FIREは「辞める」ことではない、「選べる」ようになること

 最近、「働くこと」に対して以前よりもずっとポジティブになっていることに気づいた。


 私は介護職として働いているが、ここ数日のnoteでは「仕事において大事なのは、周囲から苦労をわかってもらうことではなく、周囲から信頼されることだ」などといったやや熱っぽい内容を発信している。


 かつては、給与が低いこの仕事に少なからずコンプレックスを抱いていた時期もあった。

 が、今の職場で自由にできる領域が増えたことなどをきっかけに価値観が変わり、そのコンプレックスはもはや消えたと云っていい。


 転職活動中の妻や施設選びで悩んでいる親戚に対して、(功を奏しているかはさておき)経験則から何かしらの助言ができると、「なんだかんだこの仕事をしていてよかった」と思える瞬間もままある。


 一方で、心の片隅には「FIRE(Financial Independence, Retire Early:経済的自立と早期リタイア)」への、"多少の"憧れもある。


 あくまで憧れの域を出ず、明確な目標ではない。


 充実した「労働」へのポジティブな感情と、そこから解放される「FIRE」への憧れ。

 一見、矛盾しているこの感覚を改めて内観してみる。


 本業ではなく副業でだが──以前、Webライターとして自宅で働いていた時期がある。

 いつでもデスクに向かえるからこそ、常に仕事と共にいるような感覚があり、仕事と休みの線引きがひどく難しかった。


 その点、介護職は出勤すれば当然そこで働かざるを得ない。

 職場では制服を身に着ける規則があるため、オン・オフの線引きは否応なくはっきりしている。


 どうやら私には、強制的にオン・オフが切り替わる「無理のない範囲で外に出て働く」というスタイルが性に合っているらしい。

 何より「誰かの役に立っていると実感できること」「誰かから感謝をされる環境」が重要なのだと感じている。


 思うに、私が憧れているのは仕事も人間関係も全て捨てて、不労所得だけで暮らす「完全なリタイア」ではないのだろう。


 経済的に自立したとして、他者からの感謝や役に立っている実感が皆無の生活では、きっとどこか居心地が悪い。


 私が真に求めているのは、「FI(経済的自立)」と「FI達成後の自分らしい社会とのつながり方」の両立である。


 こうした生き方は「サイドFIRE」や「バリスタFIRE」と呼ばれるらしい。

 資産運用で生活費の一部を賄いつつ、残りはストレスの少ない好きな仕事をして稼ぐといったスタイルだ。


 フルFIREよりか、今の私にしっくりくる。


 ちなみにバリスタFIREの「バリスタ」はコーヒーのプロフェッショナルではなく、カフェで働く人くらいの意味を指す。

 諸説あるが「スターバックスのバリスタのようなストレスの少ないパートタイムの仕事に就くFIRE」というのが名前の由来だそうだ。


 もし経済的な重圧から解放されたなら、私は仕事を完全に辞めるだろうか。

 今の職場──と云うか、介護業界でなお邁進し続けるかと訊かれたら正直大分怪しいのだが(笑)


 多分、好きな類の労働はゆるゆるしていると思ふ。


 私にとってFIREは「仕事からの完全な逃避」ではなく、「嫌な労働から解放され、好きな労働を選択する自由」を手に入れるための手段なのだ。


 積立投資を続けているのは、一概に仕事を辞めるためではない。

 人生の選択肢を増やすためである。


 経済的な基盤が確立されれば、それは「いつでも選択できる」というお守りになる。


 経済的自立を達成したら、どんな形で誰かの役に立つ経験を続けていくのか。


 FIREは「辞める」ことではなく、「選べる」ようになること。

 そう考えると、今の仕事へのやりがいと将来への投資が深いところで繋がった気がする。

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