第23話 猫には生理がないのよ
# 23
「猫には生理がないのよ」そう言って、ジーンはコカ・コーラのロゴが入った赤いプラスチックの灰皿にミルクを注いだ。「セックスするときにだけ排卵するの。それってすごく効率的じゃない?」
高田馬場駅から早稲田通りに沿って少し歩いたところにアパートはあった。建物の前に着くと、「ちょっと待ってて」と言って、彼女は階段を上がり、数分後、牛乳パックと灰皿を持って戻ってきた。
「だからね。エッチしたら、ほぼ必ず妊娠するの」
そこは学生向けの古い安アパートだった。クリーム色の外装は土埃によってもう取り返しの付かないほどに燻んだ灰を纏い、階段の手すりやドアーに施された紅色の塗装も大部分が剥がれてしまっている。もちろん、エレベーターやオートロックなんてものはない。
「つまり、猫にとってセックスは子供を作ることを意味する。それ以上でもそれ以下でもない。子どもを作るためにセックスする。この子たち、みんなそうやって生まれたのよ。必然の中の偶然によって」
「必然の中の偶然?」
「卵子は用意される。でも、中身は同じじゃない」ジーンは九九を思い出すみたいに「減数分裂によって決まるの」と言った。それを聞きながら、僕はこんなところで野良猫に餌やりをする彼女の姿を想像できる者は大学には一人もいないだろうなと思った。
「だけど、そもそも人間くらいなものだよ。快楽のためにセックスする生き物なんて。他にも、未来を嘆いたり、過去を悔やんだり、死を想ったり……余計なことばかりするんだ。人間って奴は」
「どうしてかしら?」
「そうしていないと暇で仕方がないからさ。でも、実際のところ、本当にやるべきことなんて何もないんだ。長生きすること以外は」
「なぜ、長生きするの?」
「遺伝子を残すため」
「それじゃあ、子供ができたら生きる意味はなくなる?」
「遺伝子からすればそうかもしれないね。でも、僕らは遺伝子じゃない。人間だ。だから生きないといけない」
「少しはこの子たちを見習って、ぼうっと欠伸でもしていればいいのに。軒先やら屋根の上やらで」
五時のチャイムが街に響いた。いつの間にかアパートの階段の下には、彼女に餌付けされた何匹もの猫が集まっていた。それは僕にディズニーランドのアトラクションの行列を思わせた。夢と魔法と鼠の国。
「猫はある意味ではとても社会的な生き物なんだ。群れないし、余計なことをしない。自分のことだけ考えて、自分自身で行動する。民主主義がどうのだとか、社会主義がどうのだとか、そういうことを考えない」
「猫に聞いたの?」
「まあね」
「ねえ、もしも宇宙人がやって来たら、この子たちどうすると思う?」
「宇宙人?」
「もしもの話よ。UFOに乗った宇宙人が突如飛来するの、猫の世界に」
「うーん。対して関心は寄せないんじゃないかな」
「どうして?」
「他人のことを知ろうなんて思わないから」
「それでもわたしはこの子たちのこと好きよ」
「僕らと猫はもっと深いところで承認しあっているんだよ。だから、お互いを知り過ぎなくても好きでいられるんだ」
「そんなこと考えもしなかった」
「あくまでも僕の意見だからね。それにもし君の言う宇宙人が鼠の形をしていたら、話は別だよ」そう言うと、彼女はけらけらと笑った。
「キミと話していると、いろんなことがまあるくなっていくような気になる。物事に与えてきた意味の角が取れるというか。そんな感じ」
日が暮れはじめ、雀色の空を水墨画みたいな雲の欠片がゆっくりと流れていった。
「わたしね、不順なの。ずうっと前から」彼女は生まれる前の細胞まで遡るような勢いで「ずうっと前」と言った。
「いつもお腹が痛いような、重たいような気がしている。何か吐き出したいのだけれど、吐き出せない。吐き出す何かの正体もわからない。そんないやあな感じよ。それなのにね、みんなわたしにいろんなことを求めるの。いつも笑顔でいないといけないし、可愛くしてないといけない。挙げ句の果てにはくだらない話にも付き合わされなきゃいけないの。酷いと思わない? こっちはいつも質の悪い風邪をひいているような状態なのに。キミだって、熱でぼうっとしている人には優しくしてあげるでしょう? ちょっと休みなよって、声をかけてあげるでしょう? 少なくとも、放っておいてあげるわよね?」そこまで話して、彼女はハッと口を噤んだ。「いけない。わたしも同じことをしちゃってるわね。不安定なジーン、欠陥持ちのジーン。困ったものだわ」
我先にと顔を埋める猫たち。ミルクが減り、皿の底にだんだんとコカ・コーラの赤が広がっていく。その輪の外で茶色い毛の小さな猫が一匹、もどかしそうに他の猫たちの背中を見つめていた。
「いつもこんな風に餌やりしているの?」
「ご飯は用意される。中身はいつも同じ。ミルクと缶詰」
足元で一匹の猫がニャアと鳴いた。彼女は牛乳パックを逆さにし、中身を全部皿に注いだ。
「食べないと餓死しちゃうわよ。この子達。見て。こんなに痩せて、毛だってボロボロよ」
「うん」
「もちろん、こんな風に餌やりするのは良くないことだってわかってる。それじゃなくたって、放っておくとどんどん増えちゃうから」
輪の外の茶毛猫は決心したようにコカ・コーラの皿へと向かっていった。群がる猫たちの隙間に身を潜り込ませ、背中によじ登ろうと足をかけて。だが、すぐに体格の良い猫がギャーと声をあげ、茶毛猫を振り落とす。他の猫たちも一瞬ミルクを舐めるのを止め、その様を見つめる。
「あの子はいつもこうなの。弱い上に不器用なのね」茶毛猫は肩を落とし、また輪の外に戻った。
「数ってやつは、時に暴力装置になるんだ。個人の意思とは関係なしにね。それは猫の世界でも変わらない。悲しいことにね」
「必要なのかしら? 人間による適正な管理ってやつが」
「猫は考えないよ。余計なことは」
「そうね」猫たちは食事を終えると散りじりに去って行った。強い風が吹いて、隣家の青いビニールシートがザアッと海鳴りのような音を立てた。
「みんなが幸せになれればいいのに……」
折れた物干し竿が倒れ、トタン屋根が軋みをあげた。風は雲を集め、空は暗くなっていった。
「今夜は雨になるのかな?」僕は空を見上げ、独り言のように呟いた。夜さりのモノクロの中、彼女の手のコカ・コーラの赤だけが何かの始点のように色を持っていた。
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