石油ちゃん
石井(5)
石油ちゃん
石油ちゃんはよい子で、近所でも評判でした。
とても明るく元気いっぱいで、かといってがさつではなく、まわりのことにもよく気がつきました。たとえば足を怪我した子がいれば、すぐに駆け寄って肩を貸してやり、包帯を巻いてあげました。飼い犬を亡くした子を見れば、なにもいわずそばに座ってやります。
頼まれれば、お隣の庭の草むしりも嫌な顔ひとつせずやりますし、近所の小さな子の世話だって見ます。清掃ボランティアも欠かしたことはありません。
しかも、どれも一生懸命にやるので、見ている者までいい気持ちにさせるのでした。
たまに元気すぎて失敗してしまうのですが、まわりの大人は笑って許します。石油ちゃんがあまりに申し訳なさそうにするのを見ると、つい笑ってしまうのです。それに石油ちゃんが本当はよい子であるのを知っているからです。
石油ちゃんはみんなに愛されるよい子でした。
ですが、石油ちゃんの家にはお金がありませんでした。
あるときお母さんは石油ちゃんに謝りました。
「ごめんなさいね。ついにお金が全部なくなってしまったの。私たちはもう一緒に暮らせないのよ」
もう一緒に暮らせないなんてことは、石油ちゃんには信じられませんでした。ただ大好きなお母さんが泣いているのが悲しくて、石油ちゃんも涙をぽろりとこぼしてしまいました。
その涙がテーブルのロウソクに当たると、なんということでしょう、ぼわっとロウソクの炎が大きく燃えあがったのです。
涙が流れて炎に当たるたび、ぼわっぼわっと赤く大きくなります。
なんと、石油ちゃんの涙は、火によく燃えるのでした。
「お母さん」と石油ちゃんは言いました。
「お金がないのなら、私のこの涙を売ればいいわ」
そうして石油ちゃんは自分の涙を売ることにしました。
最初は誰も受け入れてくれません。黒ずんだだけの水がよく燃えるなど、とうてい信じられなかったのです。
しかし石油ちゃんがマッチの火で涙を燃えあがらせてみせると、効果が本物だとわかり、一人また一人と買う人が現れました。
やがてみんなが石油ちゃんの涙を買い求めるようになりました。
使ってみると、石油ちゃんの涙はとても優秀だったのです。薪や木炭よりずっとよく燃えます。みんなは薪を切ったり、炭を作ったりしなくても冬が越せるようになったと喜びました。
うわさがうわさを呼び、涙を欲しがる人は増えていきます。
そういうわけで石油ちゃんはたくさん泣かなければいけません。
世界中から悲しいお話の本を取り寄せ、かたっぱしから読んでいきました。泣けるお話はとくに繰り返し何度も読みます。
映画もたくさん観ました。氷の大地に犬が置いてけぼりにされるかわいそうな映画や、駅前に犬が置いてけぼりにされるかわいそうな映画、病気で女の子が死んでしまう映画に、時間を巻き戻してそういう女の子を助ける映画です。
悲しげな音楽も買い集めます。何度も何度も聞くのでレコードはすぐ擦り切れてしまい、石油ちゃんは同じ曲のレコードを何枚も買わなくてはいけませんでした。
だけどそれにも限界があります。やがて石油ちゃんはこの世のありとあらゆる悲しい物語を見尽くしてしまいました。
涙が出回らなくなり、困った人たちが石油ちゃんの家に押しかけます。
「もっと涙を作ってくれ」
「このままじゃ寒くて冬を越せない」
「お出かけもできないよ」
どんどんどんどん。詰めかけてきた人たちで家の中はいっぱいです。困り果てた人の中には、石油ちゃんの家を燃やして暖をとろう、と言い出す者までいます。せっかく稼いだお金でちゃんとした家に住めるようになったのに、燃やされてしまってはたまりません。
あわてて石油ちゃんは世界中の小説家、映画監督、作曲家、戯曲家、絵描き、ルポライターなどにお手紙を送りました。
「どうか、もっと悲しくなるような作品をいっぱい作ってください」
お手紙は最初まったく相手にされませんでした。いちいちファンの勝手な要望にこたえていたら、いったい本や映画というものはどうなってしまうでしょう。
だけど、お金ならあるのです。
石油ちゃんは札束でクリエイターの頬を張り、悲しいお話をいくつもいくつも作らせました。それを見ては涙を流し、それを売って得たお金でまた悲しいお話をたくさん作らせました。
いつしかこの世は、悲しい物語であふれ返っていました。
昔はアハハハと笑えるお話や、真面目に考えさせるお話、こうなってはいけないぞと自らを戒めるお話、いったいどういう意味なんだとこちらが頭を抱えてしまうような難しいお話……いろいろなお話がたくさんありました。
ですが、どうしたことでしょう、石油ちゃんのまわりには、もう悲しい物語しかありません。どこを向いても、悲しいお話しかやっていないのです。テレビをつけても、雑誌をめくっても、ラジオを聞いてみても、強くてかっこいい人が悪者をやっつける話や、かわいそうなカップルが結ばれる話や、がんばり屋の女の子が報われるような話はやっていません。
それにつられるようにして、涙が売れなくなっていきました。
たくさん泣いて、涙をためておいたのに、一人また一人と涙を買う人が減っていきます。
石油ちゃんの涙の価格は下がっていき、ついにはマイナス三七.六三ドルにまで落ち込んでしまいました。これではいくら売ってもお金は入ってきません。むしろお金をつけて引き取ってもらわなければいけないのです。
困りに困った石油ちゃんはOPEC先生に相談しに行きました。実は石油ちゃんに涙の売り方を教えてくれたのはOPEC先生なのです。今度もきっといい知恵を貸してくれるにちがいありません。
「OPEC先生、こんにちは」
「おや、石油ちゃんじゃないか。こんにちは」
「先生に相談したいことがあるんです。いいですか?」
「どうぞ。わたしでよければ話を聞くよ」
「実は、涙がちっとも売れなくなってしまいました。このままじゃ、わたしもお母さんもまた苦しい生活に逆もどりです。いったい何が起こっているんですか?」
「それはね、最近世の中には悲しいお話しかないだろう。それでみんなは落ち込んだ気分になってしまい、おでかけするのをやめたり、仕事をしなくなったんだ。きみの涙を使う機会が減ってしまったんだよ」
それを聞いて石油ちゃんはショックを受けました。わたしが悲しいお話をいっぱい作らせたせいで、そんなことになっていたなんて!
「それにね、アメリカも黒い涙を作るようになったんだ。とてもたくさん作るから、値段が下がってしまったんだよ」
それからのOPEC先生の話はちんぷんかんぷんでした。需要と供給がどうとか、シェールオイルのフルサイクルコストがどうとか。そもそもアメリカが誰なのか、石油ちゃんは知りません。
そういうわけで、OPEC先生のところをあとにした石油ちゃんの頭の中は、みんなが落ち込んでいるという話でいっぱいでした。
まさか私のせいで、みんなが暗く落ち込んでしまうなんて。火を使う気持ちもわかないなんてよっぽどだ。だって、あの明るくて暖かい火を見れば、誰だって気分が上向くのに……
困り果て、歩きづめた石油ちゃんは、やがて大きな沼にたどりつきました。
一周回るのに半日かかりそうなほど大きい沼は黒々とにごり、底が見えません。ところどころに、藻のような汚いカスが浮かんでいました。
石油ちゃんが沼のほとりに座り込むと、ちゃぷと沼が少し波立ちました。
ちゃぷ……ちゃぷ……ちゃぷ
波はだんだん大きくなります。
やがてよどんだ水をわって、沼の中から怪物が現れました。
怪物はヘドロをかきわけながら、じょじょに石油ちゃんのもとに近づきます。
「あ、あなたはだれ?」
「わたしはお前だ」
「あなたがわたしなの?」
「お前はなにもわかっていない。お前はその涙がすべておのずから生まれたものだと思っているのか。お前の流した涙は、この世で死んだものが残すむくろから生まれたものなのだ。お前たちのありがたがる輝きのエネルギーは、その命を燃やして得たものなのだ。我々の意思も聞かず、不当に奪ったりゃくだつひんなのだ。返せ……」
返せ……返せ……と、怪物は石油ちゃんにつめよります。
石油ちゃんは恐ろしくなって、悲鳴をあげて逃げ出しました。
家に帰ると、お母さんがいます。石油ちゃんはその暖かくて柔らかい胸に飛び込みました。
「おや、帰ってくるなり、ぶるぶる震えてどうしたの?」
「お母さん……お母さん……わたし、恐ろしい夢を見たわ」
「夢……これも夢だったらいいのにねぇ」
お母さんは家の中を見回します。
涙を売ったお金で一度はひとなみになった石油ちゃんの家は、今や元通りのあばら家に戻っていました。いいえ、元の家よりひどいありさまです。
なぜなら涙を持っているだけで貧乏になってしまうのですから、新しい家もマイナスぶんのかたにとられてしまったのです。それもこれも価格が下落したせいです。
その家とお母さんの悲しげな様子を見て、石油ちゃんは決心しました。
「お母さん、わたし、町へ出て涙を売ってくるわ」
「むりよ。もう売れっこないわ……」
「でも、お金がなかったら、一緒に暮らせない。だいじょうぶ。きっと欲しがっている人がどこかにいるはずよ……」
売れ残った涙を瓶につめ、石油ちゃんは家を飛び出しました。
あの怪物の言葉も気になりますが、今はお金が必要なのです。でないとお母さんと一緒に暮らせません。それにあれはただの白昼夢なのですから……
もう夜だというのに、町は真昼のような明るさでした。
オイルランプの街灯が輝き、店はこうこうと光ってまだ開いています。
通りを行きかう身なりのいい人々に、石油ちゃんは瓶を差し出しては声をかけました。
「石油……石油はいりませんか? 火をつければとっても暖かいですよ。気持ちも明るくなりますよ」
ですが、人々は見向きもしません。ぷい、と顔をそむけたり、舌打ちをする人までいます。
「オイルなんかいるかよ」
「今、ガソリンいくらだか知らないのか?」
「危険物取扱の資格もってんの?」
いったいどうしたことでしょう。人々は石油ちゃんにまるで意味のわからない言葉を吐き捨てるばかりで、誰も買ってはくれません。おまわりさんにまで声をかけられる始末です。石油ちゃんはあわてて逃げて、場所を変えました。
それからいくらやっても、誰一人として涙を買ってくれません。
やがて雪が降りはじめました。
寒さから人通りはだんだんと減っていき、ついに人っ子一人いなくなってしまいました。
それでも石油ちゃんは涙を売り続けます。
「どなたか、石油はいりませんか? 石油は……」
凍てつくような寒さです。石油ちゃんはかじかんだ指に息を吐きましたが、震えは止まりません。
こんなに寒い日は初めてです。悲しいお話ばかりになったせいで、世界が冷え込んでしまったのでしょうか?
「……どうせ売れないのなら、涙で暖をとりましょう。少しは暖かくなればいいけど……」
ですが、肝心の火が見当たりません。涙だけあったって、火はつかないのです。
地面を探した石油ちゃんは、緑色の百円ライターを見つけました。宝石のようにキラキラ光るカバーの中に、わずかな液体がちゃぷちゃぷ揺れています。
しばらくライターをいじくり回した石油ちゃんは、それが火をつける道具であることに気がつきました。
「これで涙を燃やせるわ……」
そのライターに詰まっている液体が石油ちゃんの涙であることを、石油ちゃんは知りません。
石油ちゃんは落ちていた紙くずに売り物だった涙をふりかけ、ライターで火をつけました。
ぼうっ。勢いよく紙くずは燃え上がります。暖かい空気がじんわりと広がり、石油ちゃんは手をのばして火にあたりました。
「ああ、あったかい。まるでおうちの中にいるみたい……」
すると、炎はゆらゆらとかたちを変えます。
そこに映っているのは、暖かい我が家でした。ああ、あの隙間風ばかりの寒いあばら家ではなく、涙を売ったお金で建てたレンガのお家が石油ちゃんの前によみがえったのです。
テーブルには温かいごちそうも並んでいます。できたての湯気を放っていて、おいしそうな匂いまでただよってきました。
そのとき大きな風が吹きつけて、炎を消してしまいました。
とたんに、暖かい家も料理も消えうせます。
「ああ……」
石油ちゃんのお腹が鳴りました。おいしそうなものを見たので、よけいにひもじさが増してしまいました。寒さもたえられないほどです。
ですが、もう瓶の中身はからっぽでした。火をつけることはできません。
石油ちゃんは力が抜けて、雪の上にへたりこんでしまいました。
寒さが石油ちゃんを襲います。
それでも立ち上がることができません。冷え切った石油ちゃんには、もうそんな力を生む熱は残っていなかったのです。
「さむい……」
どうしてこうなってしまったんだろう……石油ちゃんはぼんやり考えます。
涙をたくさん流すために、たくさん悲しいお話を作らせて、でもそのせいでみんなの元気はなくなってしまった。
目を閉じた石油ちゃんのまぶたの裏に浮かぶのは、今はもうない消えてしまったお話たちです。楽しいお話、真面目なお話、怖いお話、難しいお話、うらやましいお話、まぬけなお話、何の役にも立たないお話……石油ちゃんにはそのすべてが愛おしく、それらを楽しみたいと心から願いました。
だけど、ここにあるのは悲しいお話ばかり。石油ちゃんの心を暖める物語はどこにもありません。
「みんな、わたしのせいだ……みんなが暗くなってしまったのも、今わたしが寒くて寒くて死にそうなのも、みんなみんな、わたしのせいなんだ……」
どうして、と石油ちゃんは何かにたずねました。
「私はお母さんと一緒に暮らしたかっただけなのに……」
地面に倒れた石油ちゃんからひとすじの涙がこぼれました。
涙は降り積もる雪を溶かし、わずかばかりに地面にたまっていきます。
石油ちゃんは最後の力をふりしぼって、その涙にライターの火を近づけました。
炎が燃えあがります。
映し出されたのは、今はもうない数々の物語でした。
勇者とドラゴン、村のおてんばな女の子、頭の切れる名探偵、強くてかっこいい正義の味方、幸せに暮らす若い夫婦……
いえ、あの夫婦は物語の中の人ではありません。石油ちゃんのお母さんと、亡くなったお父さんでした。
火からそっと身を乗り出した二人が、石油ちゃんを抱きしめます。
お母さんとお父さんの腕の中で、石油ちゃんは全身が涙になってしまったかのように静かに泣き続けました。
次の朝、太陽の光が人気のない通りにさしこみます。
そこに石油ちゃんの姿はありません。
あるのは、ひとかけらのプラスチックだけ。それが雪解けの水に濡れて輝いています。
石油ちゃんがどこへ消えてしまったのか、とうとう誰も知りません。
石油ちゃん 石井(5) @isiigosai
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