雨垂

甜白 和叉

雨垂

 とある昼方。荒れ果てた廃村にて青年は吹き曝しふきさらしの小さな家屋で雨止みを待っていた。閑散とした村には、行き交う下駄の音に代わって雨粒の落ちる音が埋まる。廃屋は壁が多少破れているものの屋根はしっかり残っており、一時の雨をしのぐには十分な場所だった。乾いた雨音が屋根に鳴り、所々に穴の開いた雨樋あまどいからは雨垂れが落ちる。青年は湿気でいつもより落ち着いたクセっ毛をいじりながら、ぼうっと小雨のとばりを眺めていた。

「…………?」

 青年のぼやけた視界に何かが映る。小雨の向こうに小さな人影がひとつ浮かび上がっているのだ。彼は目を凝らすわけでもなく、ただその影を瞳のなかに留めていた。影は次第に大きくなり、姿がはっきりとしてくる。少女だ。齢にして十八くらいの娘が手で笠をつくって、刻み足で青年のいる廃屋へと向かっていた。

 少女は廃屋の下へ着くと着物についた雫を払う。青年はその姿を目の端に捉えながら、古傷が痛む腕を軽く押さえる。

「今日は、にございます」

 濁り切った空を見上げて少女は話す。

「馬鹿を言え、天気が悪いからわざわざこんな小屋に来たのだろう」

「はい、それ故に良いのでございます」

 青年は首を傾げて、頬を拳に預ける。彼女は「どうぞ」と言って、胡坐をかく青年の隣に竹皮の包みを置いた。

「『雨垂れ地を穿つ、水残らずとも地忘れず』という言葉をご存じでしょうか?」

 少女の柔らかい声が雨に混じる。

「すまない、教養は随分と前に捨ててしまった」

「恥じることなどございません、この言葉はここの隣村に伝わる言葉でありますゆえ」

 青年はそのとき、ようやく。目は大きく見開き頬は痩せこけ、長い黒髪はまっすぐ腰帯まで伸びている。着物は決して上等なものではないが、袖も帯もボロだらけの青年よりは幾分かマシな身なりをしていた。

「その言葉、意味は何という?」

 青年は目線を少女に向ける。

「わたしも意味は分かりかねます。村の者たちも捉え方はみな多様で、どれが正しい意味かはっきりとお答え申しあげることは出来ません」

 物憂げに少女はうつむく。目線の先には、雨垂れによって出来た窪みがいくつもあった。青年は包みを手に取って開く。中身は握り飯一つだった。

「旅をなさっているのですか?」

「そうだ」

 青年は握り飯を一口かじって話す。

「お名前は?」

「……小蕎こそばだ」

「そのお名前に腕の傷、もしかして武者の方ですか?」

「いや、違う。苗字は家族のなかだけで使っていたものだ、他人に言うのは初めてかもしれん。腕のこれも刀傷などではない」

 そういって腕の傷を手の甲でなでる。

「商人の方ともお見受けしませんし、貴方はどのような方なのですか?」

 青年は嚥下えんげする。

「俺は、妖狐の成り損ないだ」

 屋根を叩きつける雨の音が響く部屋で、青年ははっきりとそう答えた。そして、握り飯の礼として自身の身の上をゆっくりと語りだした。

 小蕎は百姓の長男として生まれた。両親ともにやさしい人で、悪を非とする心意気を強く持っていた。彼はその背中を見て育ち、姿。とても裕福とは言えないが、五体満足、心身ともに不自由のない幼少期を送った。しかし、その生活に影を差す事態が訪れる。小蕎も大きく成長し始めたころ、洪水と冷害が村を襲い、瞬く間に凶作へと陥ったのだ。当然、不作の波は小蕎の家にも及び、一家はひどく苦しめられた。

飢饉ききんによる不作が原因で放浪者に?」

「違う、不作はあくまで間接的な理由だ」

 小蕎の家族は飢餓に喘ぐ可能性をかろうじて回避することができた。彼の父親は寡黙で堅物だが、比較的利巧な人だった。彼はもしものことを考えて、普段から少しずつ作物を備蓄しておいたのだ。そのため、家族が食べる量は以前より大きく減ったが食料に困ることはなく、かろうじて年貢を払うこともできた。

「このままこの苦難を乗り切ることができる。当時は本気でそう思っていた」

 一家が普段通り少量の黒米で囲炉裏を囲んでいた夜のことだった。突然、玄関から物音が鳴り、鎌を手にした男が父親に襲い掛かった。父親は必死に抵抗しながら小蕎と母に逃げるよう叫んだ。母親は怯えた小蕎の手を引いて裏口から飛び出した。そして、林のなかを走り続けた。小蕎の背後からは鎌の男も父親も追いかけてはこない。ただ、振り返った彼の目の端々に映り込んだ村人の立ち姿やともりに、彼は二度とこの村に戻ることは出来ないと察した。

 小蕎と母親は放浪者として村々をまわった。たまに心優しい人がお恵みをくださったが、そのようなことは本当に稀であり、どの村も明日のわが身を夢見る者たちで溢れかえっていた。ふたりも彼らと同じように、屋根のない床で眠るほかなかった。 野ざらしで夜を明かすごとに、小蕎は顔に落ちる雨粒など気にならなくなっていった。

 村を抜け出してから数日後、母親が亡くなった。もともと体の弱い人だったこともあり小蕎も覚悟はしていたが、彼の心境は想像していたものとは違い明らかに煩雑はんざつとしていた。母を失った深い喪失感と最期まで汚れることのなかった安心感が彼の中で複雑に絡み合っていたのだ。虚ろな目で横たわる母親の隣で、小蕎は雨空を仰いでいた。浮雲の流れを眺め、何時間も空の様子を伺い続けた。しばらくすると雨はあがり、薄暗い雲だけが残った。小蕎は顔に残る小雨の粒を拭い払って母の両目を手で閉じると、母をおいて歩き出した。それは、心の中に閉まってあったかせ瞬間だった。

 その夜、小蕎は道中で見つけたを手に持って村道の端を歩いた。どこへ向かうわけでもないが、どこかに着く必要があった。村民はみな家の中にいるようで、周囲の家々から微かに灯りが漏れ出ている。彼はそのわずかな光を嫌って小走りで駆けた。いくらか角を曲がったとき、他家との距離が程よくある家が目に入る。彼はついにを決めて足を進めた。強盗の方法など彼の知っている教養にはない。だが、やり方なら知っている。何よりこの目と耳が覚えている。ついに戸の前まで来た。鼓動の高まりが全身に響く。手の震えを必死に止める。そして、小蕎は思い切り戸を開けて中に飛び入った。

 青年は、その時の自分がどのようなことを行ったのかをよく覚えていない。ただ、正気を取り戻した瞬間の、行燈あんどんの灯が消えた部屋で見た無残な男の身体と異常なほどに重い両腕の感覚、右腕にできた傷の痛みは克明に覚えている。彼は決して真っ暗な部屋を見渡さなかった。そして、傍にあった数人分の黒米と惣菜を、必死に。いつもより煌々こうこうとしたが部屋の全貌を照らしだす。青年は涙ぐんだ眼を伏せて、ただただ胃の中にものを流し入れた。

「その後も村を移動してはで強盗を行った。もう何人殺めたかもわからない。それでも、得ることも捨てることもできなかった。その不完全の果てが今ここにいる俺なのだ」

 雨脚は語り始めと比べるとさらに強くなっており、雨樋はそれらを滝のように吐き出していた。

「……そういうことでありましたか」

 青年の語りを静かに聞いていた少女が口を開く。

「何を……うっ⁉」

 青年は急に息が苦しくなり、前傾に崩れる。少女は歩いて彼の隣にある竹皮を静かに拾う。

「毒か……!」

 青年は床に背をもたれさせ、服を引きちぎれるほど掴み、悶える。

「やはり、覚えていらっしゃらないのですね」

 少女の鋭利な声が青年に刺さる。

「なるほど……娘にとって……水は……俺であったか……っ」

 青年の耳から雨音が遠くなり、目の前は曇り始める。

「……い人」

 少女の声が白い意識に消される。そして、青年は気を失った。


§


「…………っ!」

 青年は同じ小屋で意識を取り戻す。例の少女の姿はどこにもなく、その代わりに彼の横には《さや》が置かれていた。青年は曇った外を眺める。雨はすでに降り止んでいた。しかし、雨樋の穴の下にできた窪みには、多少の水がたまっていた。

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雨垂 甜白 和叉 @AkabaMochi

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