第43話 あ、あんたは、は、入れないよ

# 43

 「あ、あんたは、は、入れないよ」

 入口の前、黒いレインコートを纏った小人のような男が、ヘラヘラと下卑た笑みを浮かべながらそう言った。

 「こ、ここに入れるのはス、スーパースター、つ、つまり……選ばれた人間だけさ」

 男からはお香のような甘い香りがした。顔は青白く、歯はボロボロで、二つの眼球は焦点を失っている。

 「絵が見たいんだ」

 「絵?」

 「僕の友達が壁に描いた絵だよ」

 「え、絵ねえ……」男の目が芋虫のように蠢く。

 「一目でいいんだ。入れてくれないか? 頼むよ」

 「イ、イヒヒ、ウヒヒ……」男は下唇を噛み、意味もなく笑った。

 「バットマン、スーパーマン、スパイダーマン」そして、からかうように大声で歌い出した。

 奴が消えてすぐ、あのスクラップヤードの時代遅れのネオンサインもこの街から姿を消した。だが、建物は取り壊されなかった。どこかの酔狂な資産家が店を丸ごと買い上げたのだ。今ではそこは「フォートラン」と呼ばれる場所になった。

 「あんたらの仲間にしてくれなんて言わない。ただ、もう一度だけ奴の絵を見たいんだ。チープな電子データじゃなくて、汗や熱を纏った本物の絵を!」僕はほとんど叫んでいた。


 匿名の絵とそれについての言葉をすべて検分するのには、丸二日がかかった。人々は海を放浪するあの絵に様々な名前をつけていた。絵の贋物を売ろうとする者や「あの絵は自分が描いたのだ」と叫ぶ者もいた。それはある種の拒否反応にも思えた。正常な細胞が異物であるウイルスを浄化するための。

 「何事だ?」

 僕の叫び声を聞きつけたのか、奥の方から高そうなスーツを着た男がやって来た。

 「こ、このジョーカーが、え、絵を見たいと抜かすんもんで……」小さい男は両手を揉み合わせ、スーツの男に言った。

 「絵だって?」

 「僕の友達が描いた絵です。この店の壁に」

 それを聞くと、男は腕を組み思案顔をした。

 「君は誰だ?」

 「画家の友人です」

 「ボ、ボス! そ、そいつはビザロかもしれませんぜ」

 「うるさい! お前は下がってろ」

 「ヒ、ヒィイ」

 「無礼を働いてすまなかったね」スーツの男からは仄かに香水の香りがした。上品で都会的で色気のある……そう、ちょうどイヴ・サン・ローランのような香りが。そうやって見ると、彼の出で立ちや身なり、そのすべてが僕にイヴ・サン・ローランを思わせた。

 「あの絵が見たいのか?」

 「ええ」

 「そうか……でも、戻れなくなるかもしれないよ?」洗練されていて、でもどこかがらんどうな眼差しが僕を捕らえる。「あれはね、君が思っているよりもずっと重く、どろどろと粘っこいものだ。寝不足の溶岩のようにね」サン・ローランは目元に皺を寄せて、どこか寂しげな表情をした。そうすると、彼は急に随分と歳を重ねているように思えた。実際のところ、彼は三十代のような表情も、五十代のような表情も、はたまた七十代のような表情さえも持ち合わせていた。そこには歳を重ねる順序をどこかで間違えてしまったような、不気味なちぐはぐさがあった。

 「そして、いつまでも消えない。君が幸せを掴もうとする度に姿を現わす。誕生日の日の虫歯みたいにね」彼と話していて感じることがあった。そして、きっと彼の方もそれを感じていたと思う。

 「ハングリーであれ、そして愚かであれ」

 「なんだいそれは?」彼は物珍しそうに眉を上げた。

 「奴がよく言っていた言葉です」

 「ハングリーであれ、愚かであれ……か。悪くない。わかった。中へ案内しよう」彼はやれやれといった様子でドアーに手をかけた。その姿はどこか嬉々としているようにも思えた。そして、僕たちはそのことをあらためて確認しあった。つまり、僕たちはどこかよく似ているということを。


 重たいドアーを開けると、壁一面が青白い光で照らされていた。

 「ここにいられる資格は一つ。あの中に名前があるかどうかだ」光の中を指差し男は言った。それはインターネットの海が投射された無数の銀幕だった。

 「あれは巨大な海だよ。思考する海だ。そして、私たちだ。もちろん、君も例外ではない」

 EDMの騒々しい重低音が身体を揺さぶる。銀幕の内側ではまるで呼吸をするかのようにゼロとイチの数字が蠢いている。

 「誰もがスターになれる時代だ。ウォーホルも言っているようにね。だからこそ、私は特別なものが好きだ。美しいもの、儚いもの、尊いもの」

 「虚しくないですか?」

 「人生に虚しくないことなんてあったかな?」

 耳を貫くライザーサウンドがボリュームを上げる。

 「絵はどこです?」

 「まあそう焦るなよ」そう言って、彼は僕をフロアに招いた。

 「ここは地下に建国されたユートピアだ。何もかもがある」彼の後について、螺旋階段を降りていく。そこは確かにかつてのスクラップヤードだった。

 「君にも気に入ってもらえるといいんだけどね。酒はどれも飲み放題だ。食べ物も好きにやってくれ。わかっていると思うけど、君は特別なゲストなんだ」

 コンクリートの床に並べられた真っ赤なソファと幾何学的なデザインの背の高いスツール。そこはスターの溜まり場と変わっていた。映画俳優やミュージシャン、政治家や資産家、作家やファッションデザイナー……フロアには誰もが知っている時代の顔が並ぶ。


 「おや、見ない顔だね」マネの絵のような燕尾服を着た恰幅の良い男がそう言った。

 「彼は今日からゲストになったのですよ」サン・ローランが答える。

 「そうかそうか。ウェルカム! 今から君もスーパースターさ」燕尾服の男はそう言ってシャンパンの杯を掲げた。

 「ほら、君も飲むんだ」そう言って、サン・ローランが僕に酒を渡す。

 「なあ、新入り君。ここは素晴らしい世界だと思わないか? 酒も女も芸術も……靴下から飛行機まで。欲しいものは何だって手に入れられる」燕尾服の男は愉快そうにシャンパンを煽った。「我々は洗練されてきた。多くの過ちを乗り越えてね」

 「はあ……果たしてそうでしょうか?」

 「戦争をして、宇宙を知って、今が間違いのはずがないだろう」

 「今が間違いでないのなら、どうしてこんなに息苦しいんです?」

 「それは君がまだ少し遠回りをしているだけさ。いずれわかるようになる。手を取り合おう。我々は素直な人間が好きなんだ。雑音に惑わされることなく、適度な消費を好み、それでいて自分は誰よりも自由だと信じている。そんな人間がね」

 「僕にはよくわかりませんね。少なくとも僕の趣味には合わない」

 「君ねえ……」燕尾服の男は真っ赤な顔をいっそう赤らめ、僕を睨みつけた。

 「やめないか」サン・ローランが僕の服を掴む。「失礼しました。ミスター」

 「まったくだよ。解せんな。あんな奴にあの絵を見せる価値があるのかね?」

 「あちらも我々のゲストでして」

 「まったく。あまり風紀を乱さんでほしいね。我々は次の時代の人間なんだ」燕尾服の男はそう言って、もう一度じっくりと僕を睨み付けるとその場を後にした。

 「上客なんだ。トラブルは勘弁してくれよ」

 「僕には関係ないですよ」

 「おいおい、金を稼ぐのも大変なんだぜ。金がないと絵も掛けられない」そう言って、サン・ローランは僕の肩を叩いた。「なあ……君もあまり深く考えない方がいい。これは人生の先達者としてのアドバイスだ。個人が感情を持ち過ぎると社会が揺らぐ。ダーウィンの言う適者生存だよ」

 フロアではひどく産業的な四つ打ちの音楽が永遠と流れ続けている。人々は檻の中で回遊する。渦に飲み込まれ、渦を生み出しながら、自分は自由な鳥だと信じて。

 「そうだ、酒を飲もう。酒は簡単だよ。一口飲む、気分が良くなる。また一口飲む。そして、朝になれば全部尿になって流れる。最高さ。セックスと違って余計なことを考えずに済む点もね。極めて即物的だ」

 バーカウンターで僕はブルームーンをサン・ローランはバーボン・ウイスキーを注文した。


 「どうした? これからあの絵が拝めるっていうのに浮かない顔だね」ウイスキーを傾けながら彼はそう言った。

 「わからないだけですよ。ここでの振る舞い方が」

 「『僕は見た……』ってか、いつまで詩人でいる?」

 「誰だって詩人ですよ。いつの時代も」

 「詩なんてもんは、今じゃ池の亀しか読まない。埃を被った骨董品だ」

 「それならなぜ、あの絵を残したんです?」

 「なぜだと思う?」

 「さあ」

 「死の匂いがするからだよ」

 「死の匂い?」

 「こことは別の世界の匂いさ。金を使って、奴らの機嫌を取って、どうして私がこんなことをするか、君にわかるかい?」

 「わかりませんね」僕は肩を竦めた。

 「第三の世界を作るんだよ」

 「第三の世界?」

 「何もかもが交換できる資本主義社会だ。はっきり言って、金があれば大抵のものは手に入れられる。だけど、手に入れられないものある」

 「それがあの絵ってわけですか?」

 「そうだ。そして、これから世界は新たな時代に入る。素晴らしい時代だよ。幕の中で夢を見続けるんだ。痛みも苦しみもない場所で誰もが永遠を生きられる。だから、もう失うことを考える必要はない。そんなつまらないことで苦しむ必要はない」

 「苦しみのない世界に絵は必要なんでしょうか?」

 「美しいものに囲まれて生きる。それこそが至上の人生だよ。疑う余地がない。私はね、あの絵に永遠の命を与えるんだ」彼は得意げにそう言った。

 「あなたは間違ってる。そんなのイミテーションに過ぎない」

 「本物になんの価値がある? どうせ何もかもが嘘なんだよ、私たちは長い長い夢を見ているんだ。だから踊るんだよ。ここにいる連中のように。出来るだけ上手に、出来るだけ長く」

 辺りを見回すと、相変わらず人々は踊り続けていた。祝祭的一体感の中で幸せそうに。それは僕に古き良き時代の豪華客船でのパーティーを思わせた。ドレスを着た女の子と貧しい青年が恋をする、そんな古き良き時代の物語を。

 「そんな場所にあの絵を飾らないでください。あの絵はそんなことの為にあるんじゃないんだ」

 「君にはわからないんだね。いや、私にしかわからないのかもしれない。あの絵は私のためにあるんだ。あれは私なんだ」彼の目は都市の摩天楼のように空っぽだった。そこにはネオンの光が満ち、沢山の人の笑い声があり、そして、何もない。虚無だ。

 「おいおい、なんだこの落書きは?」幕の向こうから、酔った男の声がした。

 「ミスター。そちらは立ち入り禁止ですよ」慌ててサン・ローランが声の方へ向かう。

 「こんなものは芸術じゃない。神への冒涜だ。気分が悪いね。今すぐ消してくれ」酔った男は彼にそう宣った。

 「申し訳ありませんが、それはできかねます」

 「なぜだ? 俺はこのパーティーの出資者だぞ。まさか君は俺がいくら出したか忘れたわけじゃないよな?」

 「もちろんです、ミスター。しかし、この絵は私のものなんですよ」

 「この落書きがか?」

 「ええ」

 「おいおいよしてくれよ。君みたいな人間が冗談を言うなんてらしくないぞ。こんな落書きは社会の毒だよ。劣悪なウイルスだ」そう言うと、酔った男は何を考えたのかズボンを下ろし、壁の奴の絵に小便をかけた。


 「やめろ!」

 そう叫び、僕は男に掴みかかろうとした。銃声がしたのはその時だった。

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