 武史はしばし考えこんだ。

 この兄が、野球で甲子園に行って、勉強も頑張って現役で国公立狙って、それよりも重視するという少女。

 冷静に考えれば、ドン引きするぐらい愛が重い。

「じゃあ瑞希さんがいれば、他はどうでもいいの?」

「そんなわけないだろ」

 全く平静さを失わない声で、直史は否定した。

「愛する伴侶がいて、それとの生活を支えるための仕事を得る。そのための勉強は必要だ。弁護士というか法曹の国家試験を取るのは、最悪他の資格で関連会社とかに入って、そこから勉強をしてもいいしな。本来弁護士は、そうやってなる人も多いんだ」

 調べれば調べるほど、弁護士になるというのは難しい。昔はさらに難しかったのだが、今でも難関資格には変わりない。

「じゃあ野球はいらないじゃん」

「そこが俺のわがままだな」

 直史は珍しく苦い顔をした。




「瑞希さんは東京の大学、基本は東大を目指していて、おそらく地元を離れるんだ。その後のことを考えても、その選択が正しい。ただ俺が東大に入るのは、かなり難しい上に下宿や生活費で金がかかるだろ」

「……どうにか通えなくなくもない?」

「それをすると、瑞希さんと会う時間が減る。それに変な虫が付くのを避けたい。通学に使う時間も大変だ」

 まるで既に、彼女が自分のものであるかのような直史の言葉である。

 このあたり兄は本当に、業の深い人間だ。

「でもそれで、野球が何につながるのさ」

「いい成績を収めて、推薦の特待生で私学の有名校に入る。学費無料の寮費無料でな。まあそこでも野球はしないといけないだろうけど、それは条件交渉次第だな」

「……」


 武史は真剣に呆れていた。

 ジンも野球で食べていこうとしている人間だが、この兄は野球を単に利用手段として考えている。

 おそらく他の全国の球児たちが、必死で甲子園に行こうとしているのに、直史は単にそれを、自分の付加価値としか考えていない。

 今までの成績や、武史自身の目から見ても、兄の才能というか能力は、全国でも屈指の部類に入るだろう。

 手を上げさえすれば、プロにも進路が開かれるはずだ。しかしそれに全く価値を見出していない。


「もういっそのこと、プロでやるってのは? 星野とか山本みたいに、兄貴より遅かったり、ちょっとだけ速い球速の投手でも、大成功してるじゃん」

「タケ、俺は野球は好きだけど、それに人生を捧げるほどじゃない」

 ここははっきりと断言する。

「瑞希さんは試験後、そのままお父さんの事務所に入るか、知り合いのところで働くだろ。もし俺がプロになったとしたら、最初は寮に入らないといけない。そして旅から旅への連続だし、在京球団だったらともかく地方球団なら、本当に遠距離恋愛になる」

「あの人はそれでも待ってくれると思うけど」

「俺の都合に彼女の人生を合わせるのは、在京球団までが限界だな。というかそれ以上に俺が耐えられない」

 あんたがかよ、と武史は内心でつっこんだ。


 直史はかすかな笑みを浮かべながら語った。

「俺は野球は好きだけど、プロでやっていけるとは思わない。何よりモチベーションが足りない。高校までとか大学までならともかく、一生を捧げる気にはなれないんだ。とてもプロで長くは出来ないし、その後の生活を考えると、やっぱり大学までだな」

 だけどこの兄は草野球に借り出されても、楽しんでプレイしそうではある。

 ……甲子園のノーノー投手の出る草野球など、虐殺レベルの結果になりそうではあるが。

「まあ分かったけどさ、兄貴って結局、もう瑞希さんと付き合ってるの?」

 付き合ってなくても家に招待している時点で、かなり意識はそちらに向いていると思うのだが。

「付き合ってないな」

「なんで付き合わないんだよ? 両想い……だよな?」


 女心は分からないと言われるものだが、さすがに武史の目から見ても、瑞希が直史に好意を抱いていることは明らかなのだ。

「俺は好きだし、瑞希さんも好きでいてくれるのは間違いないと思うんだけど、その好きの内容がなあ……」

 深く溜め息をつく直史は、珍しく悩んでいる。

 自分のことなら悩まないのに、他人のことでは悩むのだ、この兄は。

「女の子は、特にあの年齢の子は、かなり複雑な内面をしてると思うんだ。瑞希さんは割りと分かりやすい方に見えるけど、軽い気持ちで付き合ったりするような子じゃないはずなんで、難しい」

「それは確かに。兄貴も色々と考えてるんだな」

「出来ればあちらが告白してくるか、告白も同然な状況にしたいんだよ」

「珍しく弱気と言うか、打算的だな」

 佐藤直史は告らせたいのか。

 何事も能動的に動くのが、本来なら直史の基本だ。先んずれば制すの精神である。

「だって好きになった時点で、俺は負けてるからな。向こうから告白させて、ようやく対等だ」

「そ……うかなあ……?」

 正直兄が慎重すぎなのではないかと思う武史である。


 そんな困った真情を吐露しながらも、直史は少し笑っていた。

「でもこういうのって、楽しくもあるんだよな。近付いて、絡み付いて、絶対に逃げられないようにしてから捕まえる」

「なんかそれ、ちょっと兄貴っぽくない」

 なんだかんだ言っても、基本的に直史は誠実な人間のはずだ。特に好意を抱く相手に対しては。

 性的嗜好は確かにそれっぽいが。

「だってお前、単に告白して付き合ってって、そんな展開じゃもったいないだろ」

「何がもったいないんだよ」

 素直に好きだと伝えることは、おそらく悪いことではないはずだ。瑞希もそういうのを好むタイプに思えるのだが。

「俺は瑞希さんだからこうしたいんであって、他の相手だったらどうでもいいんだ。そういう相手に出会えたんだから、全力で色々と段階を踏んでいくのは当然だろ?」

 違う気がする武史である。




 まあ、方向性はぶっ飛んでいるが、直史が彼なりに真剣であるのは間違いない。

 このかなりめんどくさい真剣さが、ちゃんと相手に伝わればいいと思う武史である。

「でも正直、自分の理想の女の子が自分を好きでいてくれる状態って、すっごく色々したくならない?」

 別にそこまでの相手でもしたくなるのが武史なので、そのあたりの際どいことも聞いてみたい。

「もちろん、ものすごくしたい。ノーマルなこととかから始まって激しいのに体を慣らして、マニアックなことまで出来るだけ試したい」

「……」

 なんでこの兄はものすごく誠実な表情で、ここまで己の性欲を語れるのだろう。やはり尋常ではない。


 絶句する武史に対して、直史は論理立てて説明する。

「だけどな、タケ。何事も慎重に運んだ方がいいことがあるだろ。おそらく瑞希さんは処女だろうし」

「……」

 またも絶句する武史であった。まあ、確かに、彼女はそうだろう。別に彼女に対して恋心を抱いているわけでもない武史だが、彼女がそうでないとしたら、何かすごく裏切られたような気になると思う。

 これは単に、童貞の幼稚な拗らせ方にすぎないのだが。

「そうでない可能性は少ないし、処女だと仮定するなら、ちゃんと手順を踏む必要はあるだろ。俺は彼女に素晴らしい体験をしてほしいわけであるから、ガツガツいくのは避けるべきだ」

「……まあ初めては痛いって言ってたな」

 赤裸々なクラスの女子の中にはそう言っている者もいたし、だいたいのエロ系媒体でもそうである。

「最初から気持ちいいなんて、手塚さんの持って来るエロゲの中のファンタジーだけのはずだ。まあよっぽど小さかったりしたら別だけど、下手したら男の方だって痛いしな」

「え、マジ?」

 それは初めて知る武史である。


 ん、と声を整えて直史は説明を始めた。

「男って普通は最初包茎だろ? それが成長して勃起を繰り返すことによって、徐々に剥けていくわけだ。お前がもう完全に剥けているかは問わないけれど、まだ半剥けなら今のうちに剥いとけ。難しいなら手術する必要があるかもしれないしな」

 余計なお世話だと思う武史は、既にちゃんと剥けている。だが兄の話はためになる。

 やはり、さすがは兄貴である。

「んで剥け切ってない仮性包茎な場合、あまり準備の出来ていない女性器に突っ込むと、これが擦れてすんげー痛い」

「なんか実体験みたいに言うな」

「実体験だ。それで――」

「ちょ、ちょっと待った!」

 武史は聞き逃せなかった。

「兄貴、経験あったのか!?」

 少なくとも武史の知る限りでは、直史がちゃんと誰かと付き合っていた記憶はない。




 直史は普通の顔をしていたが、かと言ってそのまま流して説明するということもなかった。

 軽く息を吐いたが、その後に続いた言葉は平坦な響きであった。

「別に俺が童貞を奪われたことは、この際重要じゃないんだけど」

「奪われたってことは年上? あ、兄貴そういえば年上の女の人に気に入られること多かったよな。あれか?」

 特に交友関係を考えずとも、普通に直史は親戚のお姉さんから可愛がられる傾向にある。いや、年下からも慕われているので、年上ウケするとも言えないのだが。

 小さい頃はそれこそ、女の子みたいに可愛いとよく言われていた。


 いや、と武史は思い直す。

 直史は親戚の少女たちにも、妙に丁寧に、どこか一線を引いていたが、あれは最初からだったろうか。

 男だけの場では、妙に女嫌いのような言動をしていなかったか。

「……ちなみに兄貴の初体験っていつ?」

 恐々と聞く武史に、少し直史は考え込んだ。

「幼稚園の年長組の時だったな。同じ園の子のお姉さんだか親戚だかが相手だった。でもあの頃ってまだ本当に小さかったから、ちゃんと相手の中に入ってたのか、実は微妙なんだけど。間違いなく精通前だったし」


「……」

 またも絶句した武史は、どうにか声を絞り出した。

「それって、明らかに犯罪だよな?」

「まあな。でもあの時はそんなこと全然分からなかったからな。別にトラウマにもなってないし」

「その、でも入れてない可能性もあるんだよな?」

「それはな。でも小学二年生の時のは、間違いなく入ってたからなあ」

「……」


 兄はおかしい。

 武史はたびたびそう思うことがあるが、この時ほど本気でそう思ったのは初めてだった。

「それも、年上の?」

「ああ。あの時はわざわざ勃起してるの確認してから入れてたから、そっちは間違いない」

「……俺の知ってる人かよ」

「それはお前に知る権利はない」

 武史の頭の中に、近所に住む、あるいは住んでいた少女たちの顔が思い浮かぶ。

 わざわざ直史が名を隠したということは、おそらくそういうことなのだ。


 吐き気がする。


「気にするな。実はさらにその後にもう一度あったことだしな。当時の俺はお医者さんごっこみたいで恥ずかしいと思ってたぐらいで、本当に全く分かってなかったんだ。小学五年生でようやく意味が分かったけど、驚いただけで別に悲しくもなかったしな」

 武史はようやく分かった。

 兄はおかしいのではなく、強いのでもなく、鈍感なのでもない。

 ただ、壊れているのだ。

「本当に、気にしなくていいんだぞ。女の人でも言えるけど、周囲が気を遣いすぎるのは、セカンドレイプって言ってかえって相手を傷つけるからな」

「マジかよ……。ちょっと、さすがに、重いわ」

 頭を振る武史の肩を、ぽんぽんと直史は叩いた。

「むしろ中学生の頃は、周囲の童貞をナチュラルに見下してたからな。ただ困ったのは、三年の時に女の子とちょっといい感じになった時、上手く出来なかったことだ」

 まだあるのか。

「ぶっちゃけ勃たなくなってたんだよ」


 分かる気がする。

 武史には、もちろんそんな経験はないが、幼少時にレイプ被害に遭った女性が、男性恐怖症になるのと似ているのではないだろうか。

「まあ俺の性癖の一部にもなってるけどな。基本拘束系が好きだし。でもレイプ物は無理だし。そんでAVだと女がリアルすぎて、やっぱりダメなんだよな」

 兄のそういったエロ系物品は、グラビアに偏っている。

 単に音の出るそういったものを避けているのかと思っていたが、もっと深刻な理由があった。


 そういえば不思議に思ったのだが、兄の持っているネタには、大人びた容姿の女性のものは少なかった。

 むしろ幼いような感じが好みらしくて、妹を持つ男はあまりそういう傾向がないらしいので、かすかではあるが不思議に思ったものだ。

「今も、ダメなのか?」

「いや、それが面白いことにな」

 そこで直史は本当に、心の底からそう思っているのであろう笑みを浮かべた。

「最初俺は、彼女をそういう対象に全く見てなかったんだ。初対面の時からすごく綺麗な子だなって思ってたけど、本当に全く性欲の対象じゃなかった。それがいつだったかな……ああ、夏に負けた試合の後少ししてからだな」

 直史は告白した。


「彼女のことを想像しないと勃たなくなってたんだ」


 それはひどい言葉であったが、同時に切実で誠実であるのも分かった。分かりたくはなかったが。

「つまり彼女は俺に対して何もせず意思すら持たず、自分じゃないと反応しないように調教したってことかな。言葉にするとひどいけど、すごいことだ」

 素直に感心している直史の方が、すごいと思う武史である。

「まあそんなわけで、俺は少しずつ準備はしてる。ある程度は状況によるけど、今年の秋ぐらいには、想いが通じ合って、彼女に捧げてもらって、俺も応えたい。そして幸せな気分にしてあげたい。皮算用だけどな」

 笑っていいのか、それとも哀れむべきなのか。だが兄は哀れまれても何も思わないだろう。

 あれに比べたらなんでもない。

 そんな経験を持っているからこそ、この兄は強く見えたのだ。

「それに精通前がセーフなら、俺はやっぱり童貞だし。けど、童貞にだって価値はあると思うぞ。将来本当に好きになった相手の時のためにさっさと経験しておくのもありかもしれないけど、お互い初めて同士で頑張る方が、俺的には好みだな」

「なんか……研究してる学者みたいなこと言ってるな」

「研究だけじゃない。実際のところ、多分体の相性も凄くいいんだ。手をこう……握っただけで、向こうもこう……説明しづらいな」

 なんつーエロいこと言うのだ、この兄は。




 今、兄は笑っている。笑えている。

 過去を気にしていないと兄は言っているし、実際に本人にとっては重要でないのだろう。

 だが明らかに、その人格形成に影響を与えている。


 佐倉瑞希という少女に、武史は心の底から感謝した。

 そしてどうか、二人が幸せに結ばれて欲しいと願った。

 どれだけ歪であろうと、兄は彼女の幸せのために、最大の努力をするだろう。


 兄は瑞希に対して、単に躊躇しているのでも、機会を伺っているのでもない。それは言葉の選択として間違っている。

 兄はただただ、彼女を大切にしているだけなのだ。


「それでまあ、ここまでつっこんだ話をしたのは、ちょっとお前のことも気になってな」

 俺、と思って武史の中で何かが跳ねた。


「イリヤ」


 少女の名前を、兄は口にした。

 あの、どこか骨ばった長身で、そばかすの浮いた、それでも美しい、異国の血を持つ少女。

 彼女が動くだけで、語るだけで、空気が変わる。

 彼女の異質さは、武史も気付いている。あの双子が気にしている人間が、普通であるはずはない。

「あの子……やばいだろ。セイバーさんも気にしてるけど、俺たちなら本当にどれだけやばいか、感覚で分かるよな」

 武史は無言で頷いた。


 伊藤伊里矢。誰もが彼女をイリヤと呼ぶ。男も女も、ごく普通に。

 教師達でさえ彼女をそう呼んでいるが、果たして気付いているのだろうか。

「幸いと言っていいのか、双子は彼女を……なんて言うのかな? 懐いてるわけじゃないけど、敵対してはいないし」

「……兄貴もツインズも、気にしすぎだよ。少し話したけど、彼女は、その、まあ女の子だ」

「そう思ってるのは、俺たちの中ではお前だけだ」


 彼女の逸話を、既に直史は聞いている。二年生の分、情報の回ってくるのが速かったのだろう。

「彼女のピアノを聞いて、泣いたり腰を抜かしたりした人間が何人もいる。それに桜と椿が合わせて歌ってしまったせいで、何人か気絶して救急車来てたよな」

 それは話半分に聞いていいことではない。救急車が来たのは事実だ。もっともそれは歌が精神に与えた影響が問題なのではなく、気絶して倒れた生徒が頭を打ったからだ。

「バンドのコンサートで気絶したり鼻血出したり、興奮しすぎて死ぬってのはたまに聞くよ。クラシックとかでも感受の鋭い子供が泣いちゃったりとかな。でも高校の音楽室のピアノでそんなことをする15歳がいる。双子がいたことを考えても……」

 直史は頭を振った。

「むしろ双子を歌わせるほどの引力を、その子は持ってるわけだな。それこそ本当に天才だ。いや、ここまでの影響力があると――」

 わずかに言葉を捜して、直史は言った。

「まるで魔女だ」


 おそらく直史の心配は杞憂ではない。

 何をしても何かを起こしてしまう。だから極力何もしてこなかった双子が、その力を一つの方向に向けたのだ。

 それを向けさせたことも含めて、イリヤの存在は尋常ではない。

「気をつけろよ。多分お前、あの子を……好きになるってのとはちょっと違うけど、人生が変わるほどの影響を受けるとは思う」

 兄としての口調で、直史は言った。

「双子の存在をよく知っている分、俺たちはむしろ引かれやすい。俺は少し免疫が出来てたからいいけど、お前はまだ心配だ」

「免疫ってなんだよ」

「まあ、良くも悪くも、経験だな」

 肩をすくめた兄に、武史は笑った。

「気をつけるよ」


 立ち去った弟に聞こえない声で、直史は呟いた。深い溜め息と共に。

「たぶん出会った時点で、もう遅いんだろうけどな……」

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