顔の無い男

安斎・バルザック

顔の無い男

1.


 その男には、顔がなかった。

 初めて会ったのは、ひと月前位だったと思う。


 その日の俺は、なぜか寝ざめが悪く、一向に起き上がることができなかった。

 身体的に苦痛があるわけでもなかったから、金縛りか?などと、脳内はやけに冷静に状況を分析していたのを覚えている。

 だが、どうやら一過性の強烈な睡魔のようなものだったようで、10分も経てばいつも通りに起き上がることができた。


――あぁ、今日も仕事だ。



 朝起きると、息子が学校の準備をしている。妻は台所に立ち、味噌汁に入れる葱を刻んでいる。食卓には出来たてのベーコンエッグとサラダ。バターを落とした焼きたてのパン。立ち上る湯気。



 それらのいずれも、俺には無縁のものだった。

 35歳の、日々身を粉にして働いているサラリーマンに、その位のささやかな幸せが訪れてもいいものだが、現実は無情だ。

 包装を破り総菜パンに齧りつき、味もわからぬままに、しわしわのシャツにネクタイを締める。

 無精して磨かずにいる革靴に足を突っ込んで、今日も一日が始まる。



2.



 家から駅まではそう遠くないが、運動不足の身体にはこたえる。歩いて10分ほどなのだが、それだけで息が上がるほど、俺の体力は衰えてきているみたいだ。生活習慣をもう一度見直した方がいいのかもしれない。


 駅のホームに到着するころにはもうすでに汗だくだった。さもありなん、今日は猛暑日になると、天気予報で言っていた。


 2020年の8月――数ヶ月前までは、謎の感染症が流行して、日本を含めた世界中が危機的状況に陥っていた。今では落ち着いてきたものの、経済活動への打撃は並々ならぬものだったようで、俺の勤める会社の売り上げも、調に移行していった。

 同僚には、肩を叩かれた奴もいたから、俺はまだ幸運だったといえるだろう。


 しかし、幸運といえども、所詮は不幸中の幸いといった奴だ。


 仕事があることは確かに有り難いが、有り難いだけで、仕事が苦痛なのは変わらない。そんな心理的な矛盾を抱えながら働いているものだから、最近は少し体調が悪い。


 汗で下着が背中に張り付いている。

 まだかまだかと、ホームに滑り込んでくる電車を心待ちにしていると、ふと、隣の列に、珍妙な男が並んでいるのを見かけた。


(夏なのに、トレンチコートと中折れ帽子?)


 ひと目見ただけで、普通ではない者だと分かった。その黒々とした長髪も相まって、仔細に相貌をうかがう事は出来ないが、ただならぬ雰囲気であったことは確かだ。


(気味の悪い奴だ)


 俺はなるべく目を合わせないようにし(とはいっても、髪で隠れていて顔が見えないわけだが)丁度よく到着した電車に足を踏み入れた。



3.


 最近やはり、とみに疲れやすくなった気がする。

 仕事を終え、安普請の自宅アパートに戻ると、スーツ姿のままベッドに寝転んだ。

 頭に浮かぶのは、自分をこれでもかという程に追い詰める責任の二文字や、迫りくる納期、そして上司への呪詛ばかりだった。

 窮鼠猫を噛むとはいうが、噛みつく気力すらも削いでしまうのが、社会というものなのだ。

 それはそうと、俺は仕事について少し真面目に考えすぎなのかもしれない。

 こんな日は、久しぶりに酒でも舐めてぐっすり眠るのがいい。

 俺は、ウイスキーの水割りに舌鼓を打った後、ぬかるみに沈んでいくように眠りについた。



 やはり、朝が辛い。

 どうにもおかしいのだ。肩こりが酷く、眉間の奥にツンとした痛みが走る。眼精疲労だろうか。

 今まで大きな病を患ったことがなく、健康体であるということが、人に自慢できる唯一の長所だった俺は、自分の体調不良に対して、胸臆で不信感にも似た恐怖を抱いていた。

 これはストレスのせいだ。仕事の。直感で理解した。

 いや、もうとっくに分かっていたのに、直視しないようにしていただけなのだ。

 自分の身体のことは、自分が一番よく分かっているものだ。

生来の真面目一辺倒な性格が災いして、ストレスを累積させているのは明白だった。



4.


 さて、今日も今日とて、同じ駅に向かい、同じ4番ホームで同じ電車を待つのだ。

 うんざりしながら駅の階段を上っていると、不意に、


「もしもし」


 と背後から声をかけられたのだった。


 男の、野太い声だ。重厚でくぐもった男の声。


 振りかえると――


 昨日の、長髪の男だった。

 真夏にはまかり間違っても釣りあわないベージュのトレンチコートを着用し、顔が隠れるほど大きな中折れ帽子を被っている


――いや。


 顔が隠れる程?


 そう云ってしまうと、語弊がある。


 そもそもその男には、顔がなかったのだ。



 俺は慄然とした。

 顔の部分だけが、深淵の闇のごとく、黒々と塗りつぶされていたのだ。


「なッ、なんでしょう」


 その男の相貌の、あまりのオドロオドロしさに、思わず腰を抜かしそうになった。

 俺は、情けなく上ずった声で、ようやく声を振り絞ったのだった。

 すると男は、


「これ、落としましたよ」


「アッ……はっ、はい……」


 どうやら、胸ポケットに入れていたハンカチがいつの間にか落下していて、後ろを歩いていたこの【顔の無い男】が拾ってくれたようだった。


「では、失礼」


 彼はコートの襟を正し、中折れ帽子を深くかぶり直して、その場から去って行った。

 俺はしばし、その場で呆然と立ち尽くしていた。

 人波が、俺を避けるようにして流れてゆく。

 顔の無い男――。俺は、生まれてこのかた顔の無い人間など一度も見たことがなかった。いや、見たことがある人間なんて、俺以外に存在するのだろうか?


 それにしても――あの男。どこかで見たことがある気がする。とても近しい人間だったような気がしてならない。



5.


 この日を境に、俺は毎日、奴を見かけるようになる。


 駅のホームで。ある時は、会社の周辺で。ある時は、たまたま入った飲食店で。


 奴は、食事をとる時もかたくなに、トレンチコートと中折れ帽子を脱ごうとはしなかった。顔がないのに、どうやって食事をとるのだろう?などと、俺は馬鹿馬鹿しくも純粋な疑問を抱くようにもなった。

 普通に考えれば、顔の無い人間がいること自体がこの上ない異常事態な訳だが、毎日顔を合わせる(顔がないのに!)ものだから、彼に対する人並みの恐怖心というものを失ってしまったらしい。

 しかし、やはり不気味なことに変わりはなく、俺は毎日、戦々恐々としながら通勤していた。


 それとはまた別に、最近、仕事の方でプロジェクトの責任者に抜擢されてしまい、よりいっそう忙殺されるようになってしまった。

 プロジェクトリーダーと言えば聞こえはいいが、その言葉の中には、あらゆる精神的な責め苦が含有されている。

 率直に言って、会社を辞めたかった。辞めて、少しばかり、休養したかった。

 しかし、社会はそれを許さないようだ。一度レールを外れたものに対して、この国は異常なまでに厳しいのだ。

 今年――2020年は求人も減ってきているし、俺の同僚のように首を切られる人間もたくさんいる。今の立場がいかにありがたいかを噛みしめて、ひと踏ん張りしなければならない。俺はそう思い込んで自分を鼓舞することにした。



6.


 しかし、いよいよ朝、ベッドから出ることができなった。

 訳も分からず、空しいのだ。

 疲れ果て、這う這うの体で家に着いても、俺を温かく迎えてくれる声はない。

 地元から遠く離れた所に就職したものだから、気心の知れた友人も未だ殆どいない。誰にも相談できないという八方塞がりな状況に追い込まれ、とにかく、寂しくてたまらなかった。


 そして俺はこの日、会社を休むことにした。


 今が一番大事な時期である事は分かっていたが、まるで鎖でつながれているかのように足が動かなかったのだ。上司に体調不良で休む旨を伝えても、労いや慮るような言葉は一切なく、それどころか嫌味を吐かれる始末だ。


 所詮俺は、会社の優秀な(自分で云うと哀れこの上ないが!)いち歯車にすぎないらしい。錆ついてかみ合わなくなれば、歯車は取り換えられるだけだ。


 欠勤の連絡をいれた瞬間に、憑きものが落ちたように身体が軽くなった。仕事が体調不良の原因であることは、もう火を見るよりも明らかだった。

 どうやら俺は相当参っているらしい。

 一億総ストレス社会とでもいうべきこの世の中に生きている以上、精神的にダメージを受けることは致し方ないことなのかもしれないと達観する一方で、すっかり打ちのめされている自分がいるのも厳然たる事実だった。


 俺は、ノリのきいた新品のホワイト・シャツとジーンズに着替え、夏の日差しを浴びに外に出かけた。

 しかし悲しきかな、恨めしいことに、足は自然と駅のホームに向かっていた。どうやら俺には、サラリーマン根性が骨の髄までしみ込んでいるらしい。これでは、いつもの通勤の景色と変わらないではないかと、身につけてしまった習性に慙愧せざるを得なかった。



 飽きるほど通った駅にはしかし、これまでにない、いつもと違った緊迫した雰囲気が漂っていた。

 人だかりがたくさんできている。遅延だろうか?

 今日は電車に乗るつもりは無かったが、年甲斐もなく好奇心に負けて、冷やかし半分に立ち寄ってみることにした。

 改札口に設置された電光掲示板には、確かに電車が遅延している旨が機械的に流されていた。人身事故だという。

 あたりでざわめく人々の声に聴き耳を立てると、どうやらつい今しがた、線路に飛び込んだ男がいたという話だった。


 

嫌な予感がした。




 騒ぎに便乗して、人ごみの間隙を縫い、俺は急いでいつもの4番ホームへと駆けていった。

 緊急停車した列車が止まっている。先頭車両まで回り込み、野次馬をかき分け、ホーム下を見てみると……



 そこには、顔の無い男が、救急隊の隊員たちに囲まれ、血まみれになって横たわっていた。



 コートは血に染まり、帽子はどこかへ吹き飛んでしまったようだった。


 一瞬、顔がこちらへ向き、俺と目があった。


 その顔は、俺の顔にそっくりだった。



――いや、俺の顔そのものだったのだのだ。






それ以来、俺は顔のない男を見ていない。



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