第3話 君が行く 道の長手を 繰り畳ね
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生体反応はないですよ。わたしの言葉を否定しながらも、ヒトミちゃんはブレーキを踏み速度を落とします。ヒカリ、寝ぼけているですか?
そうかもしれない。わたしはすなおに認めます。そのいっぽうで視線は、いまにも崩れ落ちそうなボロボロのバス停からすこしもそらしません。ちいさく息をのんで、わたしは静かにつぶやきます。でもあれとまったく同じバス停を夢のなかで見たんだ。あそこに誰かが倒れている。
それは危険な存在ですか。ハンドルの上に上体をしずめ、ヒトミちゃんも意識を前方のバス停に集中させます。たぶんちがうと思うとわたしは答えました。うまくいえないけど、敵だとか、そういうのじゃないと思う。
やはり生体反応はないですね、でも、ベンチのうえにはたしかに。ソナーの結果から、ヒトミちゃんはなにか思い当たることがあるらしく、口をつぐみました。車はゆっくりとバス停に近づきます。道路の、バス停とは反対の端に沿って、可能なかぎりで距離を取って。降灰がすこしだけ強さを増します。やがて、夢で見たのとまったく同じバス停が視界にあらわれます。朽ちかけた木壁で三方を囲んだ、粗末なベンチをおいただけのわびしいバス停。分厚く灰をかぶったなにかが、たしかにそのベンチの上にたたずんでいます。車に残っているようにいいつけてから、ヒトミちゃんは車外に出てそのなにかに近づきます。ゆっくりと慎重な動作は、でも危険に備えるようなそぶりはまったくありません。ヒトミちゃんがこんもりとした灰を払うと、そのなかから人の形をしたなにかが姿を見せます。倒れこむように、ベンチに身をしずめてうつろな視線を地面に落とした、人の形をしたもの。
見開いた目はひとつきりでした。
許可なく車を降りましたが、ヒトミちゃんはとくになにもいいませんでした。アンドロイドですね。ヒトミちゃんはしずかに見下ろして、つぶやきます。わたしとおなじタイプの、アンドロイドです。
死んじゃったの、とわたしはこわばった声で尋ねます。まあ、そういうことですね。ヒトミちゃんは残りの灰を丁寧に払い落としながら静かに口を開きます。電池切れです。このぶんだと予備電力もとっくになくなって、再生は不可能ですね。
餓死みたいなもの? とわたしはつぶやきます。
そうですね。
すこしだけためらってから、わたしは尋ねます。それは、苦しいこと? わたしたちに苦しみなどないですよとヒトミちゃんはいいました。ある程度灰を落とすと、動かなくなったアンドロイドは二十代の女性のような見た目でした。後ろで束ねたながい髪が、灰にまぶされて色を失っています。おおきく見開いた瞳は、もう何も見てはいません。なにかを分析したり、考えたり、そういうことはもう一切おこなっていないことが、はっきりとわかります。ヒトミちゃんは指でそっと、アンドロイドのまぶたを閉じてあげます。そうすることで、もう動かなくなったアンドロイドは、ただ眠っているだけのように見えました。あるいはそれは、日に一度のシステムエラーチェックのための自己診断中のようにも。
再び動き出した車のなかで、しばらくはわたしもヒトミちゃんもなにもしゃべりませんでした。車は集落を抜け、また山道へとはいっていきました。激しくはないですが、連続するハンドルさばきが必要になります。窓のそとへ目を向けてみても、視界にはいるのはただ灰をかぶって枯死した鉛筆のようにほそい樹木だけ。かさを増す沈黙の重さにやがて押しつぶされるように、わたしは口を開きます。ヒトミちゃんもいつかは、電池切れになっちゃうの?
まあ、そうですね。ヒトミちゃんは前方に目を向けたまま、特に間もおかず答えました。充電ができなければ、いつかはそうなるです。
充電、とわたしはくり返します。それはどこでできるの。
このような状況ですからね。深刻さをていねいに取り除いた声でヒトミちゃんはいいます。わたしは基本的に、充電はできないものと想定しているです。
どれくらいもつの。わたしの声は震えていました。ヒカリが心配する必要はないですよ。ヒトミちゃんはそういってから、音楽を流し始めました。よくわからない、クラシックかなにかの曲。演奏が始まってから、ヒトミちゃんはつづけます。まだ電力は十分に残っているです。すぐにどうこうなるわけではないです。それにいまのところ「がっこう」は順調に進んでいるです。ヒカリは優秀です。わたしが動かなくなるまでには、ヒカリはひとりでも生き抜いていけるだけの知識を、ちゃんとたっぷり身につけているですよ。
そうじゃないよとわたしは聞き取れないほどのちいさな声でつぶやきます。あるいは、つぶやいていないのかもしれません。弦楽器の音色が徐々に主張を強めていきます。いやだ。わたしはちいさく叫びます。視線を向けるヒトミちゃんに、この曲はいやだとわたしははっきりと伝えます。
ヒトミちゃんは演奏を中止させます。急に静かになった車内で、ヒトミちゃんはうながすようにつぶやきます。なんでもヒカリが好きなのを聞くですよ。その言葉にしたがって、わたしはkitriのアルバムを選びます。すこしして、連弾のピアノと歌声がカーステレオから流れ出します。
わたしたちは無言のまましばらく走行をつづけます。でも何曲めか、「さよなら、涙目」がかかったところで、わたしは泣き始めます。ヒトミちゃんは静かに車をとめ、そしてわたしの頭を抱きしめます。こういうときは、あまりこういう曲を聞かないほうがいいですよ。わかってる、とわたしは痙攣する声で答えます。でもいまは、こういう曲を聞きたいんだよ。ヒトミちゃんは抱きしめたまま、やさしくわたしの髪をなでます。そのリズムがそっと曲と同期します。ピアノと歌声と、ヒトミちゃんの模擬的な体温とにつつまれて、のたうつ巨大な感情の波をどうやり過ごせばいいのかわからないまま、いつまでも、わたしは声を上げて泣きつづけていました。
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