第26話 ジーンの部屋は二〇一号室で、階段を上ったすぐ先にあった
# 26
ジーンの部屋は二〇一号室で、階段を上ったすぐ先にあった。
「綺麗にしてるんだね。五つ星ホテルみたいだ」
「広さはクローゼットくらいしかないけれどね」話しながら、彼女はサンダルを脱ぎ、丁寧に並べた。僕もそれに倣ってスニーカーを並べた。一足ずつ、全部で四つの靴が並ぶと、小さな玄関口はいっぱいになった。
「君がうちに来たら、発狂してしまうかもしれない」
「キミの部屋、行ってみたいわ。何があるの?」
「山のように積まれた本、買ったきり聴いていないレコード。それから調弦の狂った古いクラシックギター」
「面白そう」
「辞書と図鑑でジェンガができるよ。レコードでフリスビーだってできる」建物の外装とは対照的に、ジーンの部屋は何もかもがピカピカに磨かれていた。
「誰もあげたことないんだから。本当よ。男の人はもちろん、友達だってあげたことない」彼女はそう言うと、ベッドの脇の座布団を指差し、「それ使って」と言った。腰を下ろすと、シーツやカーペットから仄かに彼女の香りがした。
「いつだったかね、同じゼミの女の子がうちに泊りに来ようとしたことがあったの。一緒に新宿で遊んでいて、終電を逃しちゃって。夜中の一時とかそれくらい。わたしはそのままカラオケとか居酒屋に行ってもいいし、まあ困ったら一人で歩いて帰ってくればいいや、なんて思っていたんだけど……彼女ったら端からうちに泊まるつもりでいたのよ。わたしの最寄駅は知っていたから。『一緒に歩いて、あなたの部屋に行きましょうよ』って」
「それでどうしたの?」
「断ったわ。『今日はダメよ』って。そしたら彼女すごく落ち込んで、終いにはしくしく泣き出したの。困ったわ、泣きたいのはこっちの方だったわよ。だけど、一人にもできないじゃない? 深夜の新宿のど真ん中ですもの。だから、そのまま二人で夜を明かすことにしたの。歌舞伎町のラブホテルに泊まって」
「ラブホテル?」
「そう、ラブホテル。すごい部屋だったのよ。真っ赤な壁にいろんな器具が置かれていて、中心に細胞核みたいな丸いベッドが佇んでるの。部屋に着くと彼女はようやく泣き止んでくれた。わたしはその子の背中を撫でながら、『あなたは別に何も悪くない。ただ、わたしが人を部屋に上げることを好まないだけなのよ』って言って聞かせたの。彼女は黙って俯いていた。でも徐々に解れていったわ。安心したみたい。わたしが離れていくわけじゃないってわかって」
話しながら、彼女は鍋に湯を沸かし、甘いミルクティーを淹れてくれた。僕らは卓袱台を挟んで向き合いながらそれを飲んだ。
「それからね、彼女とはベッドの上でいろんな話をしたわ。どんな男の子が好きとか、どんな恋がしたいとか。その時知ったけど、その子の家はすごいお金持ちだったの。月のクレーターくらいの土地があって、お手伝いさんが三人もいて、お抱えの運転手さんもいて、結婚する相手までもう決まっているって言うのよ。許嫁ってやつ。しかも、その相手とはまだ会ったこともないんですって。話を聞いてて、わたし感心しちゃった。今、隣にいるこの子の肌には、おとぎ話みたいな世界が刻まれているんだってね。そして、わたしはそんなことその時まで一ミリだって気付きもしなかった」彼女がマグカップに口を付ける度に、鳩羽色の爪がひらひらと宙を舞った。
「彼女はわたしに尋ねたの。『あなたはどんな風に生きてきたの?』って。彼女にはわからないんですって。当たり前の生活ってものが。自分が酷く恵まれているってことだけはわかるの。でも、じゃあどのくらい恵まれていて、そこにはどれくらいの溝があるのか、そんなことはまるでわからないのよ」
「ブラックホールみたいだ」
「ブラックホール?」
「そこにあることはわかるのに、誰もその姿を見ることはできない」
「キミってやっぱり変わってる。でもそうね。そうかもしれない。彼女言うのよ。あなたのこと好きよって。だから、教えてくれないかって。自分はどのくらい幸せでいていいのか、どのくらい不幸なら許されるのかって。そんな話をしていて思ったの。わたしたち理解し合えるはずがないって。だけどね、わたしたちちゃんと理解しあっていたのよ。不思議なことにね」
「どうして、僕を部屋に上げてくれたの?」
「さあ? でもひょっとしたら、あの子がわたしといたがるのと同じ理由なのかもしれない」
それから、僕たちは近くのレンタルビデオ屋に行って、古いアメリカ映画を借り、卓袱台の上に置いた彼女のノートパソコンでそれを見た。コンビニで買った安いワインとクッキーを開けて、二人で一つのタオルケットに包まって。
「ねえ、明日は予定があるんだっけ?」映画のエンドロールが終わると彼女はそう尋ねた。気狂いのふりをして精神病院に入った男が、最後には本当に気狂いになってしまう話だった。
「僕には予定なんてないよ。いつだって」
「学校は?」
「どうだったろう?」僕はおどけてみせた。彼女はやれやれといった顔をして笑った。
「ねえ、例えばもう少しだけここにいるっていうことは可能なのかしら?」彼女が尋ねる。僕は首を傾け、ベッドの枕元に置かれた小さな目覚まし時計に目を遣る。針は九時を指そうとしていた。
「もちろんさ」
「ありがとう」そう言って、彼女は僕の肩に身を預けた。真っ暗なノートパソコンの画面に僕と彼女と彼女の部屋が映る。
「自分が誰かの隣にいたいと思うなんて、考えもしなかった」彼女の囁き声の振動が胸に直接染み込んでくる。それは皮膚を通過し、痺れた筋肉を通過し、血管に、細胞に、遺伝子にまでシグナルを送る。
「ねえ、キミのこと好きよ」
彼女は俯き、言葉の意味を一つ一つ確かめるようにそう言った。
「キミのことが好き。たまらなく好き」
彼女の左手が僕の右手を強く掴む。夏だというのに彼女は震えていた。
「キミを失いたくないの」
僕は痺れた腕に力を入れて彼女を抱き寄せた。彼女は恐る恐る首をあげ、僕の目を見た。ブラックホールみたいに深い眼差しだった。光も闇もない。そこにあるのはどこまでも続く虚無だ。僕はそこに死んでしまった星の影を見た。そして、その引力に吸い込まれるようにキスをした。
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