徒然交友日記

@NatsumeHiromoto

星見酒

 綺麗な満月の夜のことだ。


 俺は縁側に酒と少しのつまみを運び、月見酒と洒落込んだ。友人が土産としてもってきた日本酒はややくせがあるが、杯を重ねるとそれが旨い。どうにも俺は人も食も、少しくせが強い方が好みのようだ。

 普段はわけの分からない藁人形やら、 壺やらを押し付けていく腐れ縁の友人の顔を思い浮かべ、満足感に浸りながらするめを咥えた。


 それにしてもいい月夜だ。

 麻の浴衣のあわせを緩めると、涼しい風が通り抜ける。 ほんの一週間前までうるさく夏を謳歌していた蝉もすでにその身を潜め、代わりに今は雑草が生い茂った茂みの影で、 ちいさくキリギリスが鳴いている。

 晩夏に勝る季節はない。俺は誰にともなく宣言してまた御猪口を傾けた。庭の小さな池には、 ゆらゆらと陽炎のような月が映っている。


 それを見ていてぼんやりと、子供の頃に読んだ絵本を思い出した。

 確か、夜空の月が水面に映った自分と友達になろうとして、月のぼうやにお使いを頼むのだ。 ゆっくりと世界を漂いながら月のぼうやは地上まで降りてきて、最後に水底で鏡を見つける。 それを持って帰ると月は楽しげに鏡に映った自分に話しかけ、そこで物語は終わる。

 今考えてみるとちょっと皮肉な内容だが、なぜだかお気に入りの一冊だった。 鏡に映ったのが自分だと知らず無邪気に話しかける月は、子供ながらに可愛らしいと思ったのだ。


 懐かしさが胸を掠めてしばらく池に映った月の光に目を留めていたのだが、ふと違和感を感じて空を見上げた。どうも池に映る月の方が大きい気がしたのだ。光も僅かに、水面の月の方が明るい。そんなことが有り得るだろうか。


 じっと水面を見つめた。陽炎のような月はだんだんと大きく、明るくなっていく。

 というより実際は近づいてきているようだ。水底からゆっくりと浮上してきている。


 息を詰めていると、ちょうど特大のたらい位の大きさになった満月は、ちゃぽん、というかわいらしい音を立てて池から顔を出した。

 池の淵がぼんやりと卵色の光に満ちる。


「こんばんは、二階堂の主人。いい夜ですな。」


 腰がちょっと引けていた俺に、満月(らしきもの)はニコニコとふっくらした頬を上げて笑った。まん丸の顔に目と鼻と口と、ご丁寧に眉毛もあり、ぼんやりと白光している。首から下は池の水に沈んだままなので見えないが、あるとしたら全長は三メートルを越すんじゃないだろうか。何にせよ頭がでかすぎる。


「いやあ、よい酒を飲んでらっしゃる。私にも晩酌させてもらっていいでしょうか。」


 と、そういうので、呆けていた俺は慌てて部屋に戻り、食器棚から一番大きい紺色の御猪口を持ってきた。これもまた、旅の土産に友人にもらったものだ。

 さて、だがこれをどうやって渡そうと思っていると、池からにゅっと手が伸びてきて危なげなく御猪口を受け取った。同じく白光しているが、指はきちんと五本あった。なんとなく複雑な気分になるというものだ。


 酒を注げば満月(らしきもの)は言い訳がましく、「いやね、あんまりいい夜なので」と言ってくいっと飲み干す。いい飲みっぷりだ。

  じっと見ている俺に気づいたのか、穏やかな顔をした満月(らしきもの)は、なぜか恥ずかしそうに身を――というよりも顔を――池の中で捩った。


「そんなに見ないでくださいよ、不躾だったのは失礼でしたが。」

「いえ、こちらこそ失礼。」


 思わずそう答えたあと、どうにも気になってしかたなく一応聞いてみた。


「あの、どうして私の苗字をご存じだったのです?」

「降りてくるときに表札が見えました。」

「なるほど。……ちなみに、こういったことはよくされるのですか?」


 満月(らしきもの)は大きな声で笑った。やはり口がでかいと声も違う。水面がぶるぶると震えるのを見て、 ちょっと顎を引いた。


「たまにです。家と人がそろわなければね。」


 意味はよく分からないがどうしたものか。とりあえず満月(確定)でいいらしい。 人間不思議なもので、とりあえずの正体がわかってしまえば――それが何にせよ――腹が据わる生き物である。 酔いが回りかけていたのもあるのだろう、既に俺はこの状況をすんなり受け入れていた。


 彼は満月であり、酒につられて下りてきたと、そういうことなのだと。

 そうと決まれば縁側で飲んでいる場合ではない。庭先に干していた茣蓙(ござ)を持ってきて池のほとりに座った。

 さて、と思い手元の日本酒に口を付ける。一応月見酒だったんだが、と思いながらも黙って月の無くなった寂しい空を見上げた。ビロードのような、晩夏特有の柔らかみのある濃紺の空が果て無く広がっている。

  それに気づいたのか満月はまた言い訳がましく、「たまにはね、星にも華を持たせてやらないと」などと言う。 なるほど、一理ある。


 勝手に池から酒瓶に手を伸ばして注ぐのを見ながら、そういい加減だと困る人間が少なからずいるんじゃなかろうかと少々心配には思ったが、星は確かにさっきよりも綺麗にのびのびとした光を放っていたので、まあいいかと浴衣の袖に風を入れた。


「今宵は星見酒ですなあ」


 満月は笑ってまた酒を注ぐ。

 頭上には一際大きな星が三つ、三角を描いていた。







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