第一回遼遠小説大賞参加作品の感想まとめ

『蠅』 作者 高黄森哉

 https://kakuyomu.jp/works/16816927862225806847


 ツイッターにて「虚の塊」と評したが、無論褒め言葉である。


 改めて読むと「俺は農家の子」から書き出すって結構なチャレンジャーだよなぁなどと思う一方、これまたつぶやき通りやっぱり農家の子っぽくはないのである。


 とはいえ、かく云う私も「こんな女子中学生いて堪るか」と云わざるを得ない女子中学生を昨今の女子中学生は何を思い悩んでいるのかを知るために学校掲示板を読み漁るという大概にキモいリサーチに励んだ上で意図して書くことが多々あるので。この点はある程度狙ってやっている(あるいは開き直っている)のではなかろうか。


 当初「素晴らしい人生でした。いい妻に恵まれ、子は自立しました。弟子も多く、有能です。私は高齢だ。死ぬ以外の仕事は残ってないのです」と自己評価を下せる人間の思考パターンとしてはあまりに"らしくない"のではという疑問もあったのだけれど、改めて考えると「死ぬ以外の仕事は残っていない」と云い切れる人生だったからこそ、ここに至ったのやもしれないなと。


 思い残すことがない程度には充実していたから、今になって思考に余白が生じている──要するにヒマなのである。


「夜の決まった時間になるといつも暗いことを考えてしまう」と悩むリスナーに「あなたその時間ヒマなんですよ」というキレッキレの応答を剣持刀也もしていたではないか。人は、これまでの歩みが主観的に充実していようといまいとハエ取り紙に囚われの身となったあわれなハエに思考を囚われることがあり得る。


 ラスト──"俺"は大群の中で一際大きいだけのハエになる。ここが結構面白いポイントで、もし"俺"がモスマンならぬフライマンになっていたとしたら(唐突なifだが、もしヒトである主人公がハエになるラストを書けと云われたら真っ先に浮かぶ選択肢はフライマンではないか)、何やら個が認められている気はしまいか。"俺"という個の存続感があまりに強いと、召天とは呼び難い。実質セカンドライフのはじまりである。


 しかし、ただのハエならどうだろう。「俺はハエになった」という最後の一文で"俺"という個は大群に溶けて、完全に没個性化する。単なるハエの一匹に過ぎないからこそ「それを俺の召天」と呼べるのである。ゆえに、ハエ男への変身ではなく、大群のうちの一匹に宿るという幕引きを取ったのではないかと考察する次第。



『あのラカンパネラは遼遠に』 作者 ラーさん

 https://kakuyomu.jp/works/16817139554840202153


「音楽という目に見えないものを形にする」となると、思い出されるのはカンディンスキーの《印象Ⅲ(コンサート)》でして。絵画と比べてテキストはやはり自由度で劣ると云いますか、特定の一場面や一曲を切り出す形に落ち着くよなとやや窮屈さを覚える反面、見方を変えれば所謂「ここすき」的なノリでこの曲のこの部分にグッときた! という感情は乗せやすいのかなと。


 とどのつまり、音楽を文字で表現するとは曲を聴くことで湧いた視覚的なイメージを冷静に捉えているように映る反面、その実書き手のここすき展覧会という心動いた細部にひたすらクローズアップする──さながら土門拳の仏像写真のような熱っぽさを秘めていて、これはこれで絵画とは違った趣があるよななどと思った次第。


 作品としては音楽を文字で表現するというわかりやすい挑戦はもちろん「遼遠」を含めたタイトルなど、企画参加作品として非常的に優等生な印象です。あくまで文学的挑戦に重きを置き、持つものと持たざるものを巡る物語としてはどこまでも王道をゆく潔さが素敵です。



『叉鬼』 作者 あきかん

 https://kakuyomu.jp/works/16816927862510142992


 正直に云えば、冒頭から期待した方向性はコレジャナイのだけれど、男:女=2:1の濃ゆい三角関係を描いた小説として秀作であると思われ。無論、男のうち一人は息子ですでに故人であるという点を踏まえて。


 お約束通り、この手の関係で死者に対するクソデカ感情に生者間のそれが勝ることはない。結果だけ見れば葉花を喰って且つ生きている又三郎の一人勝ちのように思えるが、それほどに強く欲した葉花の喰われたい・喰いたい対象となり得なかった時点で、喰おうが喰われようが彼の負けは必至である。


 第4話の儀式はつい猟奇的な描写が目を引くものの、心なしか"事後処理"的な哀愁も漂う。又三郎が葉花の心臓に「何度も歯を立てようが噛み切れなかった」のは、結局心までは手に入らなかった顛末の暗示ではないか──という読みは些か安直だろうか。


 ところで、創作においてしばしば恋愛感情や性的興奮と結び付けられるカニバリズムだが、「好きだから喰いたい」という思考がブッ飛んでいながら何だかんだ頷けるところあるせいで、憎しみをもって敵を喰う──食人を復讐完了の証とする族外食人が注目されるケースってあんまりないよなという傾向に気づいた。


 いや、私が浅学なだけで実際は全然そんなことないかもしらんけど。私の気づきが正しいとしたら、やはりロマンがないせいでせうか。



『どこまでも』 作者 藤泉都理

 https://kakuyomu.jp/works/16817139554501041586


 憎悪をもって喰らう族外食人が注目浴びるケースあんまないと云った矢先の族外食人である。


「小説はどこまで遠くに行けるか」というふわっとした裏テーマで喰う・喰われるカブリが起きるってどういうことなのとつかの間思いつつ、こういう「何が出るかな?」的な楽しさこそ間口が広いタイプの企画の醍醐味だよねとも思ふ。


 さて、族外食人が取り上げられている手前、血で血を洗う攻防が繰り広げられているのかと云えば、別段そんなこともない。烏天狗は人魚に喰われて(「霧と化した烏天狗の一部が身の内に落ちてゆく」をここでは”喰われた”とする)もすぐさま元通りだし、烏天狗の毒に侵された人魚は薬草で元通りになる。


 じゃあ、緊張感に欠けるのかと云われたらこれまたそんなこともなく。


 何分「人間と妖怪が一緒に森を創る」世界観なので、喰われたらそこで命はお終いという当たり前がそもそも通用しない。地球上の生き物基準の浅い緊張感など、端からお呼びでないシステムなのである。


 人間と同じような背格好で、同じような言葉を喋る妖怪は数多の創作に登場するが、案外人外感乏しいというか、コイツにわざわざ妖怪という設定当てはめた意味なんなん? と思うケースがざらにあるので。こうした点にその意味を覗かせてくれるのは、元妖怪クラスタとしてちょっと嬉しい。


 余談だが、拙作『僕と千影と時々オバケ』に出て来る鬼神が非常に人間臭い(且つ面倒臭い)のは、彼らの正体が厳密には鬼神でないからである。ヒヒイロゴケとかいう人の思念によって形を変えるトンデモ物質が、人の抱く鬼神のイメージを雑に演じているに過ぎない。

 

 余談セカンドシーズン。「人魚」や「烏天狗」を冠する存在が、人とほぼ対等のスケールに納まり、お喋りしたりお薬を塗ったり喰う喰われたりする話を読んでいて気づいたのだが、どうも私はその手の作品を特撮に脳内変換して読むクセがあるらしい。


 漫画でもアニメでもなく特撮である。中に人入っている感が拭い去れない、と云うか別段隠そうともしないアレである。山田玲司氏の言葉を借りるところのわかっている者同士の幸せな共犯関係である。作り手が「サメは飛びます!」と云うのであれば、本気で楽しみたい観る側のスタンスは「飛ぶよね~」でイイのである。


 その辺りはどうも書く際にも影響が出ているのか、たとえば拙作『ERAZER Reboot』の戦闘シーンなんかは読み返すと随分特撮めいている。敵は人外なのだから関節なんていくらでも曲がらない方向に曲がっていいと思うのだが、あろうことか作中の人外は合気投げに引っ掛かるし、関節可動域はヒトのそれと大差ないし、脚の付け根を削がれればのたうつ、まっこと人にやさしい親切設計である。人外とやらは極めて精巧に造られた、しかし一目で実在しないとわかる着ぐるみを纏っているに違いない。


 そろそろ着地点を見失いそうなのでこの辺にしておくけれど、兎にも角にもそういう気づきを与えてくれた作品。あなたは普段小説を読むとき、何で脳内再生しているだろうか。



『文学コラージュ・衝突する文豪たち』 作者 柴田 恭太朗

 https://kakuyomu.jp/works/16817139554732227180


 講評を書く側の講評力を試してくるタイプのエキセントリックな作品。あと紹介文で「誰でも知っている」と圧かけてくるのやめてほしい。私が知っていることと云えば、かの平家物語が鴨長明の文章力が素晴らし過ぎたためか、方丈記から治承の辻風の描写を丸パクリしていることくらいである(ただし、平家物語の著者が鴨長明ではないかとする説もある)。


 個人的にユニークだと感じたのは「形態素解析して、文豪自身のボキャブラリから私が選択して置換した」という執筆過程が読めば何となくわかってしまうということ。


 ──いや、こればっかりは御作の紹介文に事前に目を通しているわけだから、当然と云えば当然なのだけれど。とどのつまり、AI創作という手段をピンポイントで云い当てることはできずとも何かしら特異な工程(この場合は特に他者の言葉を借りたという点)で生み出された作品だということは案外伝わってしまうものだなぁと。


 たとえば小説に限らず、歌の歌詞なんぞでもそれこそ形態素解析して誰かしらの言葉を選択・置換したような複雑怪奇なものはままあるが、それでもそれらはそう見えているだけで実際は作り手の心象風景がベースにあるのだろうなぁとか、この詞には血が通っているみたいな気配が何となく読めてしまうわけである。


 一方で御作の場合は、特異な工程から生まれた”風”ではなく事実特異な工程のもと生まれた作品であることが容易にわかってしまったので(無論前述した通り紹介文は先に読んでいるわけだから、後出しジャンケン感は否めないが)。これを察してしまう理由は何なのだろう、オリジナルだからこそ出せる文章のリズムやらが原因なのかしらんなどと色々想像を巡らせている次第。


 ところで、最近YouTubeで武術・武道系のチャンネルをよく観ている。中でも最近の推しは影武流合氣体術の雨宮宏樹先生なのだけれど、先生曰く思と念──思って念ずるがあるのとないのとでは、同じ身体操作から繰り出される技でも効果が全く違うとのこと。思って念ずるとき、やはり言語化は欠かせないわけで。もしかすると、人には文面から書き手の言霊めいたものを察知する能力が備わっているのやもしれぬ。

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