第25話 三年生の最後の夏
グラウンド脇に突貫工事で作られた、ミーティング専用ルーム。空調トイレ完備、シャワー室隣接。
そこに集まっているのは監督(暫定)の山手、キャプテンの北村、キャッチャーのジン、マネージャーのシーナである。
加えてコーチと通訳もいるが、とりあえずは関係ない。
複数のデスクトップパソコンの画面に映るのは、直史の投球である。
「結局この日の最速は、最後の打者に投げた普通のストレートの135km。もう立派な速球投手なんですね?」
「まあ、速球でも抑えられるというか……」
強豪校のエースであれば、140km台は欲しいところだ。
だが実際に受けていたジンには分かる。確かに直史のボールは、速度が上がっていた。
そして速度以上に、伸びとキレが上がっていた。これならリード次第でかなり三振が取れる。
覚醒、とでも言えばいいのか。
新変化球を投げるためには、下手にコントロールしない方が、変化自体は安定する。そう直史は言っていた。
実際に試合の最後の投球も、コースは甘めだった。
だがこれによって、直史は本気の全力投球が出来るようになったのかもしれない。
カーブやスライダーなどの、スピンをかける変化球も、変化がつきすぎると言っていた。
しかしストレートのコントロールは失っていなかった。速度が上がっているのに、だ。
変化球も、すぐに修正していた。そのあたりの恐ろしい柔軟性は失っていない。
「リミッターが外れちゃったってとこですかね?」
「録画された映像を見ても、全体的に腕の振り、足の踏み込みなど、スピードにつながる部分は変化しています。あと、内部の筋肉もより使っているようですね」
詳しい解析は、これから行わなければいけないだろうが。
セイバーメトリクスにはトラッキングという、選手の動きなどを分析する手法がある。
肉眼でも可能だが、山手の使う手段は、専用の機材が必要なものであった。
「これで、投手が二枚」
ゆるみそうになる口元を引き締めて、ジンが呟く。
「そうですね。ただ佐藤君の方には、一つ弱点になるかもしれない要素が出てきました」
思わず山手の顔を見ると、見上げる彼女は珍しく真剣であった。
「体温が上がって筋肉を使えているということは、それだけ消耗が激しいはずです。それに筋や腱、関節への負担も大きくなります。今までのような投球数は期待出来ません」
それは、確かにそうだろう。
岩崎と直史。この二人のピッチャーのレベルは、明らかに上がっている。
しかし直史の方が、まだ明らかに体が出来上がっていない。筋肉の鎧がなければ、腱や関節にかかる負担は大きい。
「もっともどれだけが限界なのかは、実際にぎりぎりまで待ってみないと分からないのが、不安要素なのですが」
普段は今まで通り。ピンチではギアを上げる。
そんな器用な投げ方だが、おそらく直史なら出来るだろう。
「あと、成長率だけなら、鈴木君もたいしたものですよ」
二年の田中はまだ微妙だが、三年の鈴木も、わずかな期間に球速が上がっている。
もっと正確に言えば、球速が少し上がり、球威がかなり上がったと言うべきか。フォーム修正の成果である。
投手は何人いてもいい。ジンの考える理想的なチームに近付いている。
「これからはどんどんと練習試合を組んで、試合の中で選手の状態を分析していきましょう。何より大事なのは、怪我をしないことです」
「それは確かに」
特に無駄な動作がなくなった岩崎でなく、眠ってい筋肉を引き出した直史が、故障する確率は高い。
「公式戦以外は、それぞれの試合に個別のテーマを掲げてそれを達成します。もちろんそれは、アクシデントに対応するためです。四点リードしている状態で相手に満塁ホームランを打たれても、中心選手が故障するよりはマシですから」
「た、確かに」
ビジネスライクな考えだと、ジンはなんとか納得する。
「故障してもいいのは、甲子園の決勝で勝利が決まってから。ただしその故障も、今後の選手生命を絶つようなレベルは厳禁です。私はプロの人間として、体が資本のスポーツ選手に、後遺症の残る怪我をすることを許しません」
本当にビジネスライクなら、選手ファーストになるのかもしれない。
ぶっちゃけると現代の高校野球でも、甲子園のためなら、あるいは部全体のためなら、一人ぐらいの故障者が出てもいいと考える指導者は多い。
そして選手でさえ、甲子園に行けるなら、そこで潰れてもいいと考える者がいる。
甲子園信仰。それは確かに存在するのだ。
あるいはプロ野球選手になることよりも、それは特別なものなのかもしれない。プロになるには高校、大学、社会人とチャンスは何度もあるが、甲子園に行ける機会は明確に限られている。
しかもそれは、いい成績を残すということでなく、三年間、正確には五回の機会しかない。
トーナメントで一度でも敗北すれば終了。ある意味よほど、プロ野球よりも残酷なのだ。
だが岩崎はともかく、直史にはその心配はないだろうとジンは考えている。
あの世の中を現実的に見るひねくれ者は、アマチュアである高校野球の中継で、大金が動くのを苦々しいと言っていたことがある。
そもそも甲子園信仰を全く持っていない。勝つことは楽しいが、それに全てを賭けることなど出来ないのだ。
もうこれは、性格もあるが価値観の問題だろう。四人兄弟の長男として、冒険をする蛮勇を持っていないのだ。
野球バカではないのだ。そして野球バカでないと、甲子園に行くのは難しい。
選手はすべからく野球バカであり、監督がしっかりとチームの手綱を握る。それが高校野球の理想だとジンなどは考えている。
それを言うなら白富東は、絶対に甲子園に行けないチームになってしまうが、チームの中には野球バカでありながら、どこか冷静な選手や、自分勝手な選手がいないと、不思議とまとまらないものだ。
そして監督は確実に野球バカではない。
白富東で言うなら、上級生に野球バカはいない。北村がかろうじて、冷静な野球バカと言えるだろう。
シニア組は野球バカだ。バカゆえに、ジンの口車に乗って白富東に来てしまった。
ジン自身は、冷静さを残しているが根元では野球バカだと自覚している。でなければ素直に強豪校に行って、まともにレギュラーを競っていただろう。
だが父から聞く強豪校の実態などを聞くと、野球が楽しくなくなってしまうような気がした。
のびのびと甲子園が目指せないものか。そう考える自分が、実は相当自分勝手な選手だと、ジン自身は気付いていない。
大介や岩崎は、自分勝手な選手に分類されるだろう。
だが大介の場合は、本当に野球そのものが好きだと分かる。あれだけ自由にプレイして成果を上げる人間を、ジンはシニア時代を思い出しても、一人も思いつかない。
そして直史は、野球バカではないのに自分勝手で、そして冷静な人間だ。
野球が絶対なわけではなく、たまたま野球をやってくれたのだ。
あの才能がここまで埋もれていてくれたのは、ジンにとってはありがたいことだ。
光和大付属との練習試合も、先発が直史だったとしても、同じ結果になっただろう。
それにしても、まさかあの変化球ですら、あっさりと身につけてしまうとは。
直史自身は苦労したと思っているようだが、たった一日で形を身につけただけで驚異的だ。
本人はまだすっぽ抜けると言っているが、あの球の性質上、すっぽ抜けてしまっても面白い変化球になるのだ。
岩崎と直史。この二人が揃っていて、大介がいてくれる。怪我や事故でもない限り、甲子園を目指す戦力はあると思う。
唯一微妙なのは、千葉県という学校数の多い県で戦う、体力があるかどうかぐらいだ。
「くそったれ!」
グラウンドに戻ると、バッターボックスで大介が絶叫していた。
これほど悔しそうな彼の声など、ジンは初めて聞いた。
マウンドの上には直史がいて、バッピ用のネットがある。
一応守備にもついているが、どうやら球は飛んでこないようだ。
「まだやるのか? これで10打席終わったぞ」
困ったような表情の直史は、軽く右肩を回している。
「11打席目だ! 打てない球があるんなら、対策練るのが当たり前だろうが!」
珍しくムキになっているが、これはまさかガチンコ勝負をしているのか。
そして言動からして、直史が圧倒しているらしい。
審判役の高峰を見ると、目で助けを求めてくる。
まずい、とジンは思った。
直史の変化球は、大介であってもそう簡単に打てる性質のものではない。
いや、野球というスポーツを長く経験していればいるほど、むしろ打てなくなるかもしれない。
最強の打者である大介を、直史が封じる。それは直史にとってはともかく、大介にとってはスランプの原因になりかねない。
止めようかと思ったジンだが、直史の視線で思いとどまった。
「サウスポーのカーブはもう打てるようになったんだし、それでいいだろ? お前相手に投げるの、すげえ疲れるんだけど」
「全国行ったら俺レベルの打者だっていっぱいいるぞ。それの練習だと思えよ」
その台詞を聞いて、直史は思った。
お前みたいな投げづらい強打者は、多分一人もいない、と。
それでも直史は投球を続けた。
インハイへのストレート。伸びるその球を、大介は軽くサード方向にファウルを打つ。
今の直史の球威をスムーズに流し打てるのだから、やはり大介はすごい。
それに、ヒットを打とうと思えば、今の球はヒットに出来たのではないだろうか。
第二球はカーブ。外角から内角へと鋭く曲がる。
あえて見逃す。際どいがストライク。
打ってもホームランにはならないコースだ。たとえヒットどまりだとしても、打つ球は決めている。
そして三球目。
「あ」
珍しくすっぽ抜けた直史のスライダーを、大介は容赦なくネットまで運んだ。
「こらぁ! 真面目に投げろ!」
「うるせえ! あの球は失投があるんだよ! 素直に喜んどけ!」
大介はまだどこか納得していない様子だが、直史は肩を落としている。
「魔球って言っても、絶対に通用するもんじゃないんだ。お前ならカットぐらいは出来るから、その後の失投を打てばいいんだよ」
直史の説明に、大介はどうにか納得したようであった。
だが勘が鋭く人の悪いジンは、言葉の裏を考える。
大介はあの球を打つことに拘っていたが、実戦では別にあの球を必ず投げる必要はないのだ。
先輩捕手のリードも悪くはなかったが、ジンならもっと性格の悪いリードを行っただろう。
あの球は、少し高めに外れるように投げれば、本当に打ちにくいのだ。
意味のない勝利に拘らない、直史が大介に勝ちを譲ったようにも思える。
直史なら普通に考えつくだろう。
日々の練習で直史のコントロールは戻ったが、球速まで元に戻ってしまうことはなかった。
あの球も投げることは出来るようになったが、案外コントロールが定まらない。
もっともこれは理屈が分かってないと打てないので、ゾーンにさえ入っていれば、緻密なコントロールは問題ないのだが。
練習試合も繰り返され、相手は主に東京や神奈川の強豪校と繰り広げられた。
おおよその試合は勝ったが、課題をもって縛りプレイをした試合では、負けることもあった。
たとえば岩崎には、決め球は必ず変化球などという要求が出たこともある。
直史には緩急以外の変化球禁止が出たりもした。
大介へのホームラン禁止というのが、一番笑えたが。
もっとも地区の優勝候補である、他県の本物の強豪との練習試合では、そういった制限はなしで戦った。
それでも勝率はおよそ五割なので、充分に甲子園行きの資格はあると言えるだろう。
格下相手の練習試合では、サブメンバーがスタメンで出ることもあったし、シニア組以外の一年も投入された。
一度はシーナがクローザーで出て、パーフェクトピッチングなどをしてしまったりもした。
そして六月末。夏の県予選の組み合わせ抽選会が行われる。
キャプテン北村と部長の高峰を除いて、全員が練習である。
ちなみにこの頃には、山手の新たな呼び名が決まっていた。
セイバーさんである。
表向きはセイバーメトリクスを使うからというものであったが、本当の理由は別にある。
「山手さんってセイバーに似てるよな。青っぽいスーツ着てること多いし」
「誰だよセイバーって」
「アニメのキャラ」
「へえ」
確かにスマホで見せられたキャラは、山手に似ていた。
だがその名を出した本人と他一人以外は、そのキャラクターが元々は、美少女ゲームのヒロインだとは知らなかったのだが。
ちなみに最初は「ヤマカン」という案もあったのだが、あまりにそれはアレだという理由で却下されていた。
かくして山手はセイバーさんと呼ばれることになった。
野球用語でもセーブという言葉があるので、部員達には特に抵抗もなく受け入れられた。
山手はライトセイバーと何か関係があるのか、という程度には思ったが、特に抵抗もなく受け入れられた。
リアル金髪碧眼女性をセイバーと呼ぶ。
それを喜ぶ野球部員は、幸いなことに二人だけであった。
「シードはいいよな。何がいいって、いきなりシード校と当たることがない」
ジンが打算的なことを言ったが、否定する者がいる。
「優勝候補筆頭となら、二回戦あたりで当たった方がいいですけどね。こちらも疲れてないし、データも渡っていないですから」
セイバーはトーナメント表を見ながらそう言った。
高校野球、特に夏の大会は、一発勝負である。
おおよそは強豪が優勝するのがほとんどだが、いくつかの強豪が早めに負けてしまうことも多々ある。
特に軟投派の一年が入ったチームになどには、大番狂わせを食らう可能性が高い。
「まあでも、かなりラッキーな場所じゃねえの?」
「マンガとかだと一回戦が、去年の準優勝校だったりするんだよな」
中学時代弱小だった大介と直史は、そんなとんちんかんなことを言った。
「いや、シードを取ってるんだから、それはないだろう」
苦笑する北村に、そうでしたと気づく。なかなか身についた弱小体験は、拭いがたいものだろう。
しかし本当に、かなり運がいい。
今回の大会、一番注目されているのは、春にシードを取れなかった強豪校、その中でも勇名館がどこに入るかであった。
幸いなことに反対の山に入っている。当たるとしても決勝だ。
シードに入らなかった強豪も、白富東と当たるまでに、他のシード校と潰しあう。
「ベスト8までは普通に勝てそうだな」
「うちみたいに油断なく確実に勝つ方法が定まっていないチームは、ちょっとした油断が命取りですよ」
北村の楽観論に、ジンが釘を刺す。確かにキャプテンの発言としては問題であった。
しかし事実ではある。
練習試合で木っ端微塵に粉砕したチームとも、一度は当たりそうだ。
「準々決勝が、順当なら蕨山か。まあ普通に強いよな」
「春の結果から考えれば、上総総合が準決勝の相手か」
「上総総合なら、相性がいいですね」
珍しくセイバーがそんな発言をした。相性とはどういうデータから出したのか。
「サウスポーのすごいカーブを投げられる人が、うちにはいますから」
言われてみれば、スピードと落差はともかく、直史の左のカーブは、細田対策としてはばっちりのものだ。
「決勝はトーチバ、東雲、勇名館……あと光園学舎も一応な」
千葉県の参加校は170校。シードがあるので一回戦は戦わなくていい。
七試合勝てば甲子園だ。無理ではないと自然に思える。
今なら帝都一のBチーム相手には勝てるだろうし、春日山がエースを出してきても、それなりに勝負できる自信がある。
「それじゃあキャプテン、一言」
監督ではあるが牽引する立場ではないため、セイバーは北村に任せる。
北村はトーナメント表から目を離し、部員達を眺めていく。
「なあ、三ヶ月前、うちのチームがこんな状況になるって、想像したやつ、いるか? ああ、大田以外でな」
付け足された台詞に失笑が洩れた。
三ヶ月前、ジンたちは既に進学は決まっていたが、まだ練習には参加していなかった。
ジンたちが練習に参加するようになり、岩崎が140kmを出した時でさえ、県下の強豪とまともに戦えるとは思わなかった。
全てが劇的に変わったのは、シーナが直史を連れて来て、大介と出会ってからだ。
「正直俺は、甲子園なんか目指してなかったよ。野球が好きだから、真面目にちゃんと勝つための練習はしてたけど、まさか甲子園なんてな。今の二三年は、特にそうだよな」
本気で目指すなら私立か、強い公立を選んだだろう。
「でも今は、すごく遠くにだけど、確実に甲子園の背中が見えている」
やってみなくても分かるから、やってみなくちゃ分からないへの変化。
0と1では、全てが違うのだ。
「野球を嫌いにならないために、全力を出そう。悔いがないように、それでいて身につけた範囲内で、しっかりと戦おう」
北村はわずかに息を飲み、叫んだ。
「勝つぞ!」
「オウ!」
応える叫びは、力強いものだった。
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