タイパ時代の創作論──読者がくれる「時間」という命の重み

「カクヨム」に投稿している自作に、久々レビューを頂戴した。


 素直に嬉しい。どれぐらいかって、十月末にストップしていた本作の更新を再開する程度には嬉しい。


 キノタダシという物書きの端くれは、これまでweb小説の世界において「褒められる」という経験をそれなりに重ねてきた。


 20代の活動拠点だった「小説家になろう」から、30代前半の「カクヨム」にかけて──。

 手前味噌ながら、多くの賛辞にどっぷり浸かってきた。

 web小説界隈に身を置く方ならわかるだろうが、人脈づくりの心得+一定の筆力があれば、「自作、褒められまくりゾーン」の構築は決して難しいことではない(まあ、特段簡単でもないが)。


 このゾーンにて多くの肯定的意見に晒され続けると、次第に「褒め」に対して食傷気味になってゆく。

 もう一生分、褒められた気がする──そんな膨満感に加え、居心地の良いゾーン維持のために奪われるエネルギーやら、そもそも懇意の書き手が次から次へ退会してゆく現状やらに疲弊し、私は次第にサイトから距離を置くようになった。


 そんな祭りのあとの静けさを知っていたからこそ、今さらレビューをもらったところで、そう響くものもなかろうと高を括っていたのだが。


 冒頭に書いた通り、滞っていた連載を早々に再開した挙句、素直に嬉しいというお気持ちをこうしてnoteに表明する始末である。


 結局のところ、自分に対して誰かが時間を割いてくれたという事実が、シンプルに嬉しいのだと思ふ。


 そういえば最近、NotebookLMを使った動画の要約を控えるようになった。


 誰かが時間と労力をかけて作ったものを自身のタイパ都合でさくっと消費しちゃうってどうなのと思い直したからである。


 レビューをもらって嬉しいのは、結局そういうことなのだろう。


 コンテンツが氾濫するこの大海原の中で。

 他に無限に等しい選択肢がある中で。

 私を見つけ出し、時間という命を注いでくれた。

 その重みを知っているからこそ、私はまたキーボードを叩くのだと思ふ。

 時間という贈り物に報いるために。

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