落ちる落ちるは恋と罠

哲夜

プロローグ

 僕がこの町に赴任して三ヶ月ほど経つというのに今日も雨。ここは本当に雨の日が多くて晴れることがない。時折晴れても一時的なものであって陽射しはどこか鈍色ですっきりしない――。


 会社が用意してくれた六畳一間の和室の窓を閉めると、僕は財布をズボンのポケットに入れて部屋を出た。階段を下りると一階は小さな商店になっていて、小柄な老女の小川さんがいつもの定位置にちょこんと座っている。

「ご飯行って来ます」

 僕は大きめな声を出しながら、小川さんの視線に入る位置まで行って小さく頭を下げた。優に八十は超えているであろう小川さんは耳が少し遠い。

「どこか行くんかね」

 数テンポ遅れて答える小川さんに僕はオーバーアクションで頷いて見せた。小川さんが頷いたのを確認すると、僕は傘を取り店を出た。


 店は坂道の途中にある。僕はしとしとと降る雨の匂いを嗅ぎながら坂道を上に向かって進んだ。

 この町は縦長の小さな町……というか集落になっていて人口は恐らく二十人にも満たない筈だ。とは言ってもここでは人口なんて在って無いようなもので、よく会う人もいれば初めて会う人もいて、皆一様にこの町の住人だと言うからだ。けれどそれでは住人の数と建物の数が明らかに合わないのだった。

 初めの頃は不思議に思ったけれど、日が経つに連れて考えることもしなくなった。それからこの長い坂道を上ることにもすっかり慣れてしまった。

 僕は運動が苦手で、当初は結構な傾斜のこの坂道には終わりがないのではないか、と思う程の疲れを感じていたけれど、今ではほら、見えてきた。あっという間に目的である小さなスナックに辿り着ける。

 ファサード看板には『スナックよごれ』とある。僕は店の前にある傘立てに傘を置くと、どこか懐かしさを感じながら、ほんの少しだけ気持ちを引き締めてドアに手をかけた。

 その時、ふと僕の頭の中に店のママの声が過った。


『由来なんてないけどさ、この店の名前は本当はね「スナックよだれ」と言うんだよ。お兄さん見ない顔だね。ここはしょっちゅう雨が降ってるから文字が剥げちゃったのよ。でも今は「スナックよごれ」が通称になってるわ』

 そう言うと五十代くらいのママは小さく笑ってウィスキーを呷った。

 

 初めてここを訪れた時に、『スナックよごれ』と言う店名の由来を聞いて驚いたことを思い出しながら僕はそっとドアを押した。






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