隻眼の英雄
寫
死神と呼ばれた少女
「うるさい、あっち行ってよ」
シナイは暗い路地裏で一人座り込んでいる。
少女は衣服とは呼ぶ事の出来ない、ボロボロの布切れを身に纏い、周りには小虫が飛び、菜種油色の髪が腰ほどまで伸びている。
「だから話しかけないで」
大人の肋骨にも届かない少女は虚空に呟く。レンガに背を持たれ、膝を抱え込むシナイを月明かりが照らす。
少女は、雲に月が覆われた時、ともに消えてしまうのではないか、と思わせる程に虚ろな目をしていた。
少女は気がつくと一人だった。
産まれたのは、毎日一食満足に食べる事もままならない、貧しい家庭。愛情を受けて育ったのだろうか?
物心がつく時には、既に父も母もおらず一人。
「おじさんー。昨日のすっごい人のお話聞かせてー!」
声をかける先には誰もいない。当たり前に人が目の前に居るかのように話している。これがシナイにとっての普通なのだ。
パパ、ママと呼べるようになる前から、誰もいない部屋で一人仲良く遊んでいる事があり、両親は大変不思議であっただろう。
言葉を話せるようになり確信に変わったのだが、この菜種油色の髪をした少女は、死者をその目で認識し、会話をする事のできる能力が発現していた。
「あの娘、また一人で何か話してるわよ。怖い、怖い。なんでも死霊が見えるんだとか。気味が悪いよ」
そうだ、そうだ、と他所の母親たちは小声で畏れる。
おかあさーん、同じ年に見える男児が駆け寄ると怒ったような口調で、近づくんじゃないよ! そう言って手を取り離れていく。
気にする事はない。いつもの事だから、これも少女の中での普通なのだから。
そんな避けられるだけの日々も長くは続かない。シナイは気がつけば街の腫れ物、ガンになっていた。
小さく力の無い、
ある日の事だ。いつもの通り、腹、顔に背中、少女は反抗する事が出来ない。この貧民層の、何処へやったらいいのか分からない憎悪を、一身に受ける。
偶然、両親が通りかかってしまった。我が子を守る母、対抗する父。少女にはそれを見る心の余裕さえ残っていなかった。
やっと目の前を見る事が出来た時には、たった二人の味方は息をしていなかった。
それから、ずっと一人で生きてきた。死者と話せることで寂しくはなかったが、孤独ではあった。食べるもの、寝る場所に困る日々。物乞いでも、盗人でも生きるために何でもした。
もう腹の虫も鳴らない。震えも止まらず吐き気もする。
──やっと開放される──
ずっと煩わしかった死霊の声も聞こえない。あと少し、はやく……
突然一人の男が手を差し伸べる。その男はヨシュアと言うらしい。
カビの生えかけたパンをもらった。それを恐る恐る一口千切って口に入れる。すぐに二口目、三口目と必死で噛み、飲み込む。
涙が出た。
水分などとうに無くなり、カチカチになっていたはずのパンが、食べやすかったのはそういう事なのだろう。
男は何も言わず隣に座る。動物のように貪り食うシナイを待つ。
「美味しかったかい?」
まるでリスだ。口を忙しなく動かしながら、首を何度も縦に振る。
「名前は?」
——シナイ——
男は立ち上がると少女の手を引く。行く所がないなら僕の所に来るかい? また首を何度も縦に振って答えた。
それからヨシュアの家に着くと、使われなくなった家畜小屋である。申し訳程度に、どこからか持ってきた干し草が寝床なのだろう。
「今日は寝なさい。疲れてるだろ」
ヨシュアは腕を枕にして、地面に寝転がった。
少女は分からなかった。両親以外に、手を取られたことが無かった。名前を聞かれたことも無かった。こんなに優しくされた事も無かった。
干し草を下敷きにして横になり目を瞑ると、隙間風が背中を撫でる。縮こまり少し震えたその顔を、月明かりが照らす。意識まで暗くなる直前、初めて嬉しいと思った。
自分が食べるはずであろうパンをくれたことが、家に入れてくれたことが、側で誰かが一緒に寝てくれることが、シナイにとって何よりも。
横になってから、その日、死霊は話しかけてはこなかった。
翌日、辺りの喧騒と汚れた肌を不快にさせる日の光で目が覚める。身体を起こすと干し草が手に張り付く。それを見て、昨夜の出来事が夢ではない事を確認し起き上がる。
「おはよう」
ヨシュアはくたびれたシャツを一枚、手元に置き座っていた。
シナイは少し怯えたようで縮こまってしまう。ヨシュアとは目が合わない。ずっとシナイの方を向いているのだが、なにか変に感じる。
急にシナイは昨日の打撲が痛みうずくまってしまう。
「いったい」
「大丈夫? 何処か痛いのかい?」
近づくと腕をゆっくり大きく振り、シナイに触れる。
ここかい?
それともここかな?
身体を撫でてくる。
「ごめんね。僕、目が見えないんだ」
申し訳が無さそうに、ヨシュアの目元が歪む。合点がいった。目が合わないことも、なぜ、両の手で押さえているところを撫でないのかも。そう思うと少し痛みも引いた。
「へいき……あ、あ……りが……とう」
人に礼を述べたのはいつ以来だろうか。この言葉が、感謝を示す言葉なのか、自信もない。
少しお互いに安心したのか、どういたしまして、と綺麗な笑顔を向けてくる。その笑顔にどう返したらいいのかが分からない。二人共、何も言う事なく時間が過ぎていく。
「取り敢えず、水浴びにでも行こうか。丁度、君もいるから案内して欲しいのだけど、いいかな?」
首を縦に振る。
「どうだろう?」
シナイはハッとして、うん、返事をした。
水浴びの場所まで手を引いていく。茶色に濁った水が見える。二人は服を脱ぎ、身体を洗う。髪の汚れは全く落ちない。
流し終わり、ボロボロの布切れを被ろうとすると、ヨシュアが小屋で見た、くたびれたシャツを渡してきた。これを着ろ、と言う事だろう。それを受け取り、膝まで隠れるシャツを着る。
「それじゃ、戻ろうか」
また、手を取って歩いていく。道中、教会の僧侶が二人を、いや、盲目の男を見て、乾燥しきったパンを渡しに来る。それに一言、礼を述べ受け取る。
小屋に戻ると食事にしよう、パンを二つに割いて渡してきた。慣れた様子で木材を重ねただけの棚から、器を二つ取り出し水瓶から水を注ぐ。
「はい、どうぞ食べて」
言い終わるのと同時に、パンにかぶりついて見せてきた。それを見て、同じようにパンを噛る。昨日のように何も話さずに、ただ噛んでは飲み込み、噛んでは飲み込みを続ける。
そうしてパンによって奪われた口の中の水分を補給し終えると、男は話し出した。
話を聞く限り、男は幼い頃に病気で目から光を失ったらしい。そのお陰で働く事が出来ず、家も貧しかった為、働けない者の食い扶持など無い、と家を追い出され、そこからは先程のような慈悲を受けて過ごしていると。
そして、視力は無いが、生きている人の雰囲気、オーラを、色で見ることで善人と悪人の区別をつける事が出来るらしい。
シナイを見つけたのもオーラを辿ったからであり、ヨシュア曰く、シナイのオーラはとても綺麗な藍色をしていたらしい。
そして今まで見た誰のオーラよりも儚く、綺麗だったと。
「……と、まあ今はこうして、使われなくなった家畜小屋を、占拠しているわけだね」
言いながら、水の入った器を口へと運ぶ。
「それじゃあ、君は?」
少し右を向きながら聞いてくる。
オーラの話をされた時に、嘘をついていないかの確認として、移動していた。少し悔しい気持ちになった。
そして、男の質問に少女は答えようとしたが、喉が震えない。
「あ……あ、あ……」
言葉にならない音だけが、何度も口から出る。ヨシュアはごめんね、無理しないでいいよ、と笑いかけてくれた。
「私の事気持ち悪くないの? 私と一緒にいて、話したりして平気なの?」
絞り出したのは、過去では無く、ヨシュアに対する疑心だった。
ヨシュアは驚いた顔をして「なんで?」と首を傾げている。
「だって、私は死んだ人が見えるから。死んだ人と喋れるから」
震えながら。
「死神なんだって」
力抜けていく。
「みんなには見えないんだ。一人でずっと見えない何かに話ししてるんだって。だから、私と話すと死んだ人の所に、連れて行かれるんだって、天国にはいけなくなっちゃうんだって、それから家族が不幸になっちゃうとか、それから病気になるんだって、それから、それから、それから……」
どんどん視界が霞かすんでいく。器には新しい水たまりが作られる。言葉が嗚咽おえつに代わり、肩で息をしなければならない。
痛い、痛い、痛い、痛い。
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい。
せっかくの食事が戻って来るような感覚が止まらない。
——だから、なんで私と話すの——
口に出来たのかは分からないけれど、ヨシュアはしっかりと聞いてくれた。
「そんなことないよ」
急に頭と腰に何かが触れる。そして目の前が真っ暗になり、温かく少し骨ばった柔らかい何かに、全身が包まれる。
「私の事、気持ち悪くないの?」
その温かさに身を任せながら、泣き叫ぶ。
「全然。気持ち悪くなんかないよ」
少し間を開けて力を緩めると、顔を掴んでシナイの顔をヨシュアの正面に向ける。
「ほら、僕には見えないから分からないけれど、ここは死んだ人が行く所にみえないだろう? 僕は君の目の前にいるだろう?」
首を縦に振る。
「それにみんなは、君が見えない何かと話しているのが、怖いんだろ? どうだい。僕もそうだよ。現に今、見えない君と話してる。なんせ目が見えないからね!」
シナイの目をヨシュアは見つめる。
「だからシナイ、僕たちは似た者同士だ」
もう、抑えようが無かった。
産まれたばかりの赤ん坊のように声を上げ、何度も何度も小さな細い手が目元を拭う。かと思えばその手で、ヨシュアのシャツにしがみつく。
——シナイ——
両親以外で初めて。
存在を肯定されたことが、抱きしめられたことが、似た者だなんて言われた事が、名前で呼ばれたことが。
嬉しくて止まらなかった。
それから二人は共に過ごす。
相変わらず生活は貧しく、毎日のように物乞いをして、時には店から盗んで来た事もあった。食事にありつけない日が、何日も続いた事も。バカにされ、心無い言葉を何度もかけられた。
それでも一人でいるよりもずっと楽しく、毎日が豊かであった。
誰かと一緒に食事をして、出掛けて、抱き合い温め合って寝て。二人だからどんな事も大丈夫なんだ。
時間が経つとヨシュアは、シナイを介して死霊とも会話をしていた。生きている時は、どんな仕事をしていたのか、楽しかった思い出はなにか。宝石でも見つけたかのようにはしゃぐ。
そして、夜になると歌を歌った。とても優しい歌。
——いつのひか そのひをまとう まずしくも
わらってふたりで そこにはふたり つれだしてくれる
だきあって えいゆうがきて しあわせに——
楽器も何もない。ただ夜の星空に向かって、ヨシュアは歌う。一度だけ、なぜ歌うのかを聞いたことがある。
「この街は、みんなの為に命を賭けてマモノと戦い、街を守っている兵士のお陰で、こうして生活出来ているんだよ。僕は目も見えないし力もないから、それは出来ない。それに字も書けないしね。だから歌うんだ。身体の傷は、お医者さんや能力で治せる人がいるけど、心の傷はそれじゃ治せない。歌は人の心を癒す力があるんだよ。シナイは歌は好きかい?」
よく分からなかったけれど、歌は好きだ。いや、本当は違うのかもしれない。
「分かんない。でもね、ヨシュアの歌は好きだよ」
そうしてまた、二人で眠りにつく。
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