第44話 耳元で衣擦れの音がした
# 44
耳元で衣擦れの音がした。
目を開けると、そこにはベッドの隅に腰掛け、カーテンの端を摘んで窓の外をじっと見つめるジーンの姿があった。
「眠れないの?」
「ううん。見ていただけ」
僕はもう一度目を閉じた。だが、眠りは訪れそうになかった。
「何が見える?」
「街。静かな」
彼女の輪郭の向こう、窓の外にはどこまでも続く未明の新宿の空が見えた。
「ねえ、もっと気楽に書いてみたら」彼女は窓の外に向かってそう呟いた。「わからなくたっていいじゃない。愛することができれば。それで」
今は何時なんだろう? 世界はきっともう十月に変わっている。
「人間なんてね、ただの遺伝配列に過ぎないのよ。二万とちょっとの遺伝子の集まりなの。二万字なんて短編小説でしょう? みんな短編小説。そう思えば少しは気が楽にならない?」彼女は僕の手をとる。「幸せになりましょうよ。ふたりで」
「うん……」
幸せ。その言葉の意味を理解しようとする時、僕はいつも自分が子猫と過ごした数ヶ月の時間について考える。その意味について、その在処について考える。それは僕の頭の中の世界にしか記憶されていない。子猫の姿は僕の目にしか見えていない。あの胸の痛みは僕の心にしか残っていない……事実をもとに人は世界を作る。例えば物語を、例えば人間を、例えば自分自身を。そして、何度も過ちを犯し、挫折しながら書き直していく。振り返って、赤字を入れて、少しでも長い魔法をかけられるように。
「でも気楽に書くことなんてできないよ。気楽に愛せないのと同じで」僕は寝惚け眼を擦り、起き上がると彼女を後ろから抱きしめた。
「僕は知りたいんだ。君のことを。僕のことを。もっとたくさんのことを。言葉にしたい。言葉にしなくちゃ存在しないのと同じさ。ウィトゲンシュタインも言ってる。『語りうるもののみを語ること。そして語りえぬものについては、沈黙せねばならない』って」何かが起こるたびに僕は、その言葉を自分に言い聞かせてきた。そして多くの場合、沈黙を決め込むことになった。
「どうして?」彼女は掠れそうな声でそう言った。「どうしてそんなに知りたがるの? 楽しいことだけ考えていればいいじゃない、ふたりで。本なんて誰も読まないよ。言葉なんて誰も求めない。みんな忙しいの。そんなことよりももっと楽しいことが沢山あるから。違う?」叩きつけるような彼女の言葉に僕は思わず耳を塞ぐ。
「ねえ……キミも早く二十一世紀においでよ」
二十一世紀。そうだ、僕は二十一世紀にいるんだ。誰もが待ち望んだ二十一世紀に。自由と豊穣の二十一世紀に。
「君は……何もわかってない」僕はそう言って首を横に振った。
「キミこそ!」
彼女は岬に立ち尽くすように窓の外の世界をじっと見つめていた。どうしてこんなことになったのだろう? 僕らはどこで釦を掛け違えたのだろう? 映画のジャック・ニコルソンはいつ狂ってしまったのだろう? 彼女の瞳が映す世界。僕には描けないどこか寒いところ。それは二度と触れられない場所へ、彼女を連れ去っていきそうに思えた。沈黙がもたらす強い重力。それに逆らうように、僕は慌ててベッドサイドのプレーヤーの電源を入れた。薄明には不似合いのボサノヴァ音楽が枕元のスピーカーから部屋に飛び込んで来た。
「ねえ、この世で二番目に最悪なことって何か知ってる?」
「さあ……」
「好きでもない音楽を浴びせられることよ」
「ごめん」そう言って、僕はすぐに電源を切った。部屋にまた無音の世界が戻ってくる。
「それじゃあ、この世で一番最悪なことはわかる?」
僕は、明け方に訳のわからないボサノヴァ音楽を聞かされること以上に酷いことはないか頭を捻らせてみたが、答えは出てこなかった。
「それはね……自分で解決すべき問題に誰かを巻き込むことよ」彼女は何かを決心するようにそう言った。「短編小説の中にだって、どうにもならない不具合が見つかることがある。狂気は知性と同じ。説明できないの。いきなり現れて身体中を蝕む。そして、爪先まで侵食された時にようやく理解ができる。
わたしたちを縛り付けたのはきっと言葉だった。『何かであらないといけない』っていう強い言葉。だけどね、わたしたち十分幸せだったのよ。家族で団欒して、ベルマーク集めて、十分幸せだった。いつまでもそんな風に生きていたかった。それだけなの。それだけで十分だったの」
僕の鼓動の上に彼女の鼓動が重なる。彼女の彼女にしかない幸せな時間。誰かの言葉が、誰かの狂気がそれを壊した。
「わたしには、どうにもできないことばかりだったな……」
「君は何も悪くないさ」
「キミは何もわかってない。ねえ、もうわたしの中でそれは始まっているの。身体の内側から自分が損なわれていくのがわかる。細胞の一つ一つが悲鳴をあげて、わたしに命令するのよ。壊れてしまえって」
魔法が解かれていく。どうしようもなく。魔法が解かれていく。
「……ごめんなさい。でもね、ドーキンスの言葉を借りれば、わたしたちなんて死に行く運命にある生存機械に過ぎないのよ。だから、余計なことなんて考える必要ない。そうでしょう?」
「……………………」僕は答えなかった。
「わたしたち結局、棺桶に入るの。どんな風に生きようと、何を思い描こうと」空知らぬ雨が彼女の頬を伝い、僕の左手の甲のあたりを仄かに湿らせた。「ねえ、キミはわたしにも名前をつけるのかしら? わたしのことも書いてくれる?」それは花弁の上を伝う数滴の雫のような、ほんの僅かな涙だった。
「……書くよ。僕が連れ出してみせる。君を窓の向こうに」
「ありがと……」そう言って、彼女は六年と七日振りの涙を拭うと、目を閉じた。僕も同じように目を閉じた。風の音がした。二人の呼吸の音がした。その時、僕らはきっと同じ景色を見ていた。同じ世界の同じ言葉で。
「眠った?」
「ううん、考えていたの」
「何を?」
「キミはこれからどんな言葉で世界を作るのだろうって」
朝日に照らされたホテルは中世のお城みたいな建物で、エントランスには小さな噴水まであった。
「このままどこかへ行ってしまいたいね」
「どこへ?」
「遠い遠い外国だよ」
「ブラジルとか?」
「そうだね。ボサノヴァ聴きながらコーヒーを飲むんだ」
「素敵」
外は十月の秋晴れで、澄み切った空の向こうには時計塔が見えた。
「今日みたいな日をずっと残せたら幸せだと思わない?」そう言って、彼女はカメラを取り出すと、愛おしそうにシャッターを切った。
「もっと良い日を作ればいいさ」僕はそう答えた。
「今日よりも素晴らしい日なんて来るのかしら?」
「来るさ。きっと」
電車がやって来ては何処かへと去っていく。相変わらず夥しい数の人々がこの街を横切っていく。
「またね」ジーンはそう言って、手を振った。
僕も「またね」と手を振り返した。
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