73.特別なこと

「お風呂、先に入りますね」

「わかった。部屋にいるから」

「はい。上がったら声かけます」


 遥香が浴室へ向かう。タイミングは今しかないだろう。

 今日は三月九日。遥香の誕生日の前日だ。何もしていなかったわけではない。ではないのだが、結果的になにもできなかった。蓮也にはサプライズは向いていないらしい。

 あまりいいことではないのはわかっているが、部屋に戻って少しだけ遥香の私物を見る。自分に必要なものは大抵用意してしまうから、せめて遥香が集めているものでも見つかればいいなと思っての行動だ。

 鞄の中をこっそり覗く。綺麗に包装された中から出てきたのは、ネックレスと指輪。蓮也があげたものだ。

 しかし、めぼしいものはそれ以外にはない。


「なーにーしてるんですかー?」


 全く気づかないうちに背後に忍び寄っていたらしい遥香は、にこにことしているが雰囲気は怖い。


「……明日、誕生日だろ」

「ああ、やっぱりそういうことでしたか。いや、薄々気づいてましたよ、様子がおかしいですし」

「バレてんのかよ……まあいいか、なら単刀直入に聞くけど、欲しいものあるか?」

「ないです」

「ひとつも?」

「ええ。強いて言うなら、蓮也くんが一日膝枕をしてくれたら満足でしょうか」

「それくらいいつだってするけど」

「甘いですねぇ〜」


 それでも今日は膝に寝転んだりはしないらしい。


「明日は、ね?」

「好きにしてくれ」

「おや、意外です」

「誕生日くらい言うこと聞くよ」

「それは楽しみですね。さて、どんなお願いをしましょうか」


 悪戯っぽく笑う遥香に、蓮也はただ顔を背けることしかできなかった。






 そして翌日。


「蓮也くーん、おはようございます」

「ああ、おはよう。誕生日おめでとう」

「さて、昨日言ったことは覚えてますよね?」

「当然。どうした?」

「お願いします」


 手を広げて、ちょうど人ひとりが入れる程度の隙間を開けてくれる。時間は朝七時、まだ布団の中で朦朧とした意識が一瞬ではっきりとする。

 要求された通りにその腕の中に収まり、蓮也も遥香の背中に手を回す。


「いつから起きてた?」

「えっと、30分ほど前でしょうか。というか、早く起きてたことには気づいてたんですね」

「まあな。寝起きの遥香がこんなことできるとは思えないし」

「ふふっ、照れて真っ赤になっちゃうかも」

「それはそれで俺は楽しいけどな」

「私の誕生日なんですが。あ、こら。想像して笑うのは反則ですよ」


 怒られてしまったので大人しく黙る。遥香が力を緩めないのでしばらくそのまま、ただ無言で抱き合う。


「はい、ありがとうございます。朝御飯の準備してきますね」

「やるぞ?」

「いえいえ。大丈夫です。好きでやってますので」

「じゃあよろしく」


 そう言われることはわかっていたので、素直にそこは譲る。というより、遥香は料理をしているときはだいたいいつも楽しそうなのでむしろ任せたいのが本音だ。もちろん遥香がやってほしいと言うなら蓮也は喜んでやるが。

 遥香が出ていってしまったので、蓮也はまた一人でぼーっとする。遥香はなんでもない日のようにしているが、やはり蓮也にとっては最愛の恋人の誕生日だ。なにかをしてやりたい気持ちはある。

 そもそも、蓮也は遥香とそういった話はあまりしない。かろうじて食べ物の好みは以前聞いたが、料理は遥香の担当だ。手が出せない。


「去年も同じこと悩んだな、俺」


 なんの進展もしていないことが少しだけ情けない。

 苦悩する蓮也に朝食を作り終えた遥香が声をかける。


「悩んでるみたいですね。大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃない」

「本当に私は何も要りませんが……」

「ならせめてなにかさせてくれ」

「まあ。やってほしいことはありますよ」

「そうなのか?」

「ええ、まあ。嫌がってもやってもらいますからね。とりあえず朝御飯、温かいうちに食べてしまってください」

「そうだな、とりあえずそうする」


 後でどんな要求をされるのか少しだけ気になったが、とりあえず朝食を優先することにした。






「さて、ではソファーに座ってください」

「俺が?」


 こくこくと楽しそうに頷いている。

 遥香は朝食後すぐにそんな要求をしてきた。なにがしたいのかはだいたいわかるが、少しだけ恥ずかしい気持ちは未だに拭えない。

 ソファーに座って、膝を開ける。その隣に遥香はゆっくりと腰掛け、そのまま倒れかかってきた。


「失礼します」

「気が済むまでどうぞ」

「足が痺れてきたら言ってくださいね?」

「遥香、軽いから大丈夫」

「嬉しい言葉ではあるんですが、本当に言ってくださいよ……?」


 疑うような視線。

 足が痺れても苦痛に感じることはないのだ。むしろ、膝枕をしている分には蓮也の方も幸せである。


「やっぱりここが一番です」

「家は落ち着くからな」

「それはそうなんですが、そうじゃないです。このソファーでこうして、蓮也くんに膝枕をされているのが一番幸せということですよ」

「それはまあ、俺も」

「奇遇ですね」

「……こういうこと言ってるから翔斗たちにバカップルって言われるんだと思う」

「まあまあ、今はいませんから。ちょっとくらい馬鹿でもいいじゃありませんか」


 遥香に言われると妙に説得力がある。乗せられているだけな気がしないわけではないが、それすらもどうでもよくなってしまうのが蓮也の悪いところなのかもしれない。

 その状態が心地よくて、つい忘れてしまいそうになることもある。


「それで、やってほしいことは?」

「えっ? これですが?」

「いつでもやるのに……どうせ言ってもこれ以上何も言ってくれないからいいけど」

「うーん……そう言われましても、ないものはないので」


 遠慮は感じられない。本当に欲しいものも、して欲しいこともないのだろう。どうやら、今年の誕生日は特に何もしてやれないらしい。


「ふあ……」

「寝ててもいいぞ」

「では……お言葉に甘えて……」


 心地よさそうな寝息が聞こえてくる。

 蓮也の膝に寝転んでいる時の遥香は、よく眠るような気がする。寝息も寝顔も可愛いのでそれは全くもって問題はない。


「俺も、眠たくなってきた……」


 遥香の寝顔を見ていると、蓮也まで眠くなってしまう。こちらは間違いなく問題だ。

 そのまま抗いきれない睡魔に身を任せてしまった。






 目が覚めると、頭の下には柔らかい何かがあった。朦朧とした意識の中でそれがなんなのかを必死に考えていると、いつの間にか蓮也より高い位置にいた遥香に声をかけられる。


「おはようございます、蓮也くん」

「……おはよう。それで、寝る前は俺がしてたはずなんだけど?」

「これもして欲しいことということで。普段ならあまりさせてくれないでしょう?」

「まあな……して欲しいこと、膝枕ばっかりだな」

「不満ですか?」

「いや別に」


 なんだかんだいって、蓮也は遥香が満足してくれるならそれでいいのだ。特別なことをしたい気持ちはもちろんあるが、それ以上に遥香が楽しい誕生日を過ごすことが出来たならそれでいい。


「……あっ! ありました!」

「なにが?」

「してほしいことです!」


 気分を高揚させながら遥香が言ったのは、全く想像もしていなかったことだった。


「蓮也くんの作ったケーキが食べたいです!」





 唐突な提案を受けてさっそく準備を始める。蓮也はケーキなんて作ったことも、作り方も知らないが、それについては遥香がレクチャーしてくれるとのことだ。


「本末転倒じゃないか?」

「いいんですよ。大事なのは蓮也くんが作るってことなんです」

「なるほど……」


 その気持ちはわからないでもない。なんでもないこと、蓮也でもできることでも遥香がしてくれると、嬉しい。

 材料は既に準備をしている。遥香の指示を聞き、手を動かす。


「結構疲れるな、これ」

「慣れると楽しいものですよ。蓮也くんも慣れるまでやってみてはどうですか?」

「それはちょっと厳しいかもなぁ……」


 この作業が苦痛という訳でもないが、楽しめているという程でもない。そもそも蓮也は器用というわけではないので、あまりこういう作業は得意ではない。

 それでも、遥香のためだと思うと少しだけ楽しく思えた。

 二時間ほど休まずに作業を続け、ようやくスポンジが完成する。


「お疲れ様です。一旦休みましょうか」

「わかった。ごめんな、ずっと見てもらってて」

「いえいえ。こちらこそ、急に言ったのにありがとうございます」

「むしろ言ってくれてよかった」


 遥香は手こそ出さなかったものの、ずっと蓮也を心配そうな面持ちで見守っていた。二時間休みなく動いていたのは遥香も同じなのだ。


「遥香は休んでてくれよ。調べながらやってみる」

「無理です」

「きっぱり言うな……」

「当然です。甘く見すぎですよ」

「そっか……」

「隣で見てますから。大きな失敗は起こさせません」

「じゃあ、よろしく」


 あまり自信もないので素直に聞いておくことにした。

 しばらく休憩してから生クリームを作り、作ったスポンジに塗る。あまり綺麗な出来栄えとは言えないが、遥香は『初めてにしては上出来なのでは』と言ってくれたので良しとしておく。


「とりあえず、冷やしておきましょうか。デコレーションはまた後で」

「わかった。また膝枕しとくか?」

「いえ、遠慮しておきます。次のタイミングでして欲しいことがなくなってしまいますので」

「そりゃ大変だ」


 これ以上遥香からほんの少しの欲を奪うわけにはいかない。

 蓮也には最後の準備が残っているので、遥香だけを座らせて冷蔵庫へ向かう。


「どうかしました?」

「いや、ちょっと心配で」

「大丈夫ですよ。全く手出しをさせてくれなかったのでわかりませんが」


 にっこりと微笑む遥香に、少しだけの罪悪感。

 ケーキが心配だったというのが嘘だとは言わないが、本当はチョコレートプレートを取るだけだ。悪いことをしているわけではないのだが、少しでも嘘を混ぜてしまったことが辛い。


「……子どもじゃあるまいし……」


 そもそも遥香がチョコレートプレートで喜ぶとも思えない。せっかく準備した物なのだから使いはするが。

 丁寧に、遥香にバレないように文字を書く。たまに不器用な自分を呪いたくなる蓮也だが、今日ほどそれを思ったことはないかもしれない。

 数分かけてようやく文字を書き終える。捻った言葉は出てこなかったので、単純に『遥香、誕生日おめでとう』とだけ。


「蓮也くん? どうしたんです?」

「なんでもない」


 プレートを置いて遥香の元へ戻る。できる限りの事はした。






 そして夕食後。やはり夕食を作るところは譲ってくれなかったが、デコレーションも終えたケーキを準備するところは全て蓮也に任せてくれた。


「楽しみですね……」

「一応、頑張って作ったから、喜んでくれると嬉しい」

「ふふっ、私は厳しいです……よ……」


 喋っていた遥香は、蓮也が出したケーキを見て黙り込む。


「……もう、ほんとに。蓮也くんは私を喜ばせるのが上手ですよね」


 ほんのりと頬を紅潮させながら、遥香は嬉しそうにケーキを見つめる。


「デコレーション、綺麗ですね。それに、チョコプレート。私に内緒にするなんて、ずるいですよ」

「ほんの少しでもサプライズになったならよかった」

「すごいサプライズでした」


 たいしたことではなくても、遥香は喜んでくれる。嘘が見えない笑みに、蓮也はほっと息をつく。

 切り分けようと蓮也が準備をすると、遥香が慌てて蓮也を制止する。


「ま、待ってくださいよ! 写真、写真取りますから」

「いいけど。そんなに大層なものでもないだろ」

「私にとっては特別なんです! ほら、写ってくださいよ!」

「えっ、俺?」

「当たり前です。蓮也くんがいないと意味ないです」

「なら、遥香も写ろう」

「えっ? いいんですか?」

「当たり前だろ。誰の誕生日だ」

「確かに……」


 やや遠慮気味に蓮也の隣に。そしてスマホを構えて、これまた遠慮気味に笑った。


「ぎこちないな……」

「し、仕方ないでしょう!」

「もう一回撮るぞ」

「え、あ、ちょっと……」


 遥香からスマホを取りあげ、セルフタイマーをセットする。

 それからテーブルに置いて、ケーキが写るように蓮也もカメラに入る。


「誕生日おめでとう、遥香」

「えっ? あ、ありがとうございます」


 遥香が笑顔を見せたタイミングでシャッターの音が鳴る。先程の硬い笑顔ではなく、いつも蓮也に見せてくれる笑みだ。


「賢いですね……」

「だろ。遥香のことは誰よりも知ってるからな」

「ふふっ。あ、せっかく撮ったから……」


 遥香がスマホを弄りだしたので、蓮也もケーキにナイフを入れる。にこにこというより、にやにやしている遥香が少し気になったが、集中しないとまともに切れない気がしたのでそちらに集中する。

 ようやく切り終えて、次は遥香に意識を向ける。


「なにしてるんだ?」

「へっ?」

「どういう声だ。ケーキ、切ったけど」

「ああ、ありがとうございます」

「それで、なにしてたんだ?」

「せっかくだから、ホーム画面の壁紙に設定してました」

「なるほど……」


 よほど嬉しかったらしい。

 蓮也も少し気になったので見せてほしいと言うと、すぐにスマホを渡してくれる。

 だが、開くと出てきたのは蓮也の寝顔だった。


「……おい」

「えっ……あ」

「酷くないか?」

「いや、その、あの。ロック画面は……その……」

「まあいいけど。こんなのスマホ開く度に出てきて嬉しいのか?」

「……蓮也くん、スマホ貸してください」

「………………嫌だ」

「どうしてですか。見せてくれてもいいでしょう?」

「絶対に嫌だ」

「まさか、私の寝顔をロック画面に設定してる、なんてことありませんよね?」

「早くケーキ食べよう!」

「ふふっ、はーい」


 悪戯っぽく笑う遥香にやられたと思っても、もう遥香の興味は完全にケーキへ写っている。

 皿へ切り分けてフォークも準備をしている。『いただきます』と一言だけ、それからひと口食べる。


「うん、なるほど」

「正直に言ってくれた方が嬉しい」

「了解です。では……スポンジが固い。力加減の問題です。それと生クリームが柔らかすぎです。もっと混ぜないと駄目ですね」

「……やばいな」

「でも、美味しいです。私が点数を付けるのもおこがましいですが、百点満点ですね」

「……甘いな」

「ケーキが? それとも私の評価がですか?」

「どっちもだ」


 遥香が百点満点を付けたケーキは、遥香のケーキよりも不味くて、それでも蓮也は遥香が喜んでくれたことが嬉しかった。

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