住み慣れた場所を離れるのは、いつだってさみしいものです。

 予定どおり一週間で、ここをあとにすることになりました。出発の日はヒトミちゃんといっしょに食料庫から保存食や水を運び出して、車に詰めこみます。なんとまだ大量のパイン缶があることがわかりました。

 もっとパイナップル食べてもよかったじゃん! 荷物を運びながらわたしは抗議します。

 缶詰めは保存が利くからとっておくですよ。ペットボトルの詰まった段ボール箱をみっつも抱えて、ヒトミちゃんは反論します。つぎにまた食糧が見つかるのがいつになるかわからないですからね。あんなカロリー爆弾そうやすやすと消費させないですよ。

 着替えやそのほかの荷物も積みこんで、いつものようにパンパンになった窮屈な車をそとからながめると、この一週間の快適な暮らしがいとおしくなります。ひととおり車の点検を済ませてから、最後に忘れ物がないかもういちど家のなかを確認して、ヒトミちゃんはコントロールパネルとの無線接続を切りました。電力が失われ、照明や空調が落ち、部屋はまたしんと静まり返ります。ばいばい、またね、とわたしは部屋それ自体に向けて声をかけます。返事はありませんが、大丈夫、わたしたちのあいだに結ばれたエンタングルメントは、局在性を超えて心のなかに残り続けます。

 では発進するですよ。ハンドルに手をおいたヒトミちゃんはまっすぐ前に視線を向けてつぶやきます。うん、お願い、とわたしは答えます。エンジンがかかり、小刻みな震動をはじめてゆっくりと、車は前に動き出します。

 山道は来たときよりもさらに白くなっていました。きょうは降灰はありませんが、この一週間で新しく積もったぶんが吹き払われずに残っています。最初はハンドルを取られないように慎重にアクセルを踏んでいましたが、徐々にエンジンも温まって、安定してくると、すこしずつ速度を増していきます。運転をしながらヒトミちゃんは口頭試問を仕掛けてきました。お題はもちろん非ユークリッド幾何学。球面幾何学の直線の話題から、距離空間の定義、等角写像、リーマン多様体の構成方法まで。完璧ではありませんでしたが、わたしの受け答えは及第点といったところのようで、ひとまずヒトミちゃんからはお褒めの言葉をあずかりました。

 じゃあ、お昼ご飯はパイン缶? とおねだりしてみましたが、残念ながら認められませんでした。車は細い道を抜け、幹線道路に入りました。スピードはさらにあがります。音楽でも聞くですか、とヒトミちゃんはいいました。いったんchelmicoの曲を流しましたが、どうにも体が踊りだしそうになるのでやめにして、ポップしなないでの「Faster, POP! Kill! Kill!」にしました。「エレ樫」最高です。

 お昼すこしまえに道は峠にさしかかりました。崖にせり出したおおきな駐車スペースがあって、ふもとを遠くまで見渡せます。まあ、見渡しても真っ白なだけなんですが。そこで休憩を取ることにして、広々としたスペースの真んなかに駐車します。取り残された車が何台か、汚れた灰をかぶってさみしそうにたたずんでいます。ヒトミちゃんはお湯を沸かしてカップ麺をつくりました。わたしが麺をすすっているあいだ、ヒトミちゃんはテキパキと、停まっているほかの車からガソリンを抜き取っていました。

 ひと休みしてさあ出発しようというタイミングで、急に灰が強く降りつけてきました。視界がさわがしくなり、フロントガラスにもぼたぼたと大粒の灰が積もっていきます。小一時間ほどつづくですね。ヒトミちゃんは空模様からそう判断しました。しばらく待つです。ヒカリ、昼寝でもしていてください。

 わかったよ。ちょうど眠気がこんにちはをしていたので、いわれたとおり座席のなかでからだをまるめて目を閉じます。ヒトミちゃんがブランケットをかけてくれます。そして髪をなでてくれます。たぶんすぐに眠りに落ちたと思います。夢のなかでわたしは誰かを追いかけていました。あとちょっとで追いつけそうと思っても、空間が歪んでいて実は距離があることがわかったり、まっすぐ進めなかったり、ともかく一筋縄にはいきません。すこし離れたところに貴族さんがいて、そっちに回るといいぞ、とかそこでジャンプ! とかアドヴァイスをくれます。ようやくつかまえたとき、その人影はぐったりと力をうしなって、ベンチに倒れこみました。屋根のついた、ちいさな掘っ立て小屋みたいなバス停のベンチです。

 目覚めると景色が動いていました。かすかな震動もあります。起きたですか。ヒトミちゃんはハンドルに手をおいていました。灰が弱まったので、出発したですよ。

 身を起こして窓の向こうをながめます。山道を抜けて、車はちいさな集落にはいっていました。ぽつりぽつりとならぶ民家と、とおりすぎるガソリンスタンド。窓ガラスが砕かれ、暗い室内をぽっかりのぞかせています。ここはもう略奪されているですね。わたしの視線を察して、ヒトミちゃんは口を開きました。ここはとおりすぎるだけにするですよ。

 うん、とわたしはつぶやきました。

 灰はまだすこし降っていました。でも視界を隠すほどじゃありません。わたしは通り過ぎていくいろいろなものに目をとめます。道路標識。民家。切れた電線。トラクター。ガードレール。信号機。旅館の看板。黒焦げになった軽自動車。なにげない風景の先、なにか目にとまるものがあります。なんの変哲もなさそうな、でもなにか心に引っかかるもの。しばらくのあいだ悩んだあと、その正体に気づいて、わたしははっと声を上げます。バス停。ヒトミちゃんはけげんな目をわたしに向けます。わたしたちのゆく道の先に、バス停があります。屋根のついた、掘っ立て小屋のようなちいさなバス停。あそこに人がいるよ、とわたしは無意識のうちに声をあげます。あそこで人が、倒れているんだよ。


   *   *   *


 天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ


 万葉集1068、人麻呂歌集より。よぞらを詠んだ歌ですね。実物の月を見たことはないのですが、星ならあります。あの星たちがそら一面に散りばめられて、それよりももっと大きな月が、そこへ差し掛かっていく。月の公転がスピード感をもって表現されているのがすごいです。

 非ユークリッド幾何学の役者たちによる、代表的な群像劇といえますね。

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