【スピンオフ】そして姫氏原碧は恋を知る

せりざわ。

高校一年(冬):戦いの予感

 昔の夢を見るのはきらいだ。

 あまりにも幸せで、いつだって現実とは程遠いところにあって、目が覚めるたびに泣きそうになるから。



「――!」


 目が覚めると灰色の天井が視界に飛び込んできた。

 数秒遅れて枕元て鳴り響く目覚ましを止める。最近はいつもこんな調子だ。


 ベッドの中で軽く手足を伸ばして柔軟体操をする。痛み、関節の動き、凝りなど少しの変化も見落とさない。掛け布団という心地よい皮を脱ぐように手足の自由を完全に自分のものとしてからようやくベッドを出る。


 就寝時はnakedに限る。ゴムやワイヤーで締めつけられるのは嫌いだ。寝るときくらい自由ありのままにさせてほしい。

 が、わたしはヌーディストではない。カーテンを開けて外に姿をさらすときは公序良俗に従って厚手のガウンをはおる。その手始めにするのがリストバンドだ。


 少しばかり手を伸ばして目覚まし時計の横の定位置からオレンジ色のリストバンドを引き寄せる。左手首を通すとあっという間にわたしの肌と一体化する。何度となく洗濯を繰り返したせいで痛みは激しいが、ほかのどんなリストバンドもわたしには馴染まない。


 ガウンをはおり、いざカーテンを開く。

 東からの太陽がすかさず目を刺してきた。挑発的でとてもいい。今日も良い天気になりそうだ。


あおいちゃーん、起きてる? 朝ごはんできたよー」


「はい。すぐに参ります」


 階下からは義父ちちの声。ドレッサーの前で髪をとかしていたわたしは大きな声で応じて櫛を置いた。腰まで届く黒髪はわたしの数少ない自慢。枝毛も縮れもなく、触れれば絹のようになめらかな指通り。


 この姿を見たらヤツはきっと驚くだろう。

 最近になって気づいたが、ヤツのことを思うとき鏡の前の自分がすこしだけ口角を上げるのだ。



 ※



「ねーねー姫っち。姫っちってばー」


 転校初日の授業をすべて終えてここからという時になって厄介な女に捕まった。


「なんの用ですか比嘉さん」


「あっ。ウチの名前覚えてくれたんだ、うっれしー」


「知っています。比嘉のぶ子さんですよね」


「っだ! くっそダッサイ名前で呼ばないで! ”のんこ”か”のんちゃん”って呼んで!」


 根元から毛先まで金色の髪をツインテールに結んでいる同級生は、付けまつげの異様な目をぱちぱちと瞬かせる。眉毛は薄いし唇の色はありえないほどのピンク。それになぜ日本人のくせに目が緑色なんだ。カラコンというものだろうか。


「ご用件は?」


「あ、そーだった。これからパフェ食べに行くんだけど姫っちも行こーよ」


「先約があります。それから姫っちなどというふざけた呼び方は心外です。わたしは姫氏原きしはら 碧です」


 すると比嘉は突然バシバシと肩を叩いてきた。


「ぷっ、あはは、姫っちって面白いんだねー。帰国子女の転校生ってみんなそーなのー?」


 一体なんなのだ。わたしは忙しい。

 転校初日で友だちのいないわたしを気遣ってくれているのかもしれないが距離感がおかしいだろう。


「用件はそれだけですか? では失礼します」


 カバンに教科書を詰め込んで立ち上がる。

 逃げるが勝ちということわざの通り。すると廊下まで比嘉が追いかけてきた。


「ちょい姫っち! 落とし物!」


 手にしていた書類を見て慌てて引き返した。

 比嘉は途中まで駆けてくると「ハイどーぞ」と両手で渡してくれる。


「ありがとう。感謝します」


「敬語じゃなくてため口で話してよ。友だちっしょ?」


 友だち? いつ、だれが。


「それよりバスケ部の入部届、いきなり出すのはやめた方がいーよ」


 まるで内緒話でもするように声を潜めて忠告してくる。


「なぜ? わたしはバスケをするためにこの学校に入ったのに」


「んんー説明するよりも見るほうが早いかも。見学連れてってあげるよー」


 問答無用で人の腕を掴んで走り出した。

 パフェはどうなったんだ。



 私立・青嵐せいらん高等学校女子バスケ部はインターハイの常連。昨年は準優勝をおさめている強豪校だ。専用の体育館があり、選手のランク別に一軍・二軍・三軍に振り分けられている。


 見学に向かった体育館では一軍選手が実戦形式の紅白戦をしていた。


「どー? どーよ。なんか気づいたー?」


 体育館入り口にたむろする生徒たちに交じって試合の様子を確認させてもらった。


「ディフェンスがいいな。リバウンドを確実に取りに行く気概が見えるしよく走っている。ポイントガードの状況の見極めも的確で、よく声が出ている。それから」


「ちがうちがうマジメちゃんか! みんな髪の毛短いでしょう?」


「……たしかに」


 プレイ中の煩わしさから髪を短くする女生徒は少なくない。だがこのチームは全員が肩より上だ。4番のキャプテンがかろうじて肩につくくらい。


「染色は厳禁、かつキャプテンより髪を短くするって決まりがあるの。他にも細かいルールがいくつもあってね、メイクは日焼け止め以外NGとか二軍は一軍より・三軍は二軍より早く登校・遅く帰らなくちゃいけないとか、コーチの車を見かけたら休日の街中でも頭を下げて見送らなくちゃいけないとか。なにより最悪なのはテストの点数を試験のたびに公表しなくちゃいけないの。一教科でも赤点とったら問答無用で降格させられるんだよ、もう最悪―」


「なにが最悪なんだ。学業あってこその部活だろう? アメリカでは当たり前だぞ」


「っだぁ、ここは日本。インジャパン。200歩譲ってテストの成績は仕方ないとしても髪の長さはおかしいでしょう。そんなの自由にさせればいいじゃん。それとも姫っちは綺麗な黒髪をバッサリ切れるの?」


 びしっと指を突き付けられた。

 から伸ばし続けた大切な髪だ。多少の長さ調整や枝毛以外の理由でハサミを通したことはない。

 髪を切るか否か。わたしにとっては考えるまでもないことだ。


「切らない」


「でしょでしょー! そこまで伸ばしたってことはなにかの願掛けでしょ? バスケなんかのために切れるかっつーの。ウチだってバスケやりたいけどメイクもおしゃれも楽しみたいもーん」



「そこうるさい!!」


 つんざくような怒鳴り声が飛んできた。

 わたしたちの前にいた生徒たちが引き潮のように退き、奥の方から4番をつけた女生徒が向かってきた。眉を吊り上げて相当いら立っている様子だ。


「さっきからなんなの。練習の邪魔をする部外者はいますぐ立ち去りなさい」


 あれほどの声で迷惑をかけたのは事実だ。

 ここは素直に謝ろう。


「申し訳ありませんでした。――ですが部外者ではありません。入部希望です」


 えっ、と目をみはる比嘉の前で入部届を突きつけた。

 キャプテンは虚を突かれたようだったが渋々といった様子で入部届を受け取る。


「姫氏原 碧さん。一年生ね。見たことないけど転入生?」


「はい。母について10年ほどアメリカにいましたが再婚のため日本に戻ってきました。バスケは向こうですこし」


「そう。背が高いのね、170は超えてる……。見どころはありそうだけどウチのルールは聞いてる?」


「はい。キャプテンより髪を短くするのだとか」


「そう。べつにあたしが決めたわけじゃないけど長い髪は邪魔だから昔からそういう決まりになっているの。髪を切ったら再度入部届をもってきて」


「いやです」


「そう、いや……っえ? いや?」


 驚きを隠さないキャプテン。わたしは肩にかかった黒髪を払いのけた。


「長い髪が本当に邪魔かどうかその目で確認してみませんか? キャプテン?」


「な――っ」


「わたしが勝ったら髪の長さはバスケの強さに影響しないと認めてルールを撤回してください。もし長年の慣習で覆せないと仰るのならわたしに4番を譲ってください。この髪よりも長い女子生徒はほぼいないでしょうからね」


 ざわつく体育館。


 戦いの予感だ。

 火がついたように胸の奥が熱くなる。

 心の窯にどんどんと薪がくべられていくようだ。


 こんな大それたことを言ってもし負けたらどうしよう――。

 むくりともたげる弱い気持ちもあることにはあるが、それすらも燃料として根っこからむしりとって窯に放り投げる。


(こんなところでつまずくわけにはいかないんだ。必ずヤツを見つける。全国大会の舞台で)


「さぁ戦いましょうキャプテン――!」


 左腕のリストバンドにそっと手を添える。

 裏側に縫いつけられた YUTO の文字を思い浮かべながら。

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