第44話 奇跡のカケラ

 先制点が入って大味になったのか、淡白な吉村のストレートにも、あっさりと角谷は三振した。

 勇名館側はベンチに戻ってきたナインも、それを迎える側も、顔色は悪い。


 県大会の決勝などで、いくらいいピッチャーがいるとはいえ、1-0で勝負が決まるということは少ない。

 だが、片方が完封されてしまう試合ならば多いのだ。

 本来なら最小失点差で負けるはずが、先取点を取られたことによって、一気に戦意を喪失する。

 特に投手の力が傑出している場合は、その傾向にある。


 守備の要である東郷でさえ、今は言葉もない。古賀でさえ、言葉の選択に迷う。

 だが先に動いた者がいた。

「おいゴルゴ! お前、勝つ気ねーのか!」

 普段は東郷と呼ぶ黒田だが、この時は小学生時代の仇名が出ていた。

 普段怖いと言われることはあっても、実際にはめったに怒りはしない黒田が、この時は憤怒の表情となっていた。


 監督として、古賀は止める立場にある。だがここは黒田の怒りで、ショック療法を期待する。

 その間に自分は、少しでも敵の揺さぶり方を考える。


「小学生の最後の試合、俺にボール球投げて打たれたろーが! あの時のこと忘れたってのか! 何も経験値にしてねーのか!?」

 幼馴染とまではいかないまでも、小学校時代からの知り合いは、二人にとってはお互いしかいない。

「吉村に頼りっぱなしか! 二年のエースに全部任せて、それで甲子園行くつもりだったってか!?」

 声もない東郷に、黒田はバックスクリーンのスコアボードを指差す。

「点差は一点! 打たれたヒットは四本! こんな投手を負け投手にしたら、球児の恥だろ! しかもこっちの打った唯一のヒットが吉村って、どこまで甘えてんだ!」


 黒田の檄が、ベンチに響いた。

 そして東郷は、自分の額を壁に打ち付けた。

 ぱっかりと割れ、血がたらたらと流れ出す。

 おそらく気合を入れようと思ったのだろうが、明らかに手加減を間違えている。

「すまん、誰か手伝ってくれ」

 怪我の治療に人手が取られるのはやりすぎである。

 しかし東郷の目には、力が戻っていた。

 流血の赤が、勇名館の選手に、勇気と蛮性をもたらした。




 もっともそんな時間の間に、古賀は作戦とも呼べないであろう作戦を考え出していた。

 これはもう、野球の攻略法ではない。佐藤直史という人間の性質を考えた上で、彼という人間、そしてバッテリーを攻略するのだ。

 その第一歩ですらなく、半歩を託された八番打者は、ストライクゾーンぎりぎりにまで上体をかぶせる。


 このピッチャーは揺るがない。

 佐藤直史は揺るがない。

 だが揺るがせないことには、突破口も作れない。


 ここまで極端な構えを見て、まだ内角に投げ込めるのか。

 たとえこの一打席を無駄にしたとしても、あちらの投手のコントロールにわずかなズレでも出来ればいい。


 そう考えたのだが、初球はインローに、ストレートを投げ込んできた。

 ストライク。少しでも外なら当たるという、絶妙のコントロール。


 ジャイロボールを打つのは難しい。というかほぼ無理だ。

 ならば当然、他の球を狙っていくしかない。もっともこれは、ジャイロボール以外も投げてくれるという前提があってこそのことだ。


 直史達もジャイロスルーを投球の軸としては考えているが、その危険性も無視してはいなかった。

 ジャイロスルーは、ナックルと同じで魔球とも言える常識に反した球だが、ナックルにはない弱点がある。

 それは、ボールの描く軌道が、ちゃんと一定で存在していることだ。

 投球練習でも試したことだが、大介以外の打者であっても、ジャイロスルーを30球ほど連続で投げると、少なくとも前には飛ばせるようになる。

 これは160kmのストレートでもマシンならば打てるのと同じ理由で、途中から加速したように錯覚することに慣れるのと、下に逃げていくのに合わせられるようになるからだ。

 タイミングをジャイロスルーだけに合わせれば、打てなくはないのだ。


 だが、実戦では配球によって、やはり必殺の魔球となる。

 いつ投げていくのか分からなければ、そのタイミングで待つことが出来ない。

 そのタイミングで待つと決めていても、チェンジアップやスローカーブ、あるいは普通のストレートでも投げられてからだと、脳が錯覚する。

 緩急で三振を取るのは、ジャイロスルーだけではない投球の基本だ。ただジャイロスルーの場合、その効果が他の球種とは圧倒的に違うだけで。




 内角の深いところをえぐられた打者は、それでもベースの至近に構える。

 当てられることさえ承知の上なのか、かなり危険なものだと思うのだが。

(しつこいな。そんな構え方をしていても、ナオは普通にストライク入れてくるぞ)

 たとえばストライクゾーンの上に体を出していたなら、そのコースがストライクになるなら、平気で当ててくるのが直史だ。

 直史は故意死球を投げたことはないが、いくらなんでもこんな構えをされたら、当たるコースにでも投げてしまう。

(けれどまあ、その意図的な内寄りから、外角を打つ気なのか?)

 普通よりもボールに外れたスライダーを、打者は空振りした。

 直史に投げづらくさせるという目的は分かるが、それに自分のスイングがついていっていない。


 同じ事を次のバッターもやるのかもしれない。

 ならばそれが無意味だと、ここで教えておく必要がある。

(カーブをボールからストライクに)

 これだけ内に寄った打者が、背中からのカーブを打てるはずがない。


 そう、打てない。

 直史のパワーカーブは死神の鎌の如く鋭いラインをたどる。


 そして打者の体に当たった。

「あ」

 打席の前に立ってたこともあり、本来ならそこからストライクゾーンへ入っていくボール。

 しかしベース上を通る前に当たってしまえば、間違いなくデッドボールだ。

(上手く避けたふりしやがった!)

 横ではなく、わずかに後ろへ、背中で当たる。

 勇名館にもさすがに死球の当たり方などという練習はないのだろうが、相手の球種を封じるためには、こういった極悪な手段もありなのか。


 勇名館に初めて、ノーアウトでランナーが出た。

 しかも下位打線の打者が、直史の球を打つこともなく。

(角度をつけすぎたか。ツーストライクからあせったな。スルーで普通に三振を取ってもよかった)

 反省反省、とどこかの塀に手を置いたような姿勢になる直史である。


 一方のジンも反省である。

 ツーナッシングから勝負をする必要はなかったし、追い込んだらスルーというのがこれまでの配球だった。

(けど、よけられただろ、今のなら)

 そう思うジンであったが、当たってでも塁に出たいという気持ちがあったのだ。

 執念の出塁。そうとしか言いようがない。

 ただ、横の大きなカーブは今後、使い方を注意する必要があるだろう。

 直史は自信をもって内角を攻められるピッチャーだが、審判が全員そう見てくれるとは限らない。




 ここで勇名館古賀監督は動いた。

 ランナーに対して代走を出す。足を絡めてくることは間違いない。

 堅実に一点、現実的に考えるなら、盗塁で二塁へ進み、犠打で一死三塁。そこからスクイズといったところか。

 一番の前川は前へ転がすことに成功しているので、それなりに成功率は高い。

 ここで代打を出さないのは、打率が高い打者であっても、初見のジャイロスルーを当てられる可能性が低いからだ。


 ランナーを出して、足と犠打を絡めて三塁へ。そしてスクイズで一点。

 偶然にせよ幸運にせよ、ノーアウトのランナーが出たなら、一死三塁からスクイズというのは、ごく普通の戦術だ。よってジンの対策も普通になる。

(三振か、フライアウトがほしい。あるいは正面のゴロ)

 ジャイロスルーは沈む球なので、フライを打たせるのは難しい。

 三振か、意図したよりもボテボテのゴロ。とにかく注意するべきは、ランナーの足だ。


 難しい場面だ。盗塁を刺すか、送りバントを失敗させるか。

 送りバントを失敗させても、三盗を仕掛けてくる可能性も考えておかないといけない。

 だがまあ、まずは盗塁などそう簡単には出来ないと分からせるべきだろう。

 一塁のコーチャーに入ってはいたが、そもそも今日はまともに出塁した者がいないので、直史のクセなども分かっていないだろう。


 さすがに初球スチールはないはずだが、あっても二塁で殺してやる。

 そう考えて直史に要求したのはインハイストレート。

 バントの構えをしようとした九番がバットを引き、捕球したジンが素早く一塁へ送球する。

 さほど塁から離れてもいなかったのだが、慌ててベースに戻った。


 クイックは速いし、キャッチャーの送球も上手い。

 捕球の困難な球を投げてくれれば別だが、それ以外では盗塁の確約は出来ない。

 無難に送りバント。そのサインが交換され、ピッチャーの第二球。

 投じられたストレートは、高い! 球の勢いを殺しきれるか?

 必死で伸ばしたバットには当たったが、投手正面の当たり。それでも勇名館の代走は、二塁へと進む。

 二塁を殺すべきかタイミングは微妙だったが、一塁に送ってこれはアウト。


 綺麗にバントされたら一塁に送る間に三塁を狙っていたかもしれないが、それは完全に防げた。

 そもそも勇名館からしても、このランナーを帰せなければかなり勝算は低くなる。

 これで、一死二塁。

 流れが勇名館側に微妙に悪いと言うべきか、ここで打者は左の一番前川である。

 当然ながら三塁に盗塁しようとしても、打者がいないのでキャッチャーが刺殺する確率は高くなる。

 それならば前川にも、自分が生きるかもしれないバントをさせた方がまだマシだ。


 先ほどはちゃんとバントには成功した。もっとも自分が生き残るには、全く可能性がないバントであったが。

 今度もバントを狙う。それも、ちゃんと自分も生き残る。

 二死三塁となってしまうと、内野安打かクリーンヒットがないと、まず三塁は帰って来れない。

 六回の表の白富東と同じ状況になるが、直史からクリーンヒットはまず打てないだろう。

(俺が生き残れば、スクイズで……それか内野ゴロで、三塁は帰れる!)


 初球は外角のボール球。念のために盗塁を警戒したのだろう。

(何を狙う……。ストレートが一番いいけど、投げてくる可能性が低い。カーブは左打者の俺には効果的じゃない。スプリットか、ジャイロか……)

 二球目は高いコースのジャイロ。むしろバントの難しいコースで、前川は動かない。

(内野、少し前にいるな。警戒されてるが……)

 それでも、生きてみせる。


 ジャイロボール。今度は低めに。

 前の打席で転がしたのと、ほぼ同じコース。

 一塁線、今度はやや強かったか。ファーストが前進し、セカンドがカバーに入る。どちらの動きもスムーズで、前川の足相手でも隙がない。

 きわどいタイミングだが、間違いなくアウト。カバーに入ったセカンドはすぐにホームに投げるが、サードまで進塁したランナーが、突っ込んでくることはなかった。

 白富東の動きの選択にミスはない。




 二死三塁。

 勇名館の二番は、ジンと同じタイプである。

 即ち相手の球種を引き出し、変化球などをカットし、四球を狙う。

 ジンと違うところは、読みでバットを振るかどうかというところだ。


 ここで打てるなら、吉村の代わりに三番を打っているかもしれない。つまるところ、勝負どころには打てない。

 だがそれでも、代打を出すのには迷う。こんな場面ではなく、普通に送りバントを決めるならば、期待に応えてくれる選手だ。

 それにやはり、代打ではジャイロを初見では打てない。


 打てないなら、打てないなりに考える。

 出塁さえ出来れば、次は吉村だ。ジャイロ以外ではあるが、今日唯一のヒットを打っている。

 その吉村が何かの間違いでもいいから出塁出来れば、その次は黒田。

(黒田でどうにもならないなら、もう仕方ないだろ)


 八番がしたように、外角よりの立ち位置。

 これで直史がコントロールを乱すとでも思っているのだろうか。

(胸元のインハイで体起こそう。ストライクにな)

(了解)

 そしてびしりと決まる、直史のストレート。岩崎や吉村の数字に目を奪われているが、135kmのストレートというのは立派な速球派である。

 のけぞる相手打者に、バッテリーは次の配球を考える。

「ボールデッド!」

「え?」

「え?」


 本塁審判が、デッドボールを宣言した。

 思わず振り返るジンに、審判は胸元をちょんちょんと叩いた。

「かすったよ」

「え、いや、そうじゃなく――」

 今のは、ストライクだった。


 マウンドを見れば、直史はもう立ち直ったのか、帽子を取って軽く謝るかのように頷いた。

(いや、今のはストライクだろ? それにあんな内寄りに立ってたら、ストライク判定が普通じゃ……)

 ちょいちょいと呼ばれて、ジンはマウンドに駆け寄る。

「ストライクだったんだろ?」

「うん、間違いなく」

 ふう、と直史は溜め息をついた。

「八番に内角攻めした後、デッドボールだからな。その印象が残ってたわけだ」

 冷静に分析する直史に引きずられ、ジンも頭を振って平静さを取り戻す。

 審判は公正であろうとするが、それが時に、歪んだ判定を下すことがある。

 単純なコース判定のミスなどではなく、この場合は内角よりの球が多いことが問題視されたのか。

 まあ吉村は確かに直史に比べれば、内角をそこまで厳しくは突いてこないのだが。


「ま、高校野球の審判様は神様だからな。うちらみたいな勉強も出来る学校が甲子園に行くの、あんまり好きじゃないのかね」

「そりゃうがちすぎだと思うけど」

 直史は基本的に人間を信じない。

 人間不信だとかではなく、単に不正確だからだ。

 中学時代、自分でスコアを調べてみて、明らかにストライクゾーンが偏っている審判がいた。それも少しではなく、むしろ大半がそうだ。

「高校野球の審判はボランティアなんだから、さわやかにやって好感度得るのも考えないといけないんだろうな」

「そりゃお前のインタビューの態度じゃダメだわ~」

 思わず笑ってしまう二人である。


 だが、それを考えても、この流れは悪い。

「嫌な感じだな」

「ヒットなしで一・三塁か。でもツーアウトだから、一塁ランナーは無視、と」

 直史の言う通り、嫌な流れだ。こういうところから、ずるずると得点される可能性が高い。

「まあ、中学時代の大半、俺はこういう雰囲気の中で投げてたからな」

 重くなりそうなジンの心を、平然と直史が支えてくれる。

「審判がそう判断したのは、どっちにしろ覆らない。まあこんな連続でとは思うけど……どのくらい嫌われてるのか、けっこう重要な問題だな」

 まあ直史は確かに審判に限らず、ある種の大人には嫌われるタイプだろう。

 ある種の大人とは、体育会系だ。野球の審判など、その典型だろう(偏見)。

 だが吉村もけっこう審判に嫌われるタイプではあるのだ。三振を取ったらコールの前にベンチに戻ろうとしたりはする。直史は慎重だから、そういうミスはしないのだが。

 でも、絶対に吉村よりも直史の方がふてぶてしいと思うジンである。


 本来ピッチャーというのは、臆病なものなのだ。

 いつどんな時も、自分の球が打たれる危険と戦っている。

 そのプレッシャーを、あえて闘争心で乗り切る者、鉄の精神力で跳ね返す者。

 色々いるが、直史は違う。

 打たれる危険性を、そのまま認めている。だが戦っていない。

 彼が恐れるのは、自分のイメージ通りに球が行かないことだけだ。


 三番の吉村は、確かに今日、唯一のヒットを打っている。

 だがあれはまともなヒットではない。ボール球を引っ掛けたのが、運良く内野の頭を越えただけだ。

 そう、まだジャイロスルーは攻略されていない。

「まあ万一にも、長打だけは警戒だな。ボール球に手を出されてポテンが怖いから、緩急をつける球には注意だな」

「そだね。考えてみれば一点取られても同点だし」

「正直なところ、もう吉村は打てるだろ。慣れてきた」


 大介は既に長打を二本放ち、北村もクリーンヒットを打っている。

 そして三振が取れなくなってきた。大介と北村にはどうにか注意して投げているようだが、それでもここまで打たれているのだ。

「落ち着いていこう」

「うん」




 座ったジンが見るに、吉村はかなり疲労している。

 大会のここまでで、かなり消耗していたことも確かだろうが、だがそれよりは大介のプレッシャーが大きいに違いない。

 準決勝の細田がのほほんとしていたのとは対照的だ。あちらは柳に風とばかりに、なんだかんだ言って大介の打点がつかなかった。

(今更言うのもあれだけど、もう一人打率のいいやつがいたらなあ)

 無い袖は振れない。


 だが、ここで切る。

 一点もやらない。吉村を凡退させ、さらにダメージを与える。

 一気に得点を追加して、勝負を決める。 

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